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一杯の水

作者: もとき未明

「派遣希望先はインドネシアで間違いないのですね」

 受付の男性が意外そうな顔つきで聞いてきた。

 青年海外協力隊の応募窓口に訪れた大学4年の立花美里は、きっぱりと

「はい。できればスマトラ島で井戸水の浄化に取り組みたいのです」

 受付の男性は、さらに「意外だ」という顔つきで美里の顔をまじまじと眺めた。

 受付担当が不思議がるのも無理は無い。透明感のある白く瑞々しい肌。切れ長の優しげな瞳に長い睫毛。少女と見間違うほど固く小さな口元。肉薄の鼻梁と小鼻が、清楚な横顔をほどよく引き締めている。お人形さんのような美里の容姿から発せられる井戸水という単語に違和感を感じるのは当然だった。

「力仕事もありますよ。インドネシア語は大丈夫ですか?」

「はい。重い荷物を男性と同じだけというわけにはいきませんが、女にしては力があるほうです。大学で東南アジア地域の研究を専攻しているので、インドネシア語も日常会話には不自由しない程度は話せます。1年前に旅行をして山間部の村人とも友人になりましたから……」

 そう。あれは昨年の夏休みにインドネシアへ旅行に行った時のことだった。



  --1年前--

「あれがスマトラ島で一番高い山、『クリンチ山』だ。地元の人達は『神の永住地』とも呼ぶくらい神聖な山だけど、まさに神が造ったように綺麗だろう」

 道案内ガイドのサントソが指差す方向を見ると、雄大な緑を携えた神々しいほどの『クリンチ山』が朝日を浴びてそびえ立っていた。

「この山道を真っ直ぐ行けば、あのクリンチ山の中腹まで登ることができるけど、本当に一人で大丈夫なのか?」

 サントソが心配してくれたが、この旅行は一人旅が目的だった。インドネシアの人達は親日的な人ばかりだと聞いていたし、夕暮れまでには帰ってくる予定だ。

「ありがとう。陽が沈むまでには戻ってくるから心配しないで」

 そう言って、元気良く山道を歩き始めた。


 熱帯雨林特有の青々とした森林がどこまでも続き、空気は澄み切っていた。所々に見晴らしのいい高台があってクリンチ山に向かっていることを確認することができた。

 クリンチ山は活火山と聞いていたとおり、所々に噴火の傷跡を見ることができたし、道脇の土は火山灰が混じっているような泥状の粘土のようだった。

「山のあちこちから湧き水が出ているけど、絶対そのまま飲んだらダメだよ」

 サントソから強く言われていたとおり、湧き水を掌ですくってみたが、灰だけでなくいろんな不純物が混じっていて飲めるような水ではないことがわかった。

 サントソの忠告に従い、水を4リットルもリュックに入れているおかげでゆっくりにしか進めないが、その代わり景色を見渡しながら自然を充分に堪能することができた。


 目的地でもある中腹の高台からは、クリンチ山の山頂を望むことができ、展望台のようになっていて想像以上の景色だった。はるかに続く森の先に少しばかりの集落が霞んで見え、その向こうは海と空が同化したように繋がっていた。密林とはいえ川があり、ところどころに集落もあって車が走っている道も見える。

 赤道直下の真夏なのに吹き抜ける風が心地良く、心が洗われるようだった。お弁当代わりに持ってきたサンドイッチとビスケットを食べたら、後ろ髪をひかれる思いで帰路についた。

 帰り道……、山を登る時には気付かなかった大きな赤い花が木に咲いていた。カメラに収めようとした瞬間……。足元の地面が無くなっていた。



 …………。

 どれだけ気を失っていたのだろう。全身に感じる激痛で目を覚ました。

 気が付くと、10歳くらいの女の子が、濡れたタオルで私の顔についた血を拭き取っていた。

「ありがとう」

 インドネシア語で言った時、腰に激痛が走り、自分では起き上がれないことがわかった。話しにくいことから口の周りも怪我をしているようだ。

 女の子の顔がパッと明るくなり

「良かった。気が付いたのね。今、友達が大人を呼びに行っているからね」

 と、嬉しそうに答えた。名前は『スーリ』というらしい。

 スーリに手伝ってもらいながら、上体を少し起こして土手に寄りかかった。体のアチコチから血が滲み出ていたが、大怪我というほどの外傷は無いようだった。

「私の名前は『ミサト』よ。水……水がある?」

 話しにくい口を開けて、なんとかしゃべろうとした。リュックにはまだ2リットル以上の水が残っているハズだ。

 スーリは「ちょっと待って」と言って、器用に木の葉で器を作ると、少し離れたところにチョロチョロと出ている湧き水を汲み取ろうとしていた。

「その水は飲めるの? 私のリュックは無かった?」

 スーリは少し悲しそうな顔をしたが、

「リュックって、その背中の布切れのこと? ボロボロに破れているし、中身はミサトが落ちる時に全部ばら撒いたみたい」

 なるほど、両肩にリュックのベルトの感触はあるが、背中には荷物の気配がない。ビッショリと濡れている感触もあるのでペットボトルが破れたのだろう。もしかすると私の体を守ってくれたのかも知れない。

 スーリが溢さないようにそうっと運んでくれた水だったが、日本の湧き水とは違って見るからに不衛生そうだった。

「ごめんね。せっかく汲んでくれたけど……」飲むのを躊躇していると、

 スーリは「そうだね」と言って、自分で葉っぱの水を飲み干した。

 その時、

「こっちだよ」

 別の女の子の声がして、大人を数人連れてやってきた。


「クリンチ山の展望台に続く道から落ちたのかい? 上の道から50メートル以上はあるよ。よく生きていたねえ」

 現地の女の人が傷の手当をしながら話してくれた。

「立てるかい?」と言われて起き上がろうとしたが、腰と左足が痛くて寝返りをするのがやっとだった。

 二人の男性が二本の棒と毛布で即席の担架を作り、彼らの村まで運んでくれた。


 彼らの村は森の中にあって、10軒くらいの草葺の小屋が寄り添うように並んで暮らしている小さな村だった。

「こりゃ、骨折もしているようだから、町の病院に行かないとこれ以上の治療はできないね。今からじゃ山道を担架で運ぶのは危険だから明日の朝に町まで連れて行くよ」

 長老とおぼしき老人からそう言われた時には既に夕闇に包まれつつあったので、仕方なく従うしかなかった。それでも、今日中に帰ると告げて出てきたことを話すと、若者が町まで走って、サントソに無事を伝えてくれた。


 村人たちはみんな親切に傷の手当をしたり、痛いところをさすったりしてくれた。代わる代わる私の寝床を訪れては、

「あそこから落ちて生きているとは奇跡だ。神のご加護だ」

「あの山道から滑り落ちても、途中で引っかかってしまえば動くこともできなかっただろう。スーリ達に見つけてもらえたのも奇跡だ」

 などと話しながら果物などを置いていってくれた。

「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」と尋ねたら、

「日本人はみんなもっと優しいじゃないか。地震でこの村が壊滅状態だった時に、車も入って来れないこんな山奥の小さな村にまで来て家を建ててくれたんだよ」と、口々にお礼を言うのだ。

 2004年のスマトラ島沖の大地震の後に多くの日本人がボランティアに訪れていたことは、大学の講義でも教わった。津波の被害者を含めて22万人以上の死者が出た大災害だった。

 震災後で衛生状態が悪い中にも関わらず、多くの日本人が助けに来てくれたことで、村人から見ると日本人は神様と同じくらい崇拝の対象になっていた。


 ふと気が付くと、小屋の入り口に町まで行ってくれた若者とスーリが立っていた。

 スーリには悪いことをしたと思っていたので、ずっと気になっていたが村に着いてから姿を見ていなかった。

「ミサト。これ……」

 スーリが水の入った小さなペットボトルを差し出した。

「この水は?」

 戸惑いを隠せずに震える声で訊くと、若者が答えた

「さっき町まで行った時に、スーリに頼まれて買ってきたんだ。村人はみんな湧き水や井戸水を飲むけど、ミサトには安全な水を飲ませたいって」

 口の周りを怪我していることを知っているスーリはコップを用意してくれていて、注ぐとちょうど一杯を満たす量だった。

「ミサト。飲んで」

 スーリは何事もなかったかのように水の注がれたコップを渡してくれたけど、受け取る手が震えていたのは怪我をしているせいだけではなかった。

 スーリの前で平然と飲むのは気が引けたが、本当はずっと喉が渇いていて限界だった。薬草をすり潰した痛み止めの薬と村人から戴いた果物だけは少し口にしていたが、『水を飲みたい』という衝動はずっと続いていた。村人が水も用意してくれていたけれど、スーリが山で汲んでくれた水と同じものだった。

 スーリは私が水を飲むのを楽しみにしているように目を輝かせながら見ている。

「ありがとう」

 水を溢さないように受け取ると一口だけ飲んだ。いや、一口だけのつもりだったがコップ一杯の水を一気に飲んでいた。

 まさに命の水だった。世界中のどんな豪華な料理にも勝る美味しさだった。喉が渇望していたからだけでもなく、ミネラルウォーターが澄んでいたからでもなく、何よりスーリの想いが込められた至極の味がした。

「すごく美味しい……」

 目の前がぼやけてきたけど、涙を流さないようにこらえながら言うと、スーリが満面の笑顔で嬉しそうに

「ミサト。早く元気になってね」

 と言いながら、可愛い花びらで作った髪飾りを私の髪に付けて帰っていった。


 その夜は一睡も出来なかった。体中が痛いこともあったが、スーリが汲んでくれた湧き水と、さっきのコップの水が頭の中で渦巻いて寝付くことができなかった。

 翌日、明るくなると同時にサントソが迎えにきてくれていて、村人が町まで親切に運んでくれた。村を出る前にもう一度スーリにお礼を言いたかったが、早朝だったこともあり子どもの姿はなかった。

 幸いにも全身の擦り傷以外は腰の打撲と左足の骨折だけで済んだのは奇跡的だったが、結局、残りの旅行日程は病院で過ごすこととなり、スーリに再び会いにいくこともなく帰国の途に就いた。



 日本に帰ってきてから、本気でインドネシアのことについて調べた。これまでも講義で教わってはいたが、詳しく調べれば知らないことがたくさんあった。

 インドネシアでの水道普及率は31%と発表されているが、そのほとんどがジャワ島やスマトラ島の都市部だけであり、スマトラ島の山間部ではほとんど整備されていないこと。しかも、整備されている水道水もそのままでは飲めないこと。山間部では井戸や湧き水が主となるが、不衛生であり、年間に何人もの子どもや老人が水を原因として死亡していること。

 また、インドネシアだけでなく、世界中で安心して水道水が飲める国は、国土交通省発表では13カ国しかなく、世界では水不足のために15秒ごとに1人の子どもが死亡しているとのこと。

 水不足による不衛生から病気になり学校にも通えない。だから教育レベルが低いままで生活を向上する能力に欠ける。こうした悪循環が世界中で起きていることを知った。


 スーリが髪に付けてくれた『小さな花の髪飾り』は、押し花にして今も部屋に飾っている。

 村人やスーリにいつか恩返しをしなければと、毎日押し花を見ていると、『青年海外協力隊に参加してスマトラ島の水道設備を充実したい』との決意が日々強くなっていった。

 スーリや村人達が水を原因として病気になったり命を落とすようなことになる前に、少しでも早く清潔で安全な水をあの村に届けたい。

 あの時、スーリから貰った水を百万倍にしてお返ししても足りないくらいなのだから……。



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