エピローグ
ぎらつく太陽に体もろとも溶けてしまいそうになる。
しかし荒涼とした風が吹き抜けてそれを僅かに押し止めた。そうでなくとも体が溶けるはずがないが。
「あーあ……寝ている間に夏休み、終わっちゃったよ」
そう言いながらも何故か笑顔を浮かべて。
アオイは額から流れ出る汗も構わずに太陽に光に晒されながら、校庭で走り回る小人のような生徒たちを眺めている。そこは学校の屋上だった。本来なら立ち入りが禁止されているが、鍵が壊れているので誰でも侵入できる。アオイにとって秘密の場所だった。日常を壊す、ささやかな探検。
「よぉ、やっぱここか」
振り向かなくてもわかっていた。
どこか遠慮がちにかけられた声は幼馴染でクラスメイトで親友で、そして特別な存在のもの。
「ケイゴに教えたっけ? ここ」
「んにゃ……教えてはもらえなかったけど、知ってたさ。だってこういうとこ好きそうだし」
彼はいつになく穏やかな調子だった。
いつも顔を合わせれば罵倒の応酬だったが、今日ばかりはそういう気にもなれないらしい。
何しろ話すのはあの日、アオイが拉致される直前、ケイゴたちと喧嘩別れした以来なのだ。逮捕された山崎の二階で、ベッドに縛り付けられたアオイが発見された。肉体的にも精神的にも憔悴し切っていて、そのまま病院に運ばれてしまった。ショックが抜け切るまで面会も謝絶されていた。
「へえ、あたしのことよく知ってるね」
「まあな。幼馴染だし」
得意気に言いながら、ケイゴ。
手すりにもたれるアオイの隣に、同じようにして風景を眺める。その遠い目をした横顔を一瞥してアオイは口を開く。
「でも、あたしはあんたのことわからないや……覚えてる? いまの半分くらいのちっちゃい時から喧嘩してたよね、あたしたち。でも、でもあんたは……あたしを助けに来てくれたんだよね」
「なんだよそれ、まさか好きとか嫌いとか、そんな話かよ?」
ケイゴはアオイの方に向き直って笑う。
だがアオイが笑ってもいないことに気付く。瞳に暖かいものを浮かべて俯いている。
「お、おい――無理するなよ。先生でも……保健室の先生でも呼ぼうか?」
「ううん、そんなんじゃない。なんでかな、悲しくはないのに、泣くなんて」
アオイは拭いもせずに、溜まった涙を為すがままにした。
「わかった。こうしてると、あんたの間抜け顔見なくて済む」
「なんだと、このヤロー」
怒ったふりをしてケイゴは口を尖らせる。
その瞬間、薫風が吹き抜けアオイの瞳の涙を散らす。ぽろぽろと小粒の雫が頬を伝う。それを契機に、アオイは本格的に嗚咽を漏らし始める。
「もうだめ、限界……ふぇ、ふぇえ、ふぇぇえんっ」
「げ、ちょ、鼻水つけんな!」
アオイはケイゴに抱きつき、泣きじゃくる。
ケイゴは観念して、アオイが泣き続けるのをただ黙って受け入れていた。ずっと我慢していたのだろう――勝気な彼女はあの恐怖とずっと、戦っていたのだ。
「怖かったよぉぉ、死ぬかと思った……」
「はいはい、よく頑張ったよ」
リュウジだったらな、とケイゴは思う。
彼だったらもっと優しく慰めてあげられたろう、ついでに絵にもなっただろう。だがアオイがそれを望むかは別だ。いや、彼女が望んでいるのは、別の人だ。
「全部、終わったんだよねっ? もう、何もないよねっ?」
「そうそう、終わったんだよ。何もかも。後は退屈で平和な毎日が続くだけさ……」
「びえーん!」
「…………」
やれやれ、とケイゴは胸中で嘆息する。
確かに、全てが終わった。山崎は逮捕され、全ての悪事が明るみになった。
アオイたちの計画を教室で盗み聞きして知った彼は、あの町の外で先回りをして伺っていたのだ……性的な対象として見ていたアオイを誘拐する機会を。用意したノートによってまんまとアオイは一人になった。そこまで彼が計算していたかは定かではない――だがあの後すぐにアオイは誘拐され、山崎の家に監禁されていた。
だがそれはもう一つの事件を暴き出した。
そう、十年も長い時を失踪していた少女――佐々木ミチコが自宅の冷蔵庫からミイラ化した状態で発見された。
よくそれで彼女とわかったものだが、歯型から調べれば個人は確実にわかるものらしい――ともかく、失踪扱いだった彼女は、当時、交際を迫った山崎によって殺害されていたとわかった。彼は両親が他界したことを幸いとして自宅に遺体を隠したのだ。あの時、空気に感じた妙な匂いは冷蔵庫からも漏れ出す腐敗臭だったに違いない。私を見つけてと悲痛に叫ぶ少女の声なき悲鳴。
そう、ひとつだけ、解明されていないことがあった。
あのノートのことである。あれは確かに山崎が事件を混乱させるために仕組んだことだったが、ひとつだけ彼がやっていないことがある。あの『清風学園』に現れた人影――机の中から出てきたノート。彼がやっていないという証拠はないが、そんなことをする動機も利点も存在し得なかった。では、一体誰が? 無人であるはずの町の外で何が起こった?
疑問は残るが、しかしそれのお陰だったと言える。
山崎はノートが現場に置かれたまま、警察にも発見されたものと思い込んでいた。
だが実はもう現場にはなかった。朝になりケイゴたちが学校で見つけたのが最後だったからだ。その供述を動かぬ証拠として――リュウジの携帯を通じて会話を聞いていた警官隊が突入した。あの女警部補、狗神チヅルはリュウジが度々、お世話になっている人なのだと改めて後で聞かされた。リュウジはあれでも喧嘩っ早く、時々乱闘騒ぎで御用となることがあったのだ。言葉でも服装でも拳でも自分を武装している――それが孤独な彼を支えるものなのだろう。
「ずびびびっ」
アオイが鼻を啜る音で我に返る。
彼女は目を赤く腫らしているものの、もうとっくに泣き止んでいた。すっきりしたとでも言わんばかりに呆けた笑みを浮かべている。
「ひっでぇ顔!」
「なにー!?」
泣き腫らした顔はお世辞にも綺麗とは言えない。
だがそれでも嫌いではなかった。ケイゴは彼女の美しい部分を幾らでも知っているから。
「えんがちょー!」
「バカケイゴ! やっぱりあんたむかつく!」
ふざけて逃げ出すケイゴをアオイが追う。
そんなことをしながら、ケイゴは胸中で思う。
退屈で平和で穏やかな日常。それがいつまで続くのか、いつまで続けられるのか知らない。
だけれど、この瞬間でさえ大事にしようと思う。
だって、またいつ探検が始まるかわからないから――。