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貴妃の脱走  作者: 川上桃園
貴妃の快走
14/18

 時は少し遡る。

 朝議を済ませた良晶は、カラッと晴れた青空には似合わぬ苦々しい顔をしていた。


虞慶(ぐけい)兄上は、心の底から先帝を尊敬していたと思う。たぶん、私などよりよっぽど。穆脩ぼくしゅうを可愛がっていた」

「左様でございます。弟からもそのように聞いております。ただ、あの方は……」


 皇帝付きの宦官は、報告をまとめた書簡を手渡し、これ以上は言えぬとばかりに首を振る。

 良晶はつかつかと自室へと繋がる回廊を歩み、書簡を広げようとしている。


「哀れな兄だ。元々思い詰めやすく、気性が激しい方だが、完全におかしくなってしまったのは、先帝が亡くなられた頃からだったな。先帝の病は誰にもどうすることができなかったというのに……ましてやその死に私が関われるはずもないだろう。皇位継承権第二位というだけで、疑うのもおかしい。……おかしいというのに、自分がおかしい、と思われない。いいや。……違うか」


 広げようとした手を止めた。

 朝から鳥がさえずっている。耳を傾けるように、手摺に手をかけて、外の大木を見上げた。

 枝にいるはずの鳥は青々とした葉に覆われて見えない。


「本当は、自分こそが、と思っていたからこそ……信じられないのだろうな」


 自分がそうだから、と相手も同じことを望んでいるはず、と傲慢な考えを抱いていたとしたならば。

 良晶は、何も変わらない兄に、ため息を零すのだろう。

 異母兄の虞慶が帝位に押されなかったのは、母である妃の身分が低かったことと、後見する勢力がいなかったこともあるが……すでにその異常な言動を問題視されていたからでもある。

 何の前触れもない怒りの発作。鹿肉が食べたいと先帝が何気なく零せば、見るからにいたぶった痕の残る鹿をむき身のまま持ってくる。挙句、通りがかりの官吏がこちらを嘲笑ったといい、剣で斬ろうとする。

 対して、良晶は先帝とは母も同じで、心身ともに特に問題なしだとされた。穆修が成長するまでの間の中継ぎに何の不足もないし、本人も中継ぎだと認めている。

 彼が即位してまず側近たちに迫られたことは、兄への処断だった。

 良晶は、兄の持つ皇族としての権限を狭め、田舎へと移住させた。だが、幽閉まではすることもないだろう、と、そういう腹積もりでいたのだ。


「兄上は、ますます私を恨んだだろうな……」


 宦官は口を梅干しのようにしぼませた。眉根を寄せて、恐る恐る報告する。


「実は、虞慶さまに関する報告で、いささか気になる点がございます……」

「なんだ?」


 良晶は宦官へと向き直る。


「これは、私の落ち度でもあるのですが……虞慶さまを取り巻く側近たちのつながりの中に、ある方がおられまして……」

「誰だ?」

「貴妃さまの父が……あの方と繋がっているようです」


 彼の脳裏で、以前「駒」という言葉の意味が閃いた。駒とは、緋杏ではあるまいか。

 背筋が凍りつく心地で、彼は書簡へと目を走らせる。恐ろしい勢いで読み終えると、走り出す。


「陛下、どちらへ!」

「城下へ!」


 彼は駆け出しながら叫ぶ。


「回せそうな仕事は、全部穆脩へ持っていけ! 代理が立てられる要件ならば、謁見も頼むように! できれば、二刻過ぎる前には戻ってくる!」


 静謐の回廊には、打ち捨てられた書簡を拾い上げた宦官だけが残っている。

 彼はおいていかれるのには慣れていた。……と、いうより、今回はあっさりしすぎて拍子抜けしていた。


「何かが……こう、足りないような気がする」


 愛の暴力が足りないのかもしれなかった。







 都の片隅にある小さな邸は、ひっそりと不気味に静まり返っている。入り組んだ小さな路地に門があったために、行商人さえここに気づくことはない。門をくぐり、庭へ回ると、円窓が開け放たれている。

 中で一人の女が身繕いをしている。つやつやとした髪を(くしけず)り結い上げて、いくつもの髪飾りが髪を彩っていく。最後に、百日紅さるすべりを模した簪を挿し、鏡を覗き込むと、その様子を眺めている男と目が合った。


「……母様は」


 女の表情は伺えない。今にも笑いだしそうにも、泣き出しそうにも見える。本人も、どんな顔をすればいいのかわからないのだろうか。


「母様は、泣いていたのではないかしら」


 別れ際の母は泣いていたのだ。

 彼女の父は、背後から歪んだ襟を整えてやっている。


「女というものはすぐに泣くものだが、母様は泣いていなかった。もう、泣く気力もないのだろう」

「そうね……泣くのは、疲れてしまいそうだもの。その方がいいわ」

「お前の泣いたところは見たことがない」

「……思い出せる限り、確かに泣いた覚えはないわ。きっと、父様に会うまでに、どこかへ落としてきてしまったのかも」

「これからのことを怖がっている様子もないのだな、お前は」

「どうして怖いと思うのかしら。だって、これは必要なことだと父様がおっしゃったでしょう? 大丈夫よ、私はちゃんとできるもの……」


 軽く白粉をつけ、絵筆で描くように、唇にそっと紅をのせる。

 まとった衣の、なんと艶やかなことか。縫い取られた花の刺繍のなんと可憐なことか。

 彼女は、貴妃時代と寸分違わぬ姿になっていた。


「これは、私にしかできないこと。父様がそのすべてを賭けた御方の望みだというのなら……」


 彼女は目を伏せながら立ち上がって、父は娘の戦装束に目を細める。


「やることは、わかっておるな……緋杏」

「はい」


 緋杏はぱちりぱちりと瞬きした。黒曜石が濡れたような輝きは、一瞬射るような鋭さを持ったようだったが、幻のようにあっさりと消え失せる。

 父は気づかず、拳を握り締める。しっかりと、娘に言い聞かせるのだ。


「いいか。緋杏……確かに、確かにだ。皇帝良晶を、その手にかけろ。お前の手が血に染まり、お前自身の血が流れようとも、皇帝の位を正しき血筋に戻せ。それがお前の生きる意味、これまで生かされてきた宿命なのだ――」



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