ヤマノケ 2
今回は長めに投稿してみました。
竹井を助けたのは年端もゆかないようなマタギの少女だった。
無事、あやかしの影響から逃れたが、ある出来事から飢えたそれらが追いかけてくる。そしてその騒ぎに刺激され、巨大な対象αが姿を見せる。
竹井が目を覚ますと、体中のあちこちが痛んだ。
星空にたき火の黒い煙が上っていた。
冷たい空気を吸い込み、頭がはっきりとしてきた。
助かった。
竹井はこの事実を認識し、涙がこぼれ落ちそうになった。首都圏の最終防衛戦での『対象αーオブジェクト・アルファー』との戦いでも、ここまでの恐怖と生き延びたことに対する安堵を感じたことは無かった。
「おめさ、あっただどこ、なしていた?」
急にはなしかけられ、相手を見た。
写真の少女がいた。
編み笠を外した彼女を見ると、鄙に希なるほど美しい少女だった。竹井が彼女の美しさに目を奪われて答えないでいると、不安そうに彼女がまた口を開いた。
「おめ、おれさ、いってるこつ、わがんねぇがや?」
「はっ? あっ、ああ、秋田弁か。」
不可解そうな顔をした彼女はプイと焚き火の炎に目を向けた。
「すまない。きみ、これを撮られた覚えはないかい?」
「はぁ?」
起き上がった竹井は胸ポケットから彼女の写真を取り出して見せた。
「……ああ、あん時の…鳥のようだっげ。」
思わず、竹井は微笑んでしまった。
それを見た少女はまた焚き火に目を向けてしまった。どうやら、ふくれてしまったようだ。
「知ってる。へりこぷたーだろ。じっちゃさ、いっとぅった。」
「ああ、すまない。…おれは陸上自衛隊の竹井というものだ。君を捜していたが、まさか助けられるとは思わなかった。ありがとう。」
「……礼などイラね。なしてさ、おれなど探すごとある?」
「世界中で大変な事があったことはわかるね。」
「うん、知ってる。オドもオガもそれでいなぐなった。そっから、おれさ、じっちゃとお山さ入った。」
「そうか。だから、生きている人たちをおれたちは捜して、助けているんだ。きみ、おじいさんはどこにいるんだい。」
竹井は、答えが予想されている質問をあえて彼女にした。
彼女は炎を見ながら、目を細めて、首を横に振った。
「そうか……。一人でがんばってきたのか。えらいな。」
「………………………………………………………………………………。」
竹井はいろいろと質問を彼女に浴びせかけたい欲求を抑えた。
あたりを見回した。
いままでとは違う、竹井のよく知る山の夜だった。ミミズクの鳴き声が聞こえ、冷たい夜風が頬を撫でる。遠くで虫の音も聞こえる。
そして、自分の腹からも雷に似た音が聞こえた。
「助けてもらって申し訳ないが…………、なにか食べるものは無いだろうか? 持ってきたものは逃げるために、すべて投げてしまったんだ。」
「ああ……そら、よいでねな。おめさ、くちにあうものなんか、おれさ、わかんねけっど、こさ、よければ。しないども。」
少女が差し出したものは、魚の干したものだった。
竹井は受け取り、一瞬口に運ぶことをためらった。
「なした? さかなの干物だ。」
「…これはあの山で取れたものかい?」
「あぁ、あのおやまさ、いきてるもの、なにひとつなぐなった。お山の主さ、みんなたいらげた。こいはこさお山で、わけてもらったものだ。」
「そうか。いや、すまん。ありがとう。いただきます。」
竹井は彼女からいただいた干物を口に運ぼうとしたとき、慌てた彼女から制止を受けた。
「ちょ、ちょっとまってけれ。まだだ。」
彼女は大事そうに袱紗に包まれた小さな小箱から、木製の彫像を取り出し、乾いた岩の上に安置し、その前にきれいな葉を置き、干物と木の実を捧げた。
しばらく、両手を合わせ、小声でナムナムとつぶやいている彼女の背中を竹井は微笑ましく見つめていたが、振り向いた彼女がうなずいた。
改めて竹井は干物の身をほぐし、口の中に入れた。やや塩辛いが、疲れた身にはありがたかった。噛めば噛むほど、滋味が口中に広がり、唾液が出てくる。
少女はその他にも山菜やキノコを出してくれた。
「それは観音像かい?」
「ん。じっちゃぁさ、そういってた。おれさのかぁに似てるんだと。じっちゃぁさの子なんで、贔屓目かな。」
淡々と話す彼女だったが、反応に困った竹井は干物が噛み切れない振りをしてうなずいただけで流した。
「じっちゃ、毎晩、捕れた獲物さ、先にあげておがんとった。守ってくれんだと。」
「そうか。信心深い人だったんだな。」
「ん。」
この辺りの人らしく、少女は無口だったが、竹井にいろいろと気を使ってくれた。
腹が満たされた竹井に眠気が襲ってきた。
「ねふてくなったかや?」
「ああ、少し疲れたようだ。でも、まだだいじょうぶだ。」
「むちゃさして。あのおやまさ、どんくらいおった?」
「うん…あぁ、十日くらいか。それがどうした?」
「あっただとこ、そんな長くおったら、お山ん主にあてられっど。ながまって休め。」
彼女は薪に木を放り込んだ。火の粉が舞い上がった。
そして、長い枝で焚き火を探り、よく焼けた丸石を取り出した。彼女はそれを小さな巾着袋に入れ、服の中に入れた。
「どうした?」
「あさから、はらさ、つっぱっての。こっただ、アンカを入れとくとぬぐだまって、楽さなる。」
ホッとしたように表情を緩め、目を閉じた。
「大丈夫か? 悪いものでも食ったか?」
「うんにゃ。そっただ、へまなんぞ、するはずねぇ。」
彼女は横になった。
「そんな状態なのに、きみはおれをここまで運んでくれたのか?」
少女の目が焚き火から離れたところに向けられた。竹井もつられるように見ると、そこには木製の橇があった。
「カモシカなんかが穫れた時さに使うもんだ。そいでも、あんちゃあさはけっこう重かったぞ。」
「それはすまなかった。」
竹井は少女にあたまを下げた。彼女は目を閉じた。微かに眉が寄せられ、調子がよくないことが見えた。
「明日なったら、移る。いまのうちにやすんどけ。」
少女の言葉にどちらが大人か、わからないなと竹井は苦笑し、横になった。
「ああ。おやすみ。」
目を閉じた少女は竹井の言葉に答えなかった。
竹井は諦めて目を閉じ、仰向けになった。
「…………おやすみ。」
目を閉じた竹井は口元だけで笑った。
朝日が昇る頃、竹井が目を覚ました。晴天の夜明けは温められた大気が空へと逃げてしまっているために、地表の冷気がもろに疲労した竹井のからだに浸透してきた。
少女はすでに起きて、消えた焚き火に土をかけていた。
「おはよう。」
「…………準備さ終えただ、ゆくど。」
「ああ。」
竹井は起き上がった。
十分後、カービン銃を背負った竹井は少女の後ろをついて歩き出した。
少女は山を登り、山頂から尾根伝いに下りはじめた。竹井は彼女から受け取った肉の干物を齧りながら、歩いていた。
青空の下の山歩きは心地良い汗が流せた。
竹井は黙々とけもの道とかわらない山道を歩く少女の背中に声をかけた。
「腹の調子はどうだ?」
「……よいでね。歩くと響く。」
「休むか?」
「うんにゃ。もう少しでつく。」
「きのうの谷底のあれは何だ?」
「…あっこのお山ん主さ。」
「きみは見た事があるのか?」
「ある。」
「どんな…。」
「なんとも言えね。おれがみたども、あいは…。」
そこで彼女は絶句した。
「すまなかった。どうも厭なことを尋ねてしまったようだな。」
「うんにゃ。さすけね。おれはオドダチがお山ん主さ、食われちまった時はしらね。じっちゃに聞かされただけだ。じっちゃは…あいつらにやられた。」
「あいつらって、きのうのあれか。」
「んだ。」
「あれは、主とは違うのか?」
「んだ。あれは、山の怪じゃ。」
「ヤマノケ…。妖怪のようなものか?」
「山の怪は山の怪さ。」
少女は岩場を軽い足取りで抜けた。徐々に水の音が聞こえてきた。
ドウドウと腹の底に響くような音が聞こえてきた。
「オウ…、こりゃすげぇな。」
竹井は川際までやってきた。
澄んだ川の流れは川底を映し、小魚が踊る影が見えた。
「この水は飲んでもいいか……、どうした? 怪我でもしたか?」
「はぁ?」
少女の足の間の乾いた岩の上に血が落ちていた。
右足には細い蛇がうねったような血の跡がついていた。
足元を見た少女は口を大きく開け、あわてて、服の裾をめくり上げた。
日に焼けた健康的でなめらかな太腿が丸出しになり、服の奥につつまれているべき白い肌が見え、竹井は驚き、背を向けた。
「なしてじゃぁ!! あんちゃあ!! なんとす!! おれから血が出とぉ!! は、は、腹ん中が、どうにかなった! あんちゃあ! こっちゃさきて、みてけろ!!」
「あっ…そうか、そんな年頃なんだ…。なんにも知らないのか……まぁ、教えてくれる人もいないだろうし、仕方が無いな……。きみ、それは何ともない。大丈夫だ。」
「あんちゃあ! おれに背中向けとって、何がわかる!! こっちゃさ、みてけろ!!」
仕方が無く、竹井が振り向こうとすると、服を腹までまくり上げた少女が泣きそうな顔をしていた。
「まず、おろせ!! おちつけ!! 」
竹井は涙ぐむ彼女を座らせた。そして、彼女のとなりに並んで座った。慰めるために、肩を抱こうとし、女の子だしと思い直しやめた。
「こんなことははじめてか?」
唇を噛み締めた少女はこくりとうなずいた。
「そうか。なんと言っていいのか、とりあえず、おめでとう。きみはこれで一つ大人になったんだ。」
「なしてじゃぁ……。腹ぁんべぇわりぃくて、血ぃ出るんが、どこがめでてぇんじゃぁ……グスッ。おれ、死ぬんじゃないのか。あんちゃあ、ひんでぇじゃ。」
竹井は泣きべそ顔の少女にたどたどしく、女性のからだの仕組みについて知っている限りの知識を伝授した。
納得した少女は小刻みにうなずいた。
「……そっか。おれ、おとなんなったか。姉ちゃになるということは、こんなにもせつねぇことなのか。」
「ああ、まずはきれいに洗って、本来ならそのためのグッズがあるんだが、脱脂綿かなにかで代用してって、救急キットもリュックの中か…。きみ、きれいな布をあてておくんだ。二、三日でおさまるはずだ。」
こくりとうなずいた彼女はいままでの山の精か神のごとき、神秘的な美しさから、年相応な幼い少女に見えた。
竹井は川で顔を洗い、いまの騒ぎの名残を洗い流し、心ゆくまで水を飲んだ。
少女は竹井から離れた下流で下半身を川に浸した。
「ちべたっ!! あんちゃあ、はだげた。でも、きれいな布なんてねぇけんど、どうしたらいい?」
「あぁ、困ったな。おれも清潔な布なんか無いな。きみの家に戻ればなにか無いか?」
「いえ? おらさ、うちはこのお山だ。」
「えぇ? 屋根のあるところに住んでいないのか?」
「屋根さあるところ…小屋のことがや? 今年の冬の大雪さでぼっこれたばっかだ。」
「…そうか。仕方が無い。山を下りてから、医療班に頼もう。」
「おりる? おれもおりるがや? なして、おれがお山さ、出てゆかねばならん?」
「きのうも言ったと思うが、おれたちの任務は生き残っている人たちを捜し出して、連れ出すことだ。もう、東京は壊滅した。箱根の関から津軽海峡まではノーマンズランドになってしまった。北海道の人間は釧路からアラスカに逃げた。残っている日本人たちで関ヶ原を最終防衛ラインとして人類は闘っているも、出日本がはじまっている。」
「あんちゃあさ言ってること、ようわからんが、そっただこと、おれになんも関係ねぇ。」
「関係あるんだよ。一人でも多くの日本人を助ける。そして、きみは……。」
竹井は言いかけた言葉を飲み込んだ。
もう逃げ切ったと思われたあの気配が、どこかで見ているのを感じた。
「おい、どういうことだ? やつらか?」
少女は裾をまくり上げたまま、川から出てきた。濡れた足跡と紅の花のような跡が河原の乾いた石についた。
「この川さ、あのお山さ続いているんたんて、血の匂いをかぎつけられてもおかしくねぇ。ここしばらく、山の怪どもさ、騒いでおると思ってたども、あんちゃあたちさのせいで、血に飢えとる。」
「ここには来れないはずだったのでは?」
「お山ん主さ、しばらくおらんだども、それに気が付いたんじゃあ。」
「どうする?」
「あんちゃあさ、そこのシロビレをとってけろ。」
少女に指差され、竹井は長細い袋を手にとった。ずしりとした鉄の重みを感じながら、彼女に渡すと、手早く袋から小銃を取り出した。
竹井は一瞬噂に聴く村田銃かと期待したが、それとは異なるボトルアクションの小銃だった。
彼女は裾をおろし、片膝をつき、銃を構えた。
「銃が、効くのか?」
「じっちゃは駄目だった。」
「じゃあ、どうするんだ…。」
「なぜだか、おれの弾だけ、あいらに効く。」
少女が引き金を引いた。
彼女の撃った弾丸は暗い森に吸い込まれ、青い光を放った。
手慣れた手つきでボルトを操作し、排莢を行った彼女は弾を装填し、やや斜め右上に銃口の向きを変えてまた撃った。
白光を引きずり、弾丸はつぎに赤い光を放ち弾けた。
彼女が次々に弾を撃つたび、気配は減ってゆく。そして憎悪と妬み、飢餓感がいや増してゆく。
弾を撃ち尽くした少女はマガジンを装填し、また撃ち始める。
仄暗い森の奥で色とりどりの光を放つ蛍が飛び交うように光り、山の怪が消えてゆく。
「こいら、みんなやらねば、またふえる。」
タム! ガチッ! チン。 タム! ガチッ! チン。 タム! ガチッ! チン。
このようなふるい銃でこれほどの腕前とは恐れ入る。
ただ、彼女の残弾数はどのくらいだろう?
補給するあても無いようなこの地で、何年も『山の怪』相手に戦いを継続していたのだろう。
おれのカービン銃ならほとんど撃っていないので、弾数はあるはずだ。しかし、銃を変えることで調子を崩してしまっては命取りだ。
くそっ。おれが撃った弾が効くなら……。
このような状況で民間人を守るために存在している自分が何もできないばかりか、年端もゆかない女の子に守られている事実は、竹井にとって歯がゆく、くやしい事実だった。
タム! ガチッ! チン。 タム! ガチッ! チン。 タム! ガチッ! ガチッ! ガチッ!
「クッ……!」
少女が銃を見た。空薬莢が引っかかっている。
竹井にそんなことを考えている暇など無かった。
「これを使え!」
竹井はカービン銃を手渡した。ロックを外してやり、マニュアルにした。
少女はとりかえた竹井の銃を長年のバディのように扱った。
竹井は驚いた。
少女から受け取った彼女の銃は第二次大戦中の日本の小銃だった。なぜこのようなものを使っているのか、不思議だ。
彼女の年齢から考えても、祖父が戦争体験者とは思えない。だとすると、曾祖父やそれ以上前から、代々受け継がれてきたものなのだろう。
角がまるく磨り減り、鈍鉄色が白銀に光っている。丁寧に手入れをしてきたあとが見て取れた。
村田銃を使っていてもおかしくないわけだ。
竹井には森の奥の暗闇で『山の怪』が見えなかったが、少女が撃つたびに、鬼火のような光が浮かぶ。
「にゃにゃにゃ!! なんとす! あんちゃあ、山ん怪がすこたま、わいてきた!!」
少女が叫んだ。
竹井も気配が物質的なプレッシャーを与えているかのように強く感じた。
「弾はまだある! 安心して撃て!!」
「弾のしんぺぇより、あいらの騒ぎを聞きつけて、山ん主さがやってくる! 主さ来たらば、もうこのお山さ、おしめぇだ!! あいら仲間さ、おれにやられて、あたまさきとぉ!!」
「なら、逃げるしか無い!! そのまま後ろに下がれ、おれがきみを担ぐ。君は追ってくる奴らを撃て!!」
「あんちゃあさ、そんただことして、だいじょうぶか!?」
「それしかないだろう。」
竹井の言葉に少女はじりじりと後退し、竹井の横に並んだ。竹井はかがんで彼女をコアラのような姿勢にさせて抱きかかえた。
「あんちゃぁ…。」
「どうした!? 腹がまた痛むか?」
「にゃぁ。…おれさ、だがえで、ゆるぐねか?」
竹井は、こんな時でも、女の子らしいことを言う彼女がたまらなく可愛らしかった。
「大丈夫さ。こんな時のために、常にからだを鍛えているんだ。」
「んだなが。」
頬を染めた少女は顔を引き締め、竹井の左肩に右腕を乗せ、銃口を安定させた。
左手に自動小銃を掴み、竹井は走り出そうとした時、空気が凍りついた。
足が岩に張り付いたかのように動かない。
『山の怪』たちも身を潜めた。あれだけの渦巻いた悪意と渇望の意志が怯懦に変化した。
少女は空を仰いだ。
「ぬしだ。山ん主さ来る。」
静まり返った山が一転、狂気に満ちた鳥獣たちの叫び声で満ちあふれた。
山雪崩のような音が耳をつんざいた。
ひな鳥から、雉子、鷺、鳶、鷹、カラスの果てまで一つの群れとなり群雲のように跳び去ってゆく。
地響きが足に伝わった。
リスや土鼠が竹井の足元を逃げ惑い、狸、カモシカ、ツキノワグマが、二人に目もくれず、目を血走らせて、我先にと逃げ惑う。
「き、きみ! どこに逃げればいい!!」
竹井は顔の見えない少女に叫んだ。
彼女は空を仰いだまま、目を閉じた。
何かに聞き耳を立てているような様子に竹井は黙り込んだ。
「こっちゃさ!!」
指差し示した方向に竹井は反射的に走り出した。それはけものたちの逃げた方向とは違い、二人が来た道を戻るものだった。
「だいじょうぶなのか? 動物たちとは違うぞ。」
「あっちゃさ、谷じゃ。ぬしん図体はおぼてぇ。高台には昇れん。だがら、主さ谷のほうへゆく!」
竹井はその言葉を信じ、がむしゃらに急勾配の崖を昇った。少女は竹井のからだを器用に伝い、背中に回った。
彼女をおぶった竹井は岩だらけの崖を這い上がった。爪の間から、血が吹き出ても構わずに上り切った崖の上で、息を切らせた。
「はぁ、はぁ、はぁ……。ち、ちょ、ちょっと、休ませてくれ。」
「山の主さだ。」
少女の言葉に竹井は彼女を背中からおろし、振り向いた。
そして、自分の行為を激しく後悔した。
少女が『山の主』と呼んだそのモノは蛆や長年、土の中に埋まっている虫の幼虫のようなフォルムだった。
ブヨブヨと、生まれてこのかた陽の光を浴びたことがないような不健康な青白いその体幹を不規律的に蠢動させ、木の根のような無数の足をうごめかせて、周りを蹂躙している。
頭部とおぼしき場所には、油に浸けたような黒い長い体毛がまだらに生えている。
そして、最高級の輝くようなルージュを引いたような朱色の口唇で、真珠質の美しい歯並びの犬歯が進行方向にあるものをすべて、食い散らかしている。
「ウェ…。」
急に主と呼ばれるものが、耳を塞ぎたくなるような叫び声をあげた。
「山の怪が主さ、喰らっとる…。」
あぜんとした少女が呟いた。
目を凝らして見ると、ぶよぶよのからだが目に見えない無数の口によってところどころ破られ、腐汁のような、どす黒い液体をしたたらせていた。
主が巨体を踊らせた。
背を地面に打ち付け、ゴロゴロと転がりはじめた。
その動きに、周りの岩山が揺れた。
「にゃにゃにゃ! はよ、こさ、さらねば! くずれる!!」
「なにぃ!!」
竹井は少女を抱きかかえ、天狗の鼻のように突き出ていた岩場から離れるために走り出した。
「はにゃせ!! おれは一人で駈けられる!!」
「おれはきみをこうしているほうが安心だ!」
「あぃ〜…うるうるでぇ……。」
「なんかいったか!?」
竹井は走りながら尋ねた。少女は竹井にぺったりとして、頭をもたれた。
「なもだぁ。」
「あっ……。」
足元が崩れた。竹井は思いっきり跳躍した。
頭から飛び込み、少女を下敷きにしないようにからだを捻った。背中を打ち付け、彼女を守った。
「あんちゃあ!!」
「ああ、あぶなかったな。命拾いした。」
二人は崩された崖のぎりぎりにいた。
下では『山の主』が目に見えない『山の怪』に噛み付かれているのか、傷口がどんどん開いてゆく。
しかし、『山の主』の傷が開いたかと思うと、そこから歯が生え出し、口へと変化し、見えない『山の怪』たちを貪りはじめた。
「あんちゃあ、こん隙に逃げよ。」
「ああ……きみ。」
「なんじゃあ?」
「一番近くの人里、いや、山を下りた安全なところまで逃げるんだ。」
竹井は胸のポケットから無線機を取り出した。電源をチェックすると、正常に稼働したが、電波の受信状況は最悪だった。やはり、ここでもまだ駄目らしい。
少女に無線機を差し出した。
「あんちゃあ、こいさ、なんだぁ? なんのつもりだなす。」
「あんちゃあなぁ、足をやっちまったようだよ。」
痛みをこらえながら、竹井はわざと軽い調子で言ったが、少女は下唇を噛みしめた。
「な、なにするつもりだ。」
「おれがあんちゃあどご、おぶる。」
少女は竹井に下に潜り、持ち上げようとした。
「ばかなことはよせ。いくら力持ちのきみだって、すぐにへたばる。そうなったら二人で死んでしまうことになる。」
「んだども、おれはあんちゃあさ、見捨てることなんかできね!」
「だいじょうぶだ。いまから、これの使い方を教えるから、きみが先に行って、おれの仲間を呼んでくれ。いいな。」
竹井はドスの聞いた声で念押しをした。
少女はびくっと身を固くした。
竹井の鋭い目に射抜かれた少女は、頑固に彼を睨み返したが、すぐに目を伏せて、小さくこくりとうなずいた。
彼は殺気をすぐに消し去り、微笑み、彼女に無線機の説明をはじめた。
「ここのマークがついたら、電話をかけることができる。それを確認したら、こうやって、このボタンを押すと、すぐにつながるようになっている。そうして、こういうんだ。『竹井は怪我をして、山に残っています。いま、わたしは一人です。』言ってみろ。」
「う、うん。た、竹井は怪我さして、お山に一人だ。」
「なるべく、標準語で話してやらないと相手がわからないぞ。そして、『早く、助けにきてください。』」
「は、早く助けにきてください。」
「そうだ、うまいぞ。『その時、生理用品を持って、女の人も来てください。わたしは女の子です。』」
「そ、その時、せーりよぅひん? をもって、女のひとも来てください。お、おれはおんなのこだ。」
「うん。はずかしいと思うけど、ちゃんと言っておかないと、大変だからね。」
「あ、あんちゃあ…なんとしても、おれといっしょにこられねぇか?」
少女は泣きそうな表情で、竹井の服の胸を掴み揺さぶった。
竹井は手を伸ばして、彼女の頭を撫で、そのまま、頬に手を添えた。少女はその手に両手を重ねた。
「たぶん、足首の骨が折れた。このまま歩くのはもう無理だ。時間があれば、治療もするが、いまはこういう風に話をしている時間ももったいない。銃をふたつとも持って逃げれるか?」
「そっただことしたら、あんちゃあはどうする!?」
「おれがあいつらに撃ってもなんにもならない。」
「へば、せめて、かくれてくらっせ。」
「ああ。わかったよ。もう行け。」
「あんちゃあさ、かくれてからいぐ。」
少女は竹井を感情のままに揺さぶった。竹井としてはそこまで慕ってくれてうれしいが、揺さぶられ、折れた箇所が痛かった。
「きみが先にゆくんだ。急げ!!」
「…あんちゃあ…………。」
少女は涙を拭って立ち上がった。予備弾倉も一緒に持たせた。
自分の銃をたすきがけにし、竹井の銃を左手に握り締めた彼女の白い内股には、血の跡がこびりついていた。
「そうだ、きみの名前、聴いていなかったな。なんていう名だ?」
少女は、竹井がはじめてあった時のように鋭く澄み切った目をし、きりりと引き締まった柔らかい頬が、邪なものや俗なものを寄せ付けない、雪山のような無垢さを見せていた。
「…ゆり。おいさ名はユリ。あんちゃあ、約束だ。必ず生きていてくらっせ。」
「ああ。ユリ、約束するよ。」
ユリは走り出した。竹井は彼女の姿が見えなくなると目を閉じた。
どうやら、脊柱をやったらしい。
額に汗が滲む。
大きく深呼吸をした竹井は俯せになった。
麻痺した両足を投げ出し、竹井はユリとの約束を果たすために、両腕で匍匐前進をはじめた。
ユリは振り返らずに杉林の中を走りつづけた。
おれの村はまるごと『山の主』さにつぶされた。
オドとオガは学校から避難さした時にいなくなってた。
お山さにこもった人たちは櫛の歯が抜けるように食べられていった。
じっちゃは晩飯の魚を穫りにいって、山の怪たちに骨も残さず、喰われた。
おれが好きだった人たちはみんないなくなった。
ことばも、しゃべることも忘れそうなほど、一人でおった。
じえいたいのあんちゃあが来て、くちゃべることができて、しょしねかったけど、でも、うれしかった。
もう一人はいやだ。あんちゃあさあって、一人に戻ることなんか、考えられなくなった。
ユリは涙を我慢し、かけつづけた。
天まで突く槍のようなスギの暗い林を抜け、あたりを見渡せる日の当たるところまで出てきた。
ユリは足を止め、ここではじめて振り向いた。
竹井がいた場所が見えたが、彼はいなかった。小さな胸を撫で下ろしたユリは竹井を探した。
すぐに見つかった。なんのことは無い、少し離れた草むらで姿を隠さずに寝そべっていた。
身動きしない彼の様子にユリの長く黒い髪の毛が逆立った。
「し、死んでる?」
すぐに竹井の腕が動いた。しかし、前に進む様子は無い。
「あいは、骨折なんかでね。どうしたら……。」
『山の主』と『山の怪』のおたがいを相食む戦いに決着がついたようだった。
『山の主』が勝った。しかし、主もあちこちを喰いちぎられ、蠢動するたびに体液が飛び散った。
人間の声に近い叫び声があがり、『山の主』が半身を起こした。
「あぁ…………。あんちゃあ! あんちゃあ!!!!! あんちゃあ、おきてけろーーーーー!!!!! あーーーんちゃーーーーーあぁぁぁぁぁーーーー!!!!!」
必死のユリの叫び声にも、身動きの取れない竹井に『山の主』の巨大なからだが近付いてきた。
『山の主』はまだらに生えた、黒い触覚を延ばし、辺りのけものを手当り次第に口に運び出した。
悲痛なクマやカモシカ、猿たちの鳴き声が谷にこだました。
黒髪のような触角は徐々に竹井のいる崖の上に迫っていた。
ユリはその光景から目を離せずにいた。森の奥の姿が見えない『山の怪』を見通す、澄み切った瞳が涙で曇った。
ふだんなら、手から離したことの無い銃が滑り落ち、膝から崩れ落ちたユリは自分の無力さ加減を嘆いた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっーーーーーーーーー!! なしてじゃーーーあーーー!!! なして、なして、なして、なして、なしてーーーっ、 なしてじゃーーーあーーー!!! おれは、おれは、なんもできねぇんじゃーーー!! 仏さまも、山ん神さまもなしてじゃーーーーーー!!! なして、おいら、衆生をお救いくださらんのじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーー!!!!! 観音さまも、弥勒さまも助けてくださらんなら、おれが、おれがぁ、仏になる!! 観音さまになる!!! 弥勒さまになってみせるぅぅぅぅぅぅぅぅぅーーーーーっ!!! なって、あんちゃあさ、たすけるぅーーっ!!! たすけてみせるぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!!」
竹井は朦朧とする意識の中、不浄な臭いを感じていた。
『山の主』の叫び声が大きく、地響きも激しくなってきた。
濃密なはずの生物が死ぬ臭いを凌駕する腐敗、不浄の臭いは辺りに充満した。
竹井はガンホルダーから、拳銃を引き抜いた。
山の動物たちのように生きながら喰われることはごめんだった。
ただ、心残りは奇跡の生存者と呼ばれた、ユリちゃんのことだった。
「ユリちゃん、かわいかったなぁ。あぁ、娘、欲しいなぁ。きれいな服着せて、おいしい飯食いに行って、遊園地行って……。その前に嫁か。嫁は…めんどうくせえな。」
青空に黒髪の束が竹井を見つめていた。
9mm自動拳銃のセーフティーを外した竹井は自分の胸の中央に銃口を向けた。
引き金に人差し指をかけた。
いざとなると、指が動かない。
目を閉じ、指に力を込めた。
そのとき、まぶたで遮られた眼球の網膜が容量オーバーするほどの光が爆ぜた。
「なっ…………。」
光が消えたあと、竹井は目を開いた。
黒縄が消えていた。
竹井は腕をおろし、太い檜の幹まで這った。そこで幹にからだを預け、起き上がった。
神々しい光を感じ、そちらに目を向けた。
そこには観世音菩薩が、骸骨のような無惨な姿をさらしている谷に浮かんでいた。
「ハハハ、おれ…は……無宗教だぜ…。」
小柄な菩薩は小銃を構えた。
「あれ……、ユリなのか?」
よく見ると、菩薩の着ている衣装といい、冠の様子といい、古刹にあるような重々しい印象のものではない。
今風のイラストやマンガ、アニメのようなキッチュで、女の子が好みそうなポップな色使いだ。
「やっぱり…あの子は、魔法少女か……。」
『山の主』が敵の存在に気が付いた。
ブヨブヨとした皮の薄いからだを膨らませ、さきほどの傷口から腐汁をまき散らし、体毛を逆立てた。
竹井の経験でもこれほどまでに巨大化した『対象αーオブジェクト・アルファー』は見たことが無い。長期間に渡り、具象化した末に肥大してしまったのだろう。
猛り狂った『山の主』は触手である黒縄をすべて、彼女に向けた。
汚らわしい触手は金と白のシールドにふれ、蒸発した。
仏の身が手にするには、あまりに凶悪な小銃の銃口が火を噴いた。
弾はプラチナゴールドの曳光を伴い、『山の主』の直前で円形に分散した。
光の網に捕われた『山の主』のからだに全弾が命中した。
苦悶の雄叫びをあげた『山の主』は袋のような無様なからだをくねらせ、ユリに向けて口を開き、長く赤黒い舌をいくつも出して、威嚇した。
竹井からは遠過ぎて、ユリの表情は見えない。
しかし、ユリは『山の主』を恐れている様子は見られない。
『山の主』は粘液にまみれた舌をユリに向け、鞭のように跳ばした。
赤黒く、鮫の肌のように三角の突起が無数に生えたその舌は異様に伸びる。
尖った舌先から、放出された粘液がユリにかかる前にシールドによって蒸発した。蒸気がユリの姿を隠した。
「いかん! あれでは照準がつけられない!」
舌はS字の曲線を描き、ユリにそのおぞましい穂先を突き立てようとした。
「ユリーーーーーーッ!!!」
蒸気が晴れた。
どさりと湿った巨大なものが落ちる音がした。薄気味悪い黄色の体液が間欠泉のように空にまき散らされ、残った舌が引き攣り、苦悶をていした。
ユリは巨大な鉈のような山刀で舌を切り落としたのだった。
上空で大きく弧を描いて、後退したユリはまた、銃を構えた。
また、光の散弾が『山の主』にめり込んだ。
ダメージは与えられていても、決定打になっていなかった。
無理だ。
いくら、ユリが手練のマタギでも、あれだけの大物をまだなりたての魔法少女一人では無理だ。
しかし、ユリはもう一度、銃を構えた。自分の撃つ弾が、『山の主』に効果がないなどとみじんも思わぬ信念が、彼女の構える姿勢から伝わる。
ボルトを引き、弾を込め、引き金を引き絞った。
銃口の先に、金色の火の玉が膨らんだ。
ユリのからだを超えた特大の劫火が『山の主』に撃ち放たれた。
あたり一面が白く燃え盛る浄火につつまれ、すべての色を無くした。
竹井は顔を伏せ、頭を両腕で覆い、固く目を閉じた。
ユリの一撃により、からだの上部、3/4をまるく削り取られた『山の主』はその身体を再生することが叶わず、急激に腐敗し、かさかさの肉片となり、土に吸い込まれるように消滅した。
顔を上げた竹井の前にユリが降りてきた。
「あんちゃあ、大丈夫か?」
「ああ、助かったよ。…それにしても、すごい格好だな。見かけは観音菩薩のようだが、やってることは不動明王みたいだ。」
ユリが頬を赤らめ、竹井の目の前に着地した。
冠をいただき、白と金色の薄物で露出と慎みの絶妙なバランスの衣装を身に纏ったその姿は彼女が魔法少女でなければ、未成年売春根絶と児童保護の国際団体が乗り出してくるところだ。
「神さまや仏さまが助けてくれんから、おれが観音様になった。」
「そう思って、なれるのがすごいな。もとの姿に戻れるか?」
「……わかんね。」
「そうか。おれもよくわからんが、そのままだと疲れてしまうらしい。元に戻れと念じてみろ。」
ユリは目を閉じ、小声で元に戻れと呟いた。竹井の目の前で、ユリがタマゴのような形の光につつまれた。その中で、ユリのシルエットが光の粒となり、タマゴの中で拡散し、またもとのユリの形に再構成された。
タマゴが消えるとユリはその場で座り込んでしまった。本人が思っていた以上に疲労していた。
竹井がユリから衛星無線を受け取リ、通話状況を確認するとさきほどとは違い、全く何も邪魔がない状態であった。
二人を迎えるためのヘリが来るまでの間、竹井の感覚がなくなってしまった足を枕に、ユリは微笑みながら眠りつづけた。