酢豚
疲れた。
春はとかく慌ただしい。
配置転換やら新入社員やら。
挙げ句の果てには部署内のレイアウト変更。
なのに季節は待ってくれない。
休日に着替えようとして、黒やグレーばかりのクローゼットの中身に、春らしい服が着たいなどとも思ってしまう。
まだ底冷えする夜もあるだろうか。
だが、もう重苦しい服に飽きてしまった。
ゴールデンウィークに衣替えなどしたくない。
連休はのんべんだらりと過ごしたい。
こうなったら嫌でも衣替えをやるしかなくなってしまう。
斯くして、ひ弱な枝鳥は職場でも体を動かし、休日に自宅でも体を動かす羽目になる。
そして衣替えをしているうちに、何となく気になっていた使い心地の悪い家具の配置にまで手を出してしまう。
そして、ぐったりとした枝鳥が出来上がる。
近頃の合い言葉は、「もう少ししたらゴールデンウィーク」だ。
疲れると、酸っぱいものが食べたくなる。
筋肉痛になると、肉が食べたくなる。
ああ。
酢豚だ。
甘酸っぱい酢豚が食べたい。
そう思い立ったらもう止まらない。
何をしても酢豚が頭から離れない。
カラリとよく揚がった豚肉。
素揚げされたピーマン、人参。
シャキシャキのタマネギにコリコリッとしたキクラゲ。
それらが甘酸っぱい茶色の餡に絡められ、ツヤツヤと光を反射する。
パイナップル?
そんな異物の混入は認めない。
ポテトサラダのレーズンやリンゴ、冷やし中華のサクランボも認めない。
心が狭い人間だと罵られたとしても認めない。
アレらは全て異物なのだ。
デザートで食べるのならば美味しいパイナップルやリンゴらが、どうして米のオカズになろうとするのか理解出来ない。
すっかり頭の中が酢豚に支配された枝鳥は、打ち合わせが早く終わったので、これ幸いとばかりに直帰して、いそいそと馴染みの中華屋に足を運ぶ。
酢豚は、家で作るものじゃない。
豚肉を揚げる。
野菜を素揚げする。
豚肉と野菜を炒めてタレと絡める。
素人が気軽に手を出すには、ちょっとばっかり荷が重過ぎる。
これはおとなしくプロに任せるべきなのだ。
古い昔ながらの中華屋は、主人と奥さんだけで長年ここで営業している。
メニューもそんなに多くない。
奇抜なメニューは一つもないが、その代わりどれも美味しい。
長く続く店、しかもメニューが変わらない店にはそれだけの理由があるんだと思う。
「酢豚とライス一つ、後は瓶ビールね」
まずは仕事終わりの一杯。
本当は筋肉痛にアルコールは良くないらしいが、飲みたいのだからしょうがない。
少し早めの時間のせいか、他の客はまだいない。
17時。
少し前までは、すっかり真っ暗になっていたのがまだ明るい。窓の外では街並みが、ちょうど夕焼け色に染まり始めている。
日のある時間にビールを飲むのがこれまた美味い。
朱色の卓に黄金色のビールに白い泡。
良きかな、良きかな。
ところで、なぜに中華屋の卓は朱色のものが多いのだろうか。
中華屋に来るといつも疑問に思ってしまう。
さて、厨房からはパチパチジュワジュワとにぎやかな合唱が聞こえてくる。
束の間、静かになったかと思えば今度はジャッジャッと中華鍋を振るう音がする。
ジューッ。
水分が投入される音と共に、甘酸っぱい香りが漂ってくる。
カンッカンッ。
鉄製のオタマが中華鍋に当たる音もする。
お、もうそろそろかな。
ヒクヒクと鼻を鳴らしていると、白い皿にたっぷりと餡のかかった酢豚が白米と共にやって来る。
まずは肉から。
とても一口では食べきらぬ大きな肉。カラリとキツネ色に揚がり、艶やかな餡がよく絡まっている。
ガブッと嚙みつき、火傷しそうになるのはいつものこと。
香ばしく揚げられた豚肉は透明な脂をにじませる。そこにこの甘酢餡。
ジワーッと口に広がる。
ホッホッ。
熱々の肉と甘酢餡。
ああ美味い。
疲れた体に甘酸っぱさが沁み渡る。
そこへビールを流し込むのだから、たまらない。
お次は人参にしようか。
普段はあまり人参が好きではないが、酢豚の人参は美味い。どうも人参をよく煮ると甘過ぎる。
その点、さっと素揚げされ甘酢餡をからめた人参は妙に美味い。人参の甘さが甘酢餡で引き締められるからだろうか。歯応えもザクリと気持ち良い。
そこにピーマン。少しばかり甘くなり過ぎた口内に、ピーマンのほろ苦さ。これまた堪らない。
濃い味に白米が恋しくなる。
米を頬張り、また肉を食べる。
キクラゲで甘酢餡をすくって白米と食べる。
シャクシャクしたタマネギで口直しをしてから、また肉を食べる。
甘くて酸っぱくて、肉が美味くて野菜も美味い。
酢豚とは完全栄養食じゃなかろうか。
とにかく、疲れた体に効くのは間違いないだろう。
すっかりくちくなった腹を抱えて、まだ日の残る外に出る。
春の夕焼けは意外と長い。
長い自分の影を踏みながら歩く。
ほろ酔いで夕焼けを歩く。
まあ少しばかり筋肉痛でぎこちないが、ふわりふわりと、とてもいい気分だ。




