二
時は少し遡る。
朝議を済ませた良晶は、カラッと晴れた青空には似合わぬ苦々しい顔をしていた。
「虞慶兄上は、心の底から先帝を尊敬していたと思う。たぶん、私などよりよっぽど。穆脩を可愛がっていた」
「左様でございます。弟からもそのように聞いております。ただ、あの方は……」
皇帝付きの宦官は、報告をまとめた書簡を手渡し、これ以上は言えぬとばかりに首を振る。
良晶はつかつかと自室へと繋がる回廊を歩み、書簡を広げようとしている。
「哀れな兄だ。元々思い詰めやすく、気性が激しい方だが、完全におかしくなってしまったのは、先帝が亡くなられた頃からだったな。先帝の病は誰にもどうすることができなかったというのに……ましてやその死に私が関われるはずもないだろう。皇位継承権第二位というだけで、疑うのもおかしい。……おかしいというのに、自分がおかしい、と思われない。いいや。……違うか」
広げようとした手を止めた。
朝から鳥がさえずっている。耳を傾けるように、手摺に手をかけて、外の大木を見上げた。
枝にいるはずの鳥は青々とした葉に覆われて見えない。
「本当は、自分こそが、と思っていたからこそ……信じられないのだろうな」
自分がそうだから、と相手も同じことを望んでいるはず、と傲慢な考えを抱いていたとしたならば。
良晶は、何も変わらない兄に、ため息を零すのだろう。
異母兄の虞慶が帝位に押されなかったのは、母である妃の身分が低かったことと、後見する勢力がいなかったこともあるが……すでにその異常な言動を問題視されていたからでもある。
何の前触れもない怒りの発作。鹿肉が食べたいと先帝が何気なく零せば、見るからにいたぶった痕の残る鹿をむき身のまま持ってくる。挙句、通りがかりの官吏がこちらを嘲笑ったといい、剣で斬ろうとする。
対して、良晶は先帝とは母も同じで、心身ともに特に問題なしだとされた。穆修が成長するまでの間の中継ぎに何の不足もないし、本人も中継ぎだと認めている。
彼が即位してまず側近たちに迫られたことは、兄への処断だった。
良晶は、兄の持つ皇族としての権限を狭め、田舎へと移住させた。だが、幽閉まではすることもないだろう、と、そういう腹積もりでいたのだ。
「兄上は、ますます私を恨んだだろうな……」
宦官は口を梅干しのようにしぼませた。眉根を寄せて、恐る恐る報告する。
「実は、虞慶さまに関する報告で、いささか気になる点がございます……」
「なんだ?」
良晶は宦官へと向き直る。
「これは、私の落ち度でもあるのですが……虞慶さまを取り巻く側近たちのつながりの中に、ある方がおられまして……」
「誰だ?」
「貴妃さまの父が……あの方と繋がっているようです」
彼の脳裏で、以前「駒」という言葉の意味が閃いた。駒とは、緋杏ではあるまいか。
背筋が凍りつく心地で、彼は書簡へと目を走らせる。恐ろしい勢いで読み終えると、走り出す。
「陛下、どちらへ!」
「城下へ!」
彼は駆け出しながら叫ぶ。
「回せそうな仕事は、全部穆脩へ持っていけ! 代理が立てられる要件ならば、謁見も頼むように! できれば、二刻過ぎる前には戻ってくる!」
静謐の回廊には、打ち捨てられた書簡を拾い上げた宦官だけが残っている。
彼はおいていかれるのには慣れていた。……と、いうより、今回はあっさりしすぎて拍子抜けしていた。
「何かが……こう、足りないような気がする」
愛の暴力が足りないのかもしれなかった。
都の片隅にある小さな邸は、ひっそりと不気味に静まり返っている。入り組んだ小さな路地に門があったために、行商人さえここに気づくことはない。門をくぐり、庭へ回ると、円窓が開け放たれている。
中で一人の女が身繕いをしている。つやつやとした髪を櫛り結い上げて、いくつもの髪飾りが髪を彩っていく。最後に、百日紅を模した簪を挿し、鏡を覗き込むと、その様子を眺めている男と目が合った。
「……母様は」
女の表情は伺えない。今にも笑いだしそうにも、泣き出しそうにも見える。本人も、どんな顔をすればいいのかわからないのだろうか。
「母様は、泣いていたのではないかしら」
別れ際の母は泣いていたのだ。
彼女の父は、背後から歪んだ襟を整えてやっている。
「女というものはすぐに泣くものだが、母様は泣いていなかった。もう、泣く気力もないのだろう」
「そうね……泣くのは、疲れてしまいそうだもの。その方がいいわ」
「お前の泣いたところは見たことがない」
「……思い出せる限り、確かに泣いた覚えはないわ。きっと、父様に会うまでに、どこかへ落としてきてしまったのかも」
「これからのことを怖がっている様子もないのだな、お前は」
「どうして怖いと思うのかしら。だって、これは必要なことだと父様がおっしゃったでしょう? 大丈夫よ、私はちゃんとできるもの……」
軽く白粉をつけ、絵筆で描くように、唇にそっと紅をのせる。
まとった衣の、なんと艶やかなことか。縫い取られた花の刺繍のなんと可憐なことか。
彼女は、貴妃時代と寸分違わぬ姿になっていた。
「これは、私にしかできないこと。父様がそのすべてを賭けた御方の望みだというのなら……」
彼女は目を伏せながら立ち上がって、父は娘の戦装束に目を細める。
「やることは、わかっておるな……緋杏」
「はい」
緋杏はぱちりぱちりと瞬きした。黒曜石が濡れたような輝きは、一瞬射るような鋭さを持ったようだったが、幻のようにあっさりと消え失せる。
父は気づかず、拳を握り締める。しっかりと、娘に言い聞かせるのだ。
「いいか。緋杏……確かに、確かにだ。皇帝良晶を、その手にかけろ。お前の手が血に染まり、お前自身の血が流れようとも、皇帝の位を正しき血筋に戻せ。それがお前の生きる意味、これまで生かされてきた宿命なのだ――」




