ずんだ餅
私がまだ小学校に上がる前の記憶だと思う。
神社へと向かう、坂になった参道をひたすら母親に手を引かれ登っている。
幼い私には、どこまでも果てしなく続く坂に思えた。
参道の両脇には様々な商店が並んでいた。
最初は物珍しい商店を、興味津々に眺めながら歩いていた私だが、やがて疲れて立ち止まってしまう。
そこで、母親がちょうど横手にあった茶店で休憩をしようと言った。
古びた店内には民芸品が売られていて、雑貨屋も兼ねているようだった。
木製の卓と椅子。
堅い椅子の感触を覚えている。
奥にある席に案内され、置いてあるメニューを母親と共にのぞき込む。
もちろん、まだ小学校にも上がっていない子どもがメニューの全てを読めるわけがない。
ひらがなばかりを目で追っていた私は、聞いたことがない言葉を目にする。
『ずんだ餅』
ずんだ?
「これ、なに?」
指差した私に、母親も思案顔をした。
私の母親は好奇心が高い人である。
ためらいもせずに注文を決めた。
その店は、当時の私にとっては老婆に見える女性が一人で営んでいた。
そろりそろりとお盆を持って、老婆は私たちの座る卓までやってきた。
「ずんだ餅です」
コトリと卓の上に置かれたのは、ガラスで出来た器。
その中には白い餅に、なにやら見たこともない緑色のたれのような餡がかかっていた。
餅につけるものと言えば、餡子にみたらし餡くらいしか知らなかった私には、それがとても奇妙な食べ物に見えた。
おそるおそる、添えられていた匙でそっと餡をすくって舐めてみる。
甘い。
でも少ししょっぱい。
そして小豆とは違うザクザクとした感触。
どこか青々とした風味。
白い餅にからめて食べる。
モチモチした白玉餅に、ツブツブの食感の少ししょっぱい甘さ。
「これ、おいしいね!」
長い長い参道を歩いてきた私にその味は、とても沁み渡るものだった。
これが、私とずんだ餅との初めての出会いであった。
それは甘じょっぱい不思議な美味しさとの出会いでもあった。
当時はインターネットなどもなく、幼い頃の私にとっては本当に初めての食べ物だったずんだ餅。
私の母親は元々が神社や仏閣を巡ることが好きな人間で、この神社へも何度も私を連れて訪れたものだった。
その度に、ずんだ餅を食べるのが習慣になった。
私はすっかりずんだ餅に魅了されたのだ。
後年、ずんだ餅が仙台の銘菓であることを知った時には驚いたものだ。
更に、ずんだ餅も材料が熟す前の大豆、すなわち枝豆だったことにも驚いた。
枝豆とは、初夏の頃から夏の間の父親のビールのツマミだとしか思っていなかったからだ。ツマミであるはずの塩の効いた豆が、まさかデザートの材料だとは思ってもみなかった。
よくよく考えてみると、小豆がデザートに使われるのだから、大豆がデザートになっても多分そんなに不思議じゃないのだ。
大は小を兼ねると言うじゃないか。
私にとってのずんだ餅は、その神社の参道の途中でしか食べられない、とても特別な食べ物だった。
そのために、幼い日の私は嫌々ながらも坂を登っていたのだから。
最近になってたまにコンビニなんかで見かけると、少し微妙な気分になる。
ところで、幼い日の私が長い参道をひたすら登っていくと、その先に石像があったはずだ。
ペガサスの石像。
よくよく思い返してみても、何かおかしい。
鳥居を潜り抜け、長い参道を歩き、その先にはペガサス。
何度思い返しても、確かに、そこにいるのは狛犬ではなくペガサスなのだ。
当時の記憶を頼りに、インターネットで検索する。
確かにそこにはペガサスがいた。
否、今もいるようだ。
きちんと阿吽になっているらしい。