ヤマノケ 1
対象αが出現して、日本列島は分断された。
関東以北はノーマンズランドと呼ばれ、必死の撤退戦が繰り広げられている。
その中、ある偶然から取られた写真をもとに竹井二尉は捜索隊に加わるが……
十日ぶりに黒の森を抜けた。
五城目街道のアスファルトの舗装が続く道に出た。
山はミルクのような濃霧に覆われていたことを、この場に出てはじめて知った竹井はひび割れたアスファルトの車道に崩れるようにしゃがみ込み、背負っていた荷物を下ろした。
「ちっくしょう……。」
北東北山間部を上空での生存確認を行っていた航空自衛隊と米軍の偵察機が捉えた一枚の奇跡の写真に従って、探索部隊がこの地に足を踏み入れたのは十日前のことだった。
上空からの支援と最新装備での一個中隊が、四日後にはあっという間に散り散りとなり、竹井二尉と彼の小隊だけがかろうじて衛星回線を通じて連絡が取ることができていた。
しかし、三日前の夜に何ものかの襲撃に遭い、三十七時間の退却の末、気が付くと竹井一人だけになっていた。
襲撃してきた未確認の敵の気配は消えたものの、衛星回線は不通となり、上空での支援を行っていたヘリ部隊とも連絡がつかず、いまも竹井を探しているのか、不明だった。
「やけに濃い霧だ……。」
入山した時から、竹井は悪い予感がしていた。
山の気配が不穏なのだ。
陸上自衛隊中央即応集団の特殊部隊ーSFGpに転属される前は、旭川にある第2師団にいた竹井は北海道から東北の、特に冬山のスペシャリストだ。
長年の経験から、山の気配という言語化し難い空気を感じることに長けている。
その彼が、天まで突くような真っすぐのスギの山に足を踏み入れた時、うなじの毛が逆立つほどの異様な気配を感じた。
どのような山でも生き物、大型ほ乳類に限らず、リスなどの小型ほ乳類や鳥、魚や虫の気配はある。人里に近ければ、人の気配だってあるだろう。
だが、それは広大な山の点でしかない。
道など無い森に入ったとしても、どのように樹木が行く手を遮っても、空気が流れ、空間の広がりを感じる。
ここにはそれが無いのだ。
濃密な生物の気配。
この山にそれが充満しているのだ。どこまで行っても見られている。側にいる。逃げることができないのだ。
しかもその気配はやけに生々しい。まるで人のようだった。
「いや、これは人だ。人そのものだ。」
何を仕掛けてくるわけではないその気配に、ある自衛官がすぐに参ってしまった。
二日目の夜、その男は装備していたカービン銃を暗闇にむかって全弾撃ち尽くし、9㎜自動拳銃をホルダーから抜き、構えながら森の奥に消えていった。
すぐに後を追った他の自衛官が見つけたのは、撃ち尽くし、まだ熱を持った拳銃とギザギザにちぎれた左の耳だけだった。不思議なことに血は無かった。
それから、空耳や幻覚を感じ出した仲間たちは、ささいなことで感情的になり、疑心暗鬼から喧嘩となり……。
竹井二尉はリュックからレーションを取り出した。他の隊員たちが残した荷物から取り出し、節約しながら食べていたが、もうそろそろ厳しい。乾パンを齧り、水を口に含んだ。熱い炊きたてのご飯に牛肉の缶詰が恋しい。
ナイフ一つで入山くらいは容易いことだが、この山のものは口に入れたくない。
竹井は古事記の黄泉の国の話を思い出した。
根拠の無い妄想のようなものだが、戻れない予感がした。
だが、国道に出れば、あとはそのまま道なりに進めばよい。どちらに向かっても、集落に出ればよい。たとえ人はいなくとも、電気と電話は通じている。山から逃げることができるのだ。
しかしそう、うまくゆくのか?
悲観的な予測が頭をもたげる前に竹井はリュックを背負い、立ち上がった。
「どちらに行こうか……。」
GPSも磁石も効かないが、頭の中の地図と道の形状を照らし合わした結果では、右手に進めばほどなくトンネルがあるはずだ。
「トンネルは避けたほうが良さそうだな。」
フラグか。
竹井は一人で鼻をならした。PCゲームにはまった隊の若い連中は、私語の中に、よくこんな俗語を混ぜていた。
左に向かった。視界はきわめて悪かった。それでも、山中のような人の気配が薄くなったのが、竹井の心を軽くしてくれた。
十五分ほど進んだところで、竹井は信じられないものを目にした。
山の横腹にぽっかりと開いた黒いまるい穴。トンネルだった。
「ちっ!」
たしかに峠は下りを進んでいたはずだった。
「やっぱり、フラグだったのか…。」
トンネルの脇には道路公団がつくったトンネルのメンテナンスのための細い砂利道がある。しかし、これがトンネルの出口まで続いている保証は無い。また、山に足を踏み入れれば何かに追われるだろう。
緩くカーブしているトンネルは竹井の位置からは向こうが見通せない。
ただ、闇が口を開いて竹井を待っているだけだ。
竹井は砂利道に足を進めた。
また、気配が濃くなった。心なしか、地面が熱いようにも感じる。
ただ、前のように視界からぎりぎり外れるような背後から足音も無く、つけられているような気はしない。やや遠目に眺めているだけだ。
砂利道は思いの外、続いていた。
あいかわらず、鳥の鳴き声、虫の音一つしない。
風もないので、霧が留まっている。時おり、葉に溜まった水滴が落ちる音くらいだ。
それなのに、何物かに見られている濃厚な気配がする。それは近付けなく、焦れている様子が手に取るように分かる。
黙々と細い道を歩く竹井が何かを感じ、頭を上げた。
「風…か?」
霧が、渦を巻いて流れてゆく。
見る見るうちに視界が開けてゆく。地図で心得ていたが、遠くの山とその間の広がりを見ると改めて深い谷であることが実感された。
「な……なんだ…。何が……」
竹井を絶句させたもの。
それは谷底から幅数十メートルに渡り、川のように広がる白骨の道だった。
スギやミズナラ、ヒノキが一方向に薙ぎ倒され、みな焼却された骨のように白く形を残して枯れている。そして、中央には動物の骨らしき骸骨が点々としている。あきらかに人骨らしい頭蓋骨も目に入った。
「まるで、何かが通ったあとのようだな……。」
竹井はそれが何か、すぐに思い当たった。
「『対象αーオブジェクト・アルファー』か。」
それならば、この異様な気配も納得できた。逆に、なぜそれまで、このことに思い当たらなかったのか、竹井自身不思議であった。
いくら、陸上自衛隊の誇る特殊部隊の精鋭であっても、物理的な攻撃を無意味と化してしまう相手では、赤子のように無防備だ。
魔法少女たちの出撃を依頼せねばならないとあわてて無線機を取り出そうとしたが、この地では電子機器がなんの役にも立たないことを思い出した。
「いろいろと詰んでいるな。」
竹井は下唇を噛みしめた。とりあえずは、生還することが第一の目標だ。今回の作戦は放棄せざるを得ない。
歩みを進めた竹井の目の前に砂利道が消えていた。
少し前と同様に方向感覚を失わされたかと思ったが、山に向かってけもの道のように踏みしめた跡があった。
竹井はかがみ、よく観察した。
人が一人通ることができるほどの広さしかない。
草を刈り、道をつくったような形跡はないが、最近も何物かが通った形跡がある。そして、腰あたりの高さに伸びていただろう太い枝の根元が鋭い刃物で切った跡がある。
山に慣れた人間が作った山道だろうというのが竹井の結論だった。
「だとすれば、この子か。」
竹井は胸ポケットから一枚のカードを取り出した。
米軍の偵察ヘリの超望遠レンズで捉えた一人の少女。彼女はカメラを睨みつけるように視線を送っていた。
着ているものも肩に黒い毛皮らしきものを羽織り、腰にも同様の皮を巻いている。頭には編み笠をかぶり、まるっきり明治の頃のマタギの姿そのものだ。
「…進んでみるか……。」
『対象αーオブジェクト・アルファー』は明確な人の姿は取らない。また、歩きやすいように枝を落とすような知恵は無い。連中は蹂躙し、破壊し、食らいつくすだけだ。
彼女は人間である可能性が高い。
だとすれば、彼女の作った道を辿れば、安全に里に降りることができるかも知れない。もしかすると、彼女に出会える可能性も高い。
竹井は草を踏みしめた。
けもの道のような細道を進むとトンネルからは離れてゆくのがわかった。不安を押し殺し、先に進むとあることに気が付いた。
道は谷底の白骨の道からつかずはなれず、つけられていたのだ。そして、あの気配が近寄ってこないのだ。
どういうことなのか、竹井には理由が掴めないが、安全なことだけはわかった。
気が緩んだのか、地に張っていた根につまずき、転んでしまった。
体感で三十キログラムを超えたリュックに押しつぶされた竹井の膝は鋭く突き出た石によって怪我をしてしまった。
「チッ…。」
リュックをおろし、救急キットを出そうとした時、全身が総毛立った。
「な…なんだ? 何が起こった?」
急に気配が強くなった。もの狂おしいほどの餓えが伝わる。
ズボンが破れ、血の滲んだ膝を見た。
「ハッ……、血か? くそっ!!」
竹井はまたリュックを背負い、走り出した。
霧は晴れたが、薄暗い森の中で気配が溜まるところがいくつもできていた。それは竹井を追いかけ、どんどん集まってくる。
「ハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ…………………………………………。」
ドジった。
逃げ切れるのか?
くそっ! 弱気になれば、そこでおしまいだ。
考えるな。
走ることだけに集中しろ。
竹井はわかりにくい細道を駆け抜けた。
道から外れれば命は無い。証拠は無いが確信があった。
奇怪に曲がりくねった根を飛び越え、苔に足を取られながらも、体勢を立て直し、振り返ること無く走りつづけた。
その行為は竹井の正気を保つ唯一で最後の手段だった。
もし、ここで振り返ってしまったなら、竹井の強靭な精神はその場で崩壊してしまっただろう。
どのくらい走りつづけたのか、竹井自身もわからない。日々の厳しい鍛錬で培った鋼の肉体も筋肉を動かすエネルギーがなくなれば、それでおしまいだ。
何度か足がもつれた。
本能が勝手に荷物を捨てさせた。
だが、銃だけは手放さなかったのは、自衛官として、本能を超えた条件反射的な教育だった。
後ろの気配が巨大なものになっていた。
物質としての形質を有してしまったのか、葉が揺れ、枝がおれ、幹が倒れる音が聞こえた。
「ハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ…………。」
気配がどんどん近付いてくる。
いま、衿に指がかかった。
すそをつままれた。
足を掴もうとされ、踏みつけた。
「コッチャサ、コッ!!」
ひとの声に驚き、目を上げると、そこにはからだに不釣り合いなほど、長い銃を構えた小柄な人間が見えた。
竹井はその人に向かった。
引き金に指がかかるのが見えた。
「ガッ…………。」
竹井はヘッドスライディングの要領で頭から滑り込んだ。
タン!
乾いた音がし、ヘルメットをかすめて銃弾が後ろの何かに撃ち込まれた。
弾着の音も無く、気配が霧散した。
そして、竹井はその場で昏倒した。