三
良晶は走っている。普段密かに彼を守っている護衛たちをも突き放す勢いで、駆けている。
彼の顔は、いつもよりまして険しい。視線は射殺すどころか、大量殺戮を引き起こしそうなほどだった。
行き先は決まっていた。緋杏の働く饅頭屋である。
彼が肩をいからせ、店に入ってきたときには、一人の客もいなかった。
奥から小柄な主人がちょこちょことやってくる。ひどく残念そうな顔をしながら。
「……今日は、店を休みにしました。あの子を、探さなくてはならないのですよ。家内は……目を赤くしていて、口を聞こうとしないようでして……。旦那様、ご存知ないでしょうか、あの子の事情を。どうして、消えたのか」
「いや……知らないのだ」
声が意気消沈していくのを、彼自身もわかっていた。嫌な予感が、的中したのである。異母兄は、彼女を使って何を企んでいるのだろう。何を、望んでいたのだろう。彼女は、何を思って、ここにいたのだろう……。
「そうだ。……何か、伝言や置き手紙の類は」
「ございました」
彼はそれきり、貝のように口を閉ざした。良晶が早く言え、と急かせば、貝の口も開く。
「ただ一言、『ごめんなさい』、と。誰宛ということもありませんでした。……おそらく、あの子と関わってきた皆に、そう言いたかったのでしょう」
「昨日の様子は?」
「特に変わりなく。旦那様こそ、昨日はあの子と会っておりましたし、何か……」
「心当たりはまるでないのだ……」
――一体どこへ行ったのだろう、緋杏……。
彼女の交友関係はさして広くなかったはず。店と、あの鈴玉とかいう男装少女ぐらいなものだ。
実質はどうであれ、緋杏は良晶の妻だった。他のどんな男よりも彼女に近しかったのは、彼だった(皇帝としてではないが)。なのに、今、彼女の行方を知らない。
この状況は、緋杏が後宮を脱走したのと似ているが、ある意味で似ていない。
皇帝陛下は沈思する。
――そういえば、私が尋ねるのもおかしいから、と口には出さなかったが。……彼女は、どうして脱走したのだろう……?
それもまた、あの虞慶と関わっているのだろうか。
店主と別れ、店を出る。待ち構えていた護衛官たちを呼び寄せて、彼は重苦しい言葉で命令を下す。
「これより全力を上げて、私の妃を捜索するのだ。――行け」
護衛官たちは都中へと一斉に散らばっていく。
そして、また良晶自身も手当たり次第に都を駆け回っていったのだ(ただし、最後には体力切れでギブアップ、護衛官たちに抱えられて帰宅?したのはまた別の話)。
当たり前の話だが、後宮は閉じられた場所である。さして門も設置されていない。あったとしても、大抵、外朝のさらに北、長い長い塀を伝った先にあり、人通りも少ない。時折、女官たちが気に入る装飾品や衣を携えた商売人たちが出入りする。だが、総じて活気はなく、粛々と通り過ぎていくばかり。
ここにももちろん、門番はいる。ただ、闖入者が現れることもなく、刺激もないお役目なので、あまり誰もやりたがらない。そもそも守るべき妃はここにはいないのだ、以前にもましてやる気が出ないのも当たり前、体力に限界を感じてきた年配の者が当たることもしばしばである。
そんなわけで、今日の門番二人もそれぞれに欠伸を噛み殺す。ふわあ、と。
二人共酒飲んで徹夜、休憩ナシ。交代まであと半刻。ふらつく体を槍を杖がわりに支えて、へっぴり腰で目の前にあるのっぺりとした白塗りの壁を眺めている。
「眠い」
「眠いな」
「だが、寝ちゃいかん」
「いかんな」
「俺ら、頑張ろうぜ」
「うん……がんばろぅ……すぅ」
「寝るな~、寝るなよ~。話しながら寝ちゃいかんー」
「うぅ、わかってるよう……。でも、眠たくなきゃ、胸がムカムカと……うぷ」
「やめろ。吐くな。あんたが吐いたら、俺まで吐く。確実に」
「年取ったな、俺ら」
「うん。もう若くないわ。この間鏡を覗いたらさ、髭に白髪が混じってた」
「あぁ、俺も俺も。髭じゃなくて、眉毛だったけど」
「……どうでもいいな」
「……どうでもいいよ」
「あの……」
「え?」
「は?」
ふたりのやり取りにもうひとつの声が加わった。まだ若い女の声である。
見れば、なんだかちんまりした女が立っていた。いや、身奇麗にしていて、華やかな格好をしているのだが、どこか表情が素朴で、世間ずれしていない感じがする。
「どこかの偉い御方に私のことをお伝えいただけないでしょうか」
「はあ、何を」
門番の片割れがそう尋ねる。すると。
「貴妃、緋杏が皇帝陛下にお目通りを願っている、と。お願いできます?」
女の口調は、ちょっとお遣いに行ってきて、と頼むような軽いものだった。本人も、さらっと言ってのけて、にっこりと笑っている。
「私、わけあって、陛下にお会いしたいの」




