箱庭探索プラス2
こんな訳で『秘密の箱庭』捜索隊に九重奏一が加わった。九重沙奈を先頭に先程わたしと沙奈が来た道、神社と住宅地を繋ぐ階段へ引き返す。
「まさか身内に出会うとは思わなかった」
沙奈に続くわたしにバツが悪そうに、かつ冗談めかして奏一が言う。
「それ、沙奈も全く同じ事思ってると思うよ」
『身内』という表現に、流れ上『姉』の話題を出さなければならない状況で家族的なニュアンスを最小限に留めようとする意図が込められていて内心ニヤニヤしてしまう。
が、わたしと奏一の会話と歩みは直後に停止した。先を歩いていた沙奈が不意に立ち止まってしまったのだ。
「どうしたの?」
そのまま直立不動になってしまった沙奈に対してわたしは尋ねたのだが、沙奈からは「ええと、いや、その……」とかそういう感じのハッキリとしない言葉が返ってくるだけ。進行方向に何かあるのかと思い沙奈の脇から前方確認したが特に問題は無く、先程苦労して登った階段があるだけだが。
「この階段……、急過ぎない?」
前方の状態を確認し終えたわたしに沙奈は訊いてきた。まるで同意を求めるように。
思わず覗き込んだ沙奈の表情は階段を見詰めたまま若干強張っていた。えっ? これまさか、えっ……?
「成程、結構急だな」
わたしとは反対側の沙奈の肩越しに進行方向を覗き込んだ奏一は確認するようにそう呟く。
この、一塊のコンクリートの壁に彫られた石の階段は登る時はどうという事は無い、やや急かなと思う程度のモノだったのだが、下りの際には視界が大きく拓け、狭く急な階段を踏み外すと見下ろす町並みの中空へと取り返しの付かない勢いで転げ落ちてしまいそうな恐怖感を与える。何より良くないのが片側に取り付けられている手摺りが余りにも低すぎる点だ。登りの時は前屈みになりながら手摺りを登山道のロープよろしく引っ張る様によじ登って来たので問題は無かったが、改めてみるとそれは階段一段に対して太腿程度の高さしかなく下りで利用しようすると腕をめいいっぱい真下に伸ばさねばならず、とんでもなく不安定な態勢で下らねばならない。製作に関わったあらゆる人々に存在意義を問いただしたくなる手摺りだが、このどうしようもない不条理は役に立たない頼みの綱としてふてぶてしくそこに居座っている。
「ちょっと無理……。ほ、他に道は無いかな?」
沙奈が顔面を蒼白させたまま申し訳なさそうな表情でわたしと奏一に向き直った。
……うん、沙奈が高所恐怖症だって今始めて知った。
「一応神社の入り口の前にも駐車場に降りる階段はあるけど」
奏一はバツが悪そうに言う。
「角度はこれと同じくらい急だし町全体をパノラマで見下ろす感じに」
「無理に決まってるでしょ!」
沙奈がややヒステリック気味にキレた。相当レアな映像である。
「ならあっちの方に緩いスロープになってる道があるけど、目的地とは逆方向に行かなくちゃならないから滅茶苦茶遠回りになるぞ?」
わたしも衛星写真で確認してみた。そのスロープの道はわたしと沙奈が最初に進もうとしていたこの住宅地の斜面を蛇行する道に繋がっている。住宅地の予想外の広さを知り余りにも道程が長いので途中で断念したのだ。
行きはよいよい帰りはつらい。天頂に坐す蟻地獄にいつの間にか嵌ってしまっていた沙奈は当惑した表情でそれぞれの道に視線を向ける。決めかねているらしい。
「じゃあさ、オレが先頭を歩くからちょっと屈んで俺の背中を見ながら付いて来てよ。掴まってもいいからさ」
見兼ねた奏一がわたしと沙奈が最初に登って来た階段を示しながら提案する。沙奈は弱々しいけど意を決したように「わかった」と小さく頷いた。……そのやり取りはあまりにも自然だった。奏一は何の衒いも無く沙奈に助け船を出し、沙奈は幼い程の素直さでそれを受け入れたのだ。普通の双子なのだ、変に気取ったり身構えたりしないのは当然。なのになんで何故こうも私の愛しい気持ちがこんなにも昂ぶってしまうのか!? いや逆に、世の人々は、こんなものを見せられても何も感じずにスルー出来るというのだろうか? わたしにはそっちの方が到底理解出来ない。
奏一を先頭に極点に急な下り坂に挑む。
沙奈はその背中にぴったりとくっついて奏一のブレザーを鷲掴みにする。あああ、皺になる。
「うわ、ちょっ、おい、押すなよ! 落ちるだろ!」
「そっちが急にペースを遅くするからでしょ」
「気を遣って敢えてゆっくり歩いてんだよ。急かすなよ!」
「あっ、ちょっともう! 背中動かさないで。下の景色見えちゃったじゃない!」
「だから手に力を籠めるなよ! 危ないから」
急かつ不安定な下り階段において、わたしの眼下で余裕を無くした姉弟がプチ喧嘩をしながら恐る恐る一段ずつ階段を下る。わたしは、自分の顔がにやけてしまうのを抑えるのに随分と苦労させられた。……これは駄目だよこんなの卑怯過ぎるよ。今九重姉弟が最高に可愛い。何これ逢瀬? 普段クールで大人びている二人が子供っぽくて最高にギャップ萌え、可愛らし過ぎるむしろ尊い。こんな贅沢な光景を意図せずして見られていいものなのだろうか? ちょっと罰が当たりそう。
ゆっくり行くから急かすなよ、そんな風に改めて念を押した奏一にしぶしぶ「うん」と同意した沙奈。そしてその内に、奏一は合図するような小さな唸り声を上げながら一段ずつ階段を降りるようになり、沙奈は身を小さくしながら黙って奏一に続く。何だかんだで息が合って来たらしい。
怯える姉と姉を庇う弟の後ろ姿を堪能しながらわたしもその後ろから急角度の階段を下る。実はわたしもこの階段を上から見た時はちょっと怖いな、と思ったはず何だけれど、先行する双子の様が素晴らし過ぎて階段を下る最中は恐怖心が完全に吹き飛んでいた。双子の睦み合い(?)の前では恐怖心など風の前の塵である。
階段を下り切った後、沙奈は奏一のブレザーから手を放しそそくさと奏一から数歩離れ「ありがとう」と奏一の顔を見ずに小さくぶっきらぼうに礼を言う。奏一はほんの少しだけ照れくさそうに「おう」と返す。
「大丈夫?」
奏一のエスコートでの降り階段で神経を使い過ぎたのか、消耗してちょっと疲れた顔の沙奈にわたしは(さっきまで萌え狂っていたのを隠しつつ)心配気に尋ねた。
「ええ……、大丈夫」
わたしに声を掛けられ、即座に表情を引き締めて返事する。
「正直、普段と違う二人が見れて楽しかった!」
敢えて嘘偽りの無い心を解放してやると沙奈はバツの悪そうな顔で「さっき見た事は忘れて」と言う。奏一も困ったように苦笑いしている。わたしは「ごめんごめん、りょーかい」と言いながら心のメモリにしかと刻み付けた。
思いがけぬ難所を乗り越え捜索を再開。先程通った水路に掛かる橋、水路沿いの道、狭く入り組んだ住宅地の道を奏一を加えた三人で遡る。
そして三叉路の傍、例の空き地の縁を通る細い坂道の入り口まで戻って来た。
「ここの道を下っていくとやたら広い空き地があるんだよ」
広大なデッドスペースを目撃した感動を思い出したわたしはちょっと興奮しつつ奏一に捲し立てた。
「地図で言うとここ」
加えてわたしの衛星写真を広げて奏一に見せる。奏一もそれを眺め「へぇ」とちょっとだけ感嘆の声を漏らした後、
「あれ、こっちは赤い印が無いんだな」
「うん、無い方」
「この地図って、どっちが用意したの?」
と別件に関して問うた。
「ッ……、沙奈さんだよ」
危うく『九重さん』と言いそうになったのを直前で押さえる事に成功。
「これさ、スマホで良くないか?」
沙奈に向き直りながら奏一は、無遠慮に言った。……いや、うん。わたしもそれはちらっと思った。けど折角沙奈が用意してくれたから胸の内に閉まっていたんですよ。一切の躊躇無く手間暇を踏みにじっていける関係、流石双子である。
「スマホだと画面が小さくてわかり辛いのよ」
不躾な素朴な質問に返事する沙奈は心なしか今日一番の冷たさと刺々しさを孕んでいた。わたしの気のせいであって欲しい。
「それにスマホで地図なんか見てたらすぐバッテリーが無くなるでしょ」
口調の奥に沸々と蠢く何かがある沙奈の言葉に奏一は神妙に「なるほどな」と納得し引き下がる。ていうか沙奈はスマートフォンのバッテリーが尽きるほど長時間『秘密の箱庭』を探す事を想定していたらしい。
「徹底的だな」
「ええ、そうよ」
奏一は呆れつつも確信するように、沙奈は憮然としつつも威圧するように簡潔な言葉を交わした。おかしい。何だろう、これ? この短い会話の裏に二人にしかわからないニュアンスが含まれていて、何らかの確認が行われたという事が直感的に理解出来た。それが何なのかとかは勿論わからないしわたしの勘違いか否かを確かめる術も無い。ただこの瞬間わたしは、正気を疑われそうなほど大袈裟な表現だが、焦がれても決して手の届かないものの前で惨めに立ち尽くすだけの存在になった気分だった。うん、文章にすると思いの外しっくりくる。何を犠牲にしてでも見たかったけれど絶対に見てはいけないような出来事を目にしてしまったような。何だったの、今のは?
「その下りは帰り道だから。こっちを登ればマンションに続いているはず」
「なるほど。先の方に林らしいのが見えるな」
正体不明の強烈なインスピレーションに混乱しているわたしを尻目に沙奈と奏一は次のステップに進んでいた。空き地脇の坂の出口から先程のわたし達は右に進み神社を目指した訳だけれど、今度は左側のカーブを描きながら山の方に延びていく急な上り坂に進んでいく。沙奈の読みが正しければ、山道を通って北側にあるマンションの裏側辺りに抜けられるはずなのだ。
とにかく今は演技重視。先程の鮮烈かつ謎のやり取りの分析は保留し、双子と共に新たな未踏の道を進む。
車がすれ違える程度の舗装された道だが、本当に車で通って大丈夫なのかと不安にさせられるような急斜面をしばらく登ると、またもやT字路に出た。溝を隔てた正面は鬱蒼とした雑木林が立ち塞がりそれを縁どる様に左右に舗装された道が延びる。それは斜面の住宅地のゴールライン。人里と未開地の境界である。要するに、登り切るところまで登り切ってしまったのだ。
奏一が、先程提案したスマートフォンの使用を自ら実践し、この辺の地図を検索していたのだが、その最中溜め息交じりに奏一が「これは駄目だな」と呟く。
「ネットの地図ではこの辺全部空き地って事になってるみたいだぞ」
「えっ、なにそれ?」
わたしも奏一のスマートフォンを横から覗き込む。
倍率が低く、画面内に高校や駅前が収まる位縮小された状態ならば細かい道や建物が曖昧にぼかされているのも理解できる。本来ならば指定した地点を拡大していけばより倍率の高い精緻な地図に切り替わっていくはずだが、奏一の操作でこの傾斜の住宅地を拡大しても建物一つ一つの様子はあまり正確に描かれず、大きな四角形の枠で人工の建造物群がある事を自信無げに示唆する程度だ。地名すら表示されない。そして最大倍率まで拡大された地図には、住宅地の入り口から神社に向けて続く蛇行する道とそこから派生する脇道が数本ひょろひょろと描かれているだけで、今まで通ってきた細く険しい歩道の数々については何一つ触れられてはいなかった。そして今立っている場所に至っては建物を表す四角の枠すらなく只の空き地として表示されてしまっている。
「なにこれ、ハハハ、酷い!」
今まで苦労させられてきた険しい道のりがネット上でぞんざいに扱われている事がツボに嵌ってしまいわたしは爆笑してしまった。
「うん、わたしもそれ見た時ちょっと笑っちゃった」
沙奈は奏一のスマートフォンを見ずに言った。
「ああ、やっぱり普通の地図も調べたんだな?」
「ええ、その結果衛星写真を採用」
ただ、衛星写真には衛星写真のデメリットがある。住宅地と雑木林の境界であるこの道は衛星写真上では雑木林の木の葉に半分隠れており途切れ途切れになっている。わたし達はこの雑木林の陰に北側への抜け道が隠れている事を願いながら地図に無い道を進む。
……そして、『それ』を見つけたのは程無くしての事だった。
それは山への入り口だった。少なくともそう呼んでしまうのが妥当に思える様な道だった。更にきつい斜面になっている雑木林を登って行くための階段なのだが、それは整然とされた段差ではなく、固めた土の地面に横倒しの丸太を埋め込んだだけの『登山道』と呼んでしまうのに相応しいビジュアルなのだ。手摺りや街灯のようなモノは勿論無く、代わりに左右から再度の侵食の機会を窺う雑木林がひしめき迫っている。
「うわぁ……」
思わず呻いたわたし。双子からは憔悴したような溜め息が聞こえたような気がした。
「……多分これだと思うわ。マンション側の出口との位置関係を考えると」
沙奈は衛星写真を再確認しながら辛い現実をわたしと奏一に告げる。しかし沙奈の真っ赤な衛星写真では素人目には道の判別が付き辛かったので改めてわたしは自分の地図を確認し、奏一も私の肩越しに確認。しかしそれはもう殆ど形式的な動作で、沙奈が宣告した時点で登山開始は暗黙の裡に確定していた。わたしが無言で衛星写真を畳むと、先頭に奏一が、続いて沙奈が、最後にわたしが人里から登山道へ足を踏み入れていく。
階段をしばらく登ると、人が二人並んで通れる程度の幅の平坦な道に出る。道幅だけ切り開いて土の道を踏み固めただけとしか言い様のない、地元の人にはハイキングコースとして親しまれているんじゃないかと思えるような自然を肌で感じる事が出来る道だ。実際ちょっと寒い。人里の気配は左手の雑木林の隙間からちらちらと住宅地の断片が見て取れるだけで、頭上を覆う木々が傾き始めた陽の光すら阻み非常に暗い。右手の殆ど崖に近い斜面が更に圧迫感を与える。
わたしはこの予想だにしなかった行路に何故だか異様にテンションが上がってしまっていて、「うわー、えー、大丈夫かなぁ」「え、これ、ちょっ、怖い」「喫茶店探してたらこんなとこに来るなんて」とかそんな様な事を半笑いで口走っていた。無理やりにでも何か喋らないと間が持たない気がしたというのもあるが、まぁ、本当にこんな道を通るとは思っていなかったので自分の状況が面白くなってしまっていた。
「なぁ遠藤」
「なに?」
わたしに反して奏一が神妙な声色でわたしを呼ぶ。
「ネットの地図でこの辺がどんな風に表示されるか確かめようと思ったんだけどな……」
「うん」
そして奏一は真剣な顔でわたしにスマホの画面を向ける。
「圏外」
本格的に秘境らしい。
一瞬の間を置いて爆笑してしまった。ネタそれ自体が面白かったと言うより、場のノリと奏一の人を笑わそうとする意志につられて。沙奈も小さく笑っているけど多分わたしの爆笑につられて。
とまぁそのような馬鹿なやり取りをしながら暗い山道を進んでいくと、道は少しずつなだらかな下り坂になり、やがて丸太の段差が広い間隔で設けられ緩やかな階段状になっていく。
「そろそろ出口か?」
「距離的に考えてもそろそろね」
なだらかな下り階段を進むと住宅地側を覆う左手の雑木林がまばらになり、やがて途切れた。道の先に土の道とアスファルトの境界も見えてきた(またとんでもない急角度のとかじゃなかったのが良かったような残念だったような)。
階段を下り終え、アスファルトで舗装された文明社会へ帰り着く。道路を挟んだ目の前の塀の向こうに下り坂に連なる住宅地が続いているのは雑木林の隙間越しに確認済みだが、雑木林の出口の右方向に存在する、見上げれば嫌でも視界に入る存在感のあるマンションは今まで見えてはいなかった。
「なんていうか、気品がある感じ?」
「ああ……、わかるかも」
見上げた巨塔にの第一印象を呟くわたしに奏一は感嘆交じりに同意してくれた。そのマンションはおよそ十五階建て、一棟のみだがひとフロア毎の面積は広く、場違いと思えるほどの巨大さでそそり立っている。更に興味を引くのがその外装で、パリッとした白の建物にベランダの黒のコンクリートで柵を作るコントラストが、専門的な事はよく知らないけど外側から見られることを意識してデザインされている印象を受ける。家賃高そう。いや、これはもう販売のみのヤツだろうか。
そして地べたを行くわたし達にとってマンション自体より目を引くのがその根元の基礎に当たる部分だ。レンガを黒っぽくしたような色のタイルが張り巡らされた高台の上にちょっとした公園のような敷地が広がっており、更にそこから緩く弧を描くスロープを渡ってマンションのロビーに入る造りになっているらしい。そもそもこの基礎の高台がその辺の民家より背が高い。
「その……、澤窪くんだったかしら、その人からマンションの特徴とかは訊いてないの?」
「いや、特に何も」
沙奈も奏一も若干気圧されているらしい。
とりあえずあの高台に登ってみようという事になった。
民家の合間を抜けて進むと細道を隔ててその暗いレンガ色のシックな絶壁が現れる。見渡すとすぐ近くに階段を発見。案の定急角度だったが今度のそれは両サイドに下りの時にもちゃんと機能する高さの手摺りが有ったので、登る前に沙奈により入念な安全確認が行われた。
高台の上はちょっとした公園。
一面芝生に覆われていて端の方にはいくつか灌木が植えられていてちょっとした林が形成されている。芝生には平べったい石が歩道として等間隔で埋められており、その連なりはマンションのロビーや他の階段へと延びている。
「見て」
沙奈が登って来た階段の方を示した。
その先にあったのは傾斜の街並みを側面から見渡す風景だった。神社から見下ろした風景と違い、目の前の景色は階段状の混沌とした街並みの高低差をつぶさに見て取れ、先程とはまた違った迫力がある。因みに神社の姿は、さっき通った山道を覆う木々に阻まれ確認する事は出来ない。住宅地を縁取るような森林がまた風景に強いインパクトを与える。
わたしは半ば呆然としつつ白亜のマンションを、空中庭園然とした広場を、そしてそこから広がる階段状の住宅地を見渡した。
「なんか……、とんでもない所に来ちゃったね」
そう呟かずにはおれなかった。
「場違い感が凄いというか……、めっちゃ贅沢な空間」
「ああ、こんな場所があったんだな……」
わたしに同意してくれた奏一の声色はどこか上の空。彼と、その姉の視線は総合的な全景ではなく、高台の下に並ぶ住宅ひとつひとつに向いていた。初志貫徹、九重姉弟は『秘密の箱庭』探しを忘れていない。目的に対してあくまでも誠実だ、わたしより圧倒的に。
とにもかくにも、わたし達はこの石垣の上から下界の街並みの中にある秘密の箱庭を探す。道筋は高台の縁をマンションを中心に時計回りに進みマンションを一周する方針。
まずは起点として、わたし達が登った階段から真正面に見えるマンションの入り口に移動する。
優雅に弧を描く幅の広いスロープを登るとちょっとした広場のようなマンションの玄関となる。そこはマンションの正面と、マンションの鎮座する高台の公園の左右へと延びる合流点になっている。正面階段の脇を見下ろすと、マンションの基礎の内側へと潜り込む自動車道があり、どうやら高台の空中庭園はマンションの基礎というだけでなくマンションの駐車場も兼ねているらしいという事がわかった。……因みに、そこから見える景色の中にはカフェらしきものは見当たらなかった。というか死角が多過ぎて上からの視点ではよくわからない。当初の予定通り、わたし達はまず高台を一周するルートを進む。マンション正面から北側に延びる、空中庭園の反対側に出るスロープを下る。
北側の広場も、わたし達が登って来た南側とほぼ同じで芝生や灌木が植えられ公園然としていた。公園はそのままマンション本体の後方にも広がっているらしく、基礎兼駐車場の上の緑地がぐるりとマンション本体を取り囲んでいる形になっているらしい。
北側の広場を散策し始めて間も無く
「あれ」
沙奈が進行方向の一点を指差した。
「何か……、凄いわ」
沙奈の示す方向にあるそれに、わたしも少し驚かされた。
地中から木が生えているのだ。
緑の葉が茂る細長い樹木の上部のみが地中から様子を窺う様に頭を覗かせている。地上に露出している枝葉の広がり具合から、その樹木の全体像がそれなりに立派であろうと容易に想像させる。恐らく舞台の奈落のような構造で、わたし達が立っているこの駐車場兼基礎をくり抜き、空中庭園の地下に樹木を植えているのだろう。
「うわぁ……」
「何というか、凝った造りだな」
「えっ、しかもあれって紅葉の樹? 葉っぱの感じが」
「おお、そんな感じだな」
わたしと奏一が半ば呆れたように感心する。奇を衒った様なお洒落への貪欲さが尋常じゃない。
わたし達の足は自然とその地中から生えた、まだ青々とした紅葉(と思しき)木へと向かった。樹木が沈み込む奈落の周囲には腰ほどの高さの焦げ茶色の柵が設けられている(これまたデザインが何となくお洒落)。取り敢えず柵越しに底を覗き込んでみようという流れだ。
「なんか、ああいう吹き抜けの下の階とか井戸の底とか、見つけると無性に覗き込みたくなる時がある」
「ああ、わかる気がする」
「ふうん、高所恐怖症なのにか?」
「それとこれとは別なのよ」
思わせぶりに枝葉の一角を晒す紅葉の下に何があるのか、このマンションのお洒落への求道者っぷりがどの程度のモノなのかを確かめるべく、わたし達は若干ウキウキしながら奈落の縁に足を運ぶ。
程無くして到着、茶色い柵に手を添えて樹の根元を覗き込む。
……奈落の底は中々広い。四方をコンクリートの壁に囲まれている圧迫感はあるけれど、ちょっとした一軒家の庭位の広さはあると思う。
そこには様々な緑が生い茂る庭が形成されており、わたし達が目指した背の高い紅葉の周囲にも様々な植物が植えられていた。
しかし、わたしはその時、その奈落の底の庭園を詳しく観察してはいなかった。それどころではなかった。
九重姉弟もわたし同様に絶句し、そして三人揃って同じ方向を凝視していた。
それはコンクリートの奈落の北方向、マンション本体とは反対方向の道路側。そちら側の壁だけ下の方がガラス張りになっているのだ。
そしてそのガラスの向こう側には暖かな色合いの木目調の床にテーブルとイスが整然と並んでいるのだ。