0025雷武扉の日記02
だんだん感情が高ぶってきて、最後は吐き捨てるようになってしまった。駄目だ、落ち着かなきゃ。この人に当たり散らしてどうするの? 心の振幅を押さえ、なだめすかしながら、僕は語を継いだ。
「約束を破って、僕を殺そうとして、謝りたい? それなら最初からすんな。……と、思います、僕は。海外でプロレスの試合をするなら、しに行けばいいでしょう。僕には関係ない」
僕は喋りながら、真樹さんの変化に気付いていた。僕が激する一方で、彼女はむしろ落ち着きを取り戻しつつあった。少なくとも、最初の挙動不審な態度はやわらいでいる。
「違いますか。真樹さん」
声を荒げた自分が次第に恥ずかしくなってきた。僕は面目を保つべく、継ぎはぎするように冷たく言い放った。真樹さんはひたと視線を向けてきた。心の奥まで覗けそうな、そんな瞳だった。
「ううん、違わない。違わないけど、さ」
まつ毛を伏せて、カップを取り上げる。紅茶を口にした。微かに手が震えて、片手から両手に切り換える。正確に皿へ戻した。
「それはでも、あたしのパパに言うべきことじゃないかな」
それは鉛みたく重たい論評だった。認めざるをえない正しさがあった。そう、今僕がわめき立てた台詞は、乃城さんにこそぶつけねばならない代物だった。
真樹さんは両手を組み合わせると、そこに目を落とした。言うべき文章が刻まれているかのように、つかえず推測をたたみかけた。
「それを面と向かって言えないから、だからあたしを身代わりに立てて、そのためにあたしを招き入れた──そういうことだったのかな、って」
僕は顔中の血が引き潮のように引いていくのを感じた。立ちくらみさえしそうなほどだった。激怒と羞恥がスパークし、散った火花が視界で乱舞する。ふざけるな、見損なうな、僕はそんな弱虫じゃない──。魂の叫びは、だけど口の中から飛び出さず、強い何かに尻尾を掴まれた。そのまま喉の底へと引き戻される。
「そんな……ことは、ない」
やっと言葉を出せたけど、力強さも説得力も不足していた。
真樹さんは精神的な立場の逆転に気付いていない。というより、そこに優越感を得る人ではないようだった。まだ壊れ物に触れるように、言葉を選びつつ話を続けた。
「なんでみんなが雷武君に嘘をつくか、あたし分かる。雷武君が、まだ子供だからよ。──あたしとおんなじに」
彼女が自嘲気味に笑わなければ、僕は今度こそ決潰し、怒声の濁流で否定していただろう。真樹さんの顔が陰りの雲に覆われている。急な心の傾斜に耐えかねる風だった。僕は目をしばたたき、咳払いをした。
「僕が子供で幼稚だから、下手な嘘でも騙せる──みんな、そう思ってるって言うんですね?」
「ううん、違う。騙せるとは思ってない。ただ、雷武君がパパの行動を理解することがまだ無理だから──あたしみたく、ね。だから、その場しのぎに嘘を繰り返して、雷武君が忘れるまで押し通そうってことだと思う」
その指摘は正確に、僕の心中を貫いた。開いた穴から吹き出したのは悔しさだった。みんなが僕を子供扱いしている。その認識に糖分が混じっているはずもない。だけど思い当たる節があったから、僕は嫌でも飲みこめた。
「確かに、僕は──理解できない」
この一ヶ月以上、どれだけ悩み苦しみ抜いても、僕にはどうしても分からなかった。乃城さんが僕を、あの土壇場で拒絶した訳が。僕を投げ捨て、踏みにじった理由が。
「なんで……」
あんなことされたんだろう。原因すら教えてもらえないのでは、たとえ僕に落ち度があったとしても、直しようがないじゃないか。
僕は紅茶をすすった。苦味がある。そういえば、乃城さんから聞いたことがある。真樹さんは高校二年、17歳で、僕より二つ年上だ。
「自分のお父さんでも、分かりませんか、真樹さんにも……」
年の功を期待された真樹さんは、紅茶おいしいね、とこわ張った口調でほめた。
「あれが演技じゃなしに、本当に暴れてたってことは、もちろん実の娘だから分かったんだけど。ただ、なんでそうしたのか、何が嫌だったのかは……」
首を振る。茶色の髪が軽やかに浮いた。
「分かんない。教えてもくれないし。もし負けるのが嫌だったなら、最初から試合の契約なんかしなかったはずだもんね。何か別の理由があったんだろうけど。それか、あたしたちがもっと大きな勘違いをしているか。だけど、さ」
テーブルに両肘をついて、心持ち身を乗り出す。僕の両目を射込むように見つめた。
「雷武君が嫌いだから、憎らしいから、そんな理由じゃないことだけは確かよ。雷武君に襲いかかったのだって……たまたまそこに、雷武君がいたから。それだけのことだと思う。だから謝りたがってるんだろうし」
不意に微笑した。
「あたしは雷武君のファンだけど、年長者なんだから。あたしの言うこと、信用してくれていいから」
僕は背もたれに背中をくっつけていた。圧迫されたのではなく、むしろその逆だった。そうせざるを得なかった。
「……そうかも、しれないですね」
真樹さんは姿勢を戻した。微笑む。
「きっと宿題よ、あたしたちにとっては、ね」
「宿題……ですか」
在り来たりの単語は、それなのに奇妙に腑に落ちた。勉強が足らないから分からない。そういうことなのだろう。
いつか僕は、乃城さんが暴れ回った、乱闘したその胸中を、推し量れるようになるのだろうか。それができるような、大きな人間になれるのだろうか。
──僕は子供だ。
それを認めたとたん、何か複雑な錠前が、がちゃりと音立てて外れた気がした。
「砂糖入れようよ」
真樹さんが角砂糖の詰まったビンを勝手に開ける。二個でいいよね、と訊きながら、返事も待たず、僕のカップへ滑り落とした。
厚かましい所もあるんだな。そう思って、僕は吹き出してしまった。
「そうそう、苦かったよね、この紅茶」
僕の笑いを取り違えたまま、真樹さんも弾けたように笑い出した。
「ありがとうございました」
僕は心からそう言って頭を下げた。真樹さんの笑顔に見とれながら、かき混ぜた紅茶を口に含む。
今度は、甘過ぎたようだった。
◆雷武扉の通う都立某中学校、某教室の日誌より2018年2月7日分
雷武が帰って来た。昨日の夕方、街であいつと出くわしてビックリしちまった。ずいぶん元気そうだった。「明日からまた登校するよ」というから、「だったらみんなを驚かせてやろうぜ」とサプライズを持ち掛けると、ノリ良くうなずきやがった。完全復活。俺の突然の二人羽織芸で教室を沸かしてから、後ろの奴──雷武が顔を出す。二度美味しかった今日の朝は、これからしばらく語り草になるね、間違いなく。




