0003安隆治の取材メモA01
(三)
◆スポーツライター、安隆治の取材メモより2017年12月25日分
このノートを引っ張り出す日が、また再びやってこようとは思わなかった。手垢に塗れ、星霜に変色した、分厚い大学ノート。表紙には『プロレス取材メモNo.33』とマジックで書かれた文字が、色褪せながらもしぶとくへばりついている。最後の日付は十年前、2006年6月18日だ。元プロレス団体社長、武沢正太氏の三回忌に、かつての所属選手として一人参加した乃城景。彼の口から生前の恩人に関するエピソード――様々な構想――を語ってもらったのだ。これにしても、直前の記入から一年にもおよぶ空白の月日がある。
今、俺は頭にきている。怒髪天をつく、はらわたが煮えくり返る……この怒りを表わすには、何と表現したらいいだろう。こんなことがあっていいのか。悔しくて、悔しくて……。
今日味わった、味わわされた屈辱、怒り、悲しみ。俺はその全てを、余すところなく描く。それでこのノートもおしまいだ。二度と、今度は開くことさえないだろう。ああ、畜生!
俺は1980年代、テレビでプロレスを観て育った。人気絶頂の頃だ。今の『瀕死』状態からは想像もつかないほど、日本中がプロレスに熱狂していた。毎週金曜日の夜八時、プロレスラーたちは血と汗のしぶきを上げながら、ブラウン管の向こうで闘い続けた。俺は画面に釘付けで、握った拳を振りながら、声を枯らして応援していたものだ。
無邪気な、純粋な時代だった。プロレス雑誌の記者を志したのもその頃か。「右足のない」俺には、プロレスラーになる夢など見ることすらかなわない。だけどせめて、プロレス界に関わりたい。
数年後の1988年。高校を出た俺は、プロレス雑誌編集部のバイトにありついた。当時、すでにプロレス界の人気は下火となっていた。しかし大手団体はまだまだ健在で、ドーム興行も成功の範ちゅうにおさまっていた。俺は記事こそ書かせてもらえなかったものの、プロが集める最新情報を真っ先に拝めて嬉しかった。
しかしその後の1990年代は、プロレス界を奈落の底へと突き落としていく。すでに亡くなられた恩師・井野さんは、それを予測していたのだろう。格闘技雑誌の編集者というポストへ、俺を推薦してはめ込んだのだ。
俺はプロレスから離され、最初こそ彼を恨みさえした。しかし正社員としての仕事は、質量ともに半端でなく、忙殺される日々は負の感情を忘れさせた。また、格闘技が面白かった、という事実もある。いざ潜ってみれば、格闘技の海は奥深くて底知れない、怪しい魅力をたたえていた。2000年代の人気爆発に向け、格闘技界は胎動を始めていたのだ。
したがって、プロレス界が次々とさらす醜態も、それに基づく業界全体の地盤沈下も、俺の生活には無縁だった。いや、会社的にはプロレス雑誌の休刊でダメージがあったし、俺の心にも寂寥の寒波が忍び込んだ。だが人気回復にあがいたプロレス界は、芸能人を次々にリングへ上げて試合をさせるなど、恥知らずの迷走を始める。その堕落した姿は、かつて俺が憧れたそれから、遠くかけ離れていた。幻滅は執着を切断する刃だ。俺は目をそむけ、格闘技界に本腰を入れる――この世界で生きていくことを決めた。
2000年代の格闘技ブームの頃、俺は独立してフリーのスポーツライターとなった。井野さんに導かれ、早くから格闘技界に精通していたからか。豊富な知識を蓄えていたからか。俺はいつの間にやら『格闘技界のご意見番』という地位に収まっていた。業界のあちこちから、「何か起きたらあいつに書かせろ」という信頼を得ていた。おかげで仕事には困らず、収入は年を経るごとに増えていった。結婚したのはその数年後。最愛の妻との間には、やがて二児の恵みがあった。
順風満帆。こうして47歳の今、年老いて顧みるに、悪くない人生だ。毎日は幸せで、何の不満もない。望んでいた充実は、全て手の内にある――
……だが、違った。違っていたのだ。その幸福は見せかけに過ぎず、生み出す心は自分自身にあざむかれていた。この数十年間、俺は全く満たされてはいなかったのだ。夫や父としての俺を満足させても、男としての俺は空っぽであり続けた。そのことを、俺は奴の訪問で思い知らされた。
奴――そう、旧来の友、乃城景。彼が深刻な顔で相談に来たのは、今日の昼過ぎだった。
俺はちょうど仕事の手を止め、洗面所でヒゲを剃っていた。ぼさぼさの白髪を黒く染めたついでだった。細面で神経質そうな顔なので、息子からはヒゲを伸ばせと再三再四野次られている。多少は人懐っこい顔になるはずだ、というのがその理由だが、仕事柄身だしなみに手を抜くことはできない。玄関のチャイムが鳴ったので、俺は丸眼鏡をかけ、足早にインタホンへ歩み寄った。乃城と確認する。ドアを開けた。
「クリスマスなのに不景気なつらだな」
からかってみたものの、彼の顔はこわ張ったままだ。さすがに俺も笑みをなくし、「上がれよ」とうながした。
家には俺だけだった。書斎のパソコン――『大晦日格闘技の見所』『2017年を振り返る』などの書きかけ原稿が表示されている――は放って置く。夾雑物のないクラシックな居間は我が家の自慢だ。そこのソファへ乃城を座らせ、熱いコーヒーを渡してやる。俺は真向かいへ腰を落ち着けた。ガラステーブルにカップを置くと、冬の音がした。
「これを読んでくれ」
乃城がふところから取り出したのは、偉く豪奢な封書だった。ゼニーズ事務所から乃城宛てだ。中の文面に目を通す。『ゼニーズ運動会2017』でプロレスの試合――俺は訊問するような口調で確認した。
「もちろん、断ったよな」
乃城は声もなく苦笑した。
「さすが、察しが早い」
「断ったよな、と聞いてるんだ」
俺の問い詰めに、乃城は首を振る。
「言っただろう。相談しに来たって」
「当ててやるよ、その内容」
俺は苛立たしく、熱いコーヒーを一息に飲み干した。
「この前のスポーツ新聞――オッサンスポーツだったか? あれに記事があった。『ゼニーズ運動会2017』でプロレスの試合をやる、ついては雷武とかいうガキの対戦相手を探している……ってな。俺はあれを読んだ時、唾を吐く場所を探さなきゃならなかった。こいつらはプロレスを、プロレスラーを馬鹿にしてる。プロレスラーに対して、スポーツ歴のない中学生と闘って負けろ、と言ってるんだ。あいつらはプロレスラーを、そんなものだと見下していやがる。金さえ積めば、そんなピエロも喜んで演じるんだ、とな。ふざけやがって」
憤激がよみがえる。俺はマルボロをくわえて火を点けた。脇に向かって煙を吐き出す。乃城の疲労した声が耳に侵入した。
「そこまでは書いてないだろう。それに――まあ聞けよ――プロレスが芝居だってことは、もうとっくの昔に世間に浸透してる事実だ。俺も入門してからは、芝居としての闘いを、リアルなプロレスってものを教えられたよ。それに2000年代じゃ、どの団体だって、リング上はレスラーより芸能人の方が多かったくらいだ。芸能人が片手間にできる、台本付きのスポーツ。プロレスはもともとそういうものだっただろ」
俺は吐き捨てた。
「だが昔は芸能人なんか上がらなかった。心身を鍛え上げたプロレスラーだけが、マットに足を踏み入れることを許されたんだ。本職でない芸能人相手に、おべんちゃらのプロレスでご機嫌うかがいか? そんな真似をやってる野郎は、プロレスラーなんかじゃない。ただの仕事人だ」