4.二回戦『現実編』 殺人の報酬
俺の目を覚ます。
喉の奥に強い酸味が残っており、最悪な目覚めだ。
夢を見ていた気がする。
荒唐無稽な夢だった。雲ひとつない空、砂の闘技場、空から降り注ぐ笑い声、そして、息絶えた名前も知らない男、血塗れたナイフ。
はっきりと覚えていた。
「気持ち悪い……」
俺は余りにも鮮明すぎる夢の記憶に、背筋を凍らせた。
「これ、ゲームのし過ぎとか、欲求不満とかなのか……?」
見る夢を分析することで自分の状態がわかると聞くが、俺にその知識はない。ただ、人殺しのゲームの夢なんて、ろくな状態ではないと思った。
嫌にリアルな夢だった。
ゲームのルールが細かく、そんな夢を構築した自分を褒めたいほどだった。
俺は暖かいベッドから降りて、学校へ行くための準備を行う。
今日は月曜日。これから五日も退屈な時間をすごさなければならないと思うと、陰鬱にならざるをえない。
顔を洗い、歯を磨き、洗濯機をついでにまわす。風呂場を洗い終わる頃には、居間から胃を刺激する良い匂いが流れてくる。
俺はあくびを噛み殺しながら居間へと歩く。
「…………」
居間には朝食をとっている妹がいた。
ちなみに、この家ではこの妹と二人暮らしだ。
妹とは仲が悪いわけではないが、良いわけでもない。お互いに距離の取り方が完成されているため、最低限のコミュニケーションしか行わない間柄だ。
それに、生まれてから今日まで無欠に兄妹だったわけでないという事情もある。そういった事情と、煩わしい問題と、それなりの感情の行き交いがあって、今の状況に落ち着いている。
「……帰りに買い物するけど、何か要る?」
しかし、妹はいつもと違った様子で声をかけてきた。なぜだが、いつもよりも馴れ馴れしく感じる。
俺は用意された朝食に手をつけながら答える。
「いや、ないよ」
「そっか……」
それで終わりだ。
おそらく学校に到着するまで他に会話はないだろう。
食事の音だけが響く。白米と味噌汁と漬物だけの簡素な食事を終え、お互いはお互いの登校のために動き出す。
俺は登校のための準備を終え、余った時間でテレビをぼんやりと眺めていたところ、妹がこちらを凝視していることに気づく。
「妹、どうかした?」
俺が妹を呼ぶときは、そのまま『妹』である。
名前で呼ぶことができない事情もあるが、それ以前にそれほど付き合いが長いわけでもないのだ。そのおかげで、珍妙にも『妹』とだけ呼んでいる。代替案を募集中である。
「に、兄さん。これ、血の臭い……?」
俺はミミズのように動く氷塊が背中を這っているような感覚に襲われる。
血。
すぐに、さきほどの『夢』を思い出して、それを振り払う。
「……は、ははっ、血かどうかはわからないけど、確かに臭うな。ごめん、すぐに風呂入ってくるよ。教えてくれてありがとうな」
俺は乾いた笑いで妹を誤魔化そうとする。
何でもないように振る舞い、すぐに風呂場へと歩く。
妹は怪しんでいたが、登校の時間が近づいていたため深い追求はなかった。「先に、出るから」と言い残して家から出て行った。
俺は風呂場で自分の臭いを確かめた。
僅かだったが、確かに血の臭いがした。いや、それはおそらく正確ではない。血の臭いを嗅ぎすぎて慣れてしまった鼻が、俺に血の臭いを気づかせなかったのだ。僅かでなく、強い血の異臭がしている。
その事実が、俺に『夢』を思い出させる。
そして、その全てを洗い流そうと、延々とシャワーを浴び続けた。
◆◆◆
当然、遅刻だった。
どちらかといえば俺は真面目で通っているため、クラスメートの注目を集めた、けれど、すぐに皆の興味は失われる。真面目で通ってはいるが、影が薄いことでも通っているのだ。
そうこうしているうちに一時限目が終わる。次は体育になっているため、各々は教室を移動して着替え始める。
「遅刻なんて、珍しいな。何かあった?」
そんな中で俺の数少ない友人の一人、外部歩が話しかけてくる。
歩は俺と同じく影の薄いキャラとしてクラスに埋没している。要するに、同類として俺と気が合うのだ。高校生になってから、つるみ続けている親友だ。
「いや、ちょっと寝坊したんだ」
俺は説明しないほうが良いと感じて適当な理由をでっちあげる。
「それはないんじゃないのか。おまえんち、一織ちゃんがいるから寝坊しようがないだろ」
一織がいるから寝坊しない?
俺は少しだけ身体を強張らせる。
まるで、あいつと俺の仲がいいような口ぶりだ。
しかし、普通、兄妹が寝坊しそうになったら起こし合うものなのだろう。勘違いさせたままでいいと思い、俺は適当に答える。
「一緒に寝坊したんだ。あいつはさっさと登校したけど、俺は間に合わなかった」
「ふうん」
すぐにばれる嘘かもしれないが、とりあえずは歩も納得してくれたようだった。
俺たちは二時限目を受けるために運動場へと移動する。
「ああ、今日は初っ端から体力測定だったなぁ。面倒くさい、どうせ俺らは中の下ってところなのに」
「そうだな、運動神経が良ければやる気もでるんだろうけど」
俺と歩は愚痴りながら体育の授業へと臨む、
どう頑張っても普通程度の結果しか出せない俺たちにとって、体力測定なんて退屈な時間でしかない。
しかし、クラスの運動能力が高い面子は、誰々を抜いてやるとかで盛り上がっている。悲しい温度差だ。
軽い準備運動を終えて、グラウンドで50メートル走が始まる。
「それじゃあ、適当に流してくるよ」
「あいよ」
俺は歩に声をかけて、スタート位置まで行く。
隣には運動神経抜群なやつばかりが並んでいた。中には、うちの学年で一番速いのではないかと思われている瀧澤君(サッカー部のエースになるほどの運動神経だ)までも一緒だから、相対的に俺の情けなさが映えてしまうことだろう。
「よーい」
担当している体育教師が合図をかける。
勢いよく振り下ろした腕と共に俺は駆け出す。
運良くスタートダッシュを上手く合わせることが出来たようで、俺の目の前には誰もいなかった。しかし、それは一時の勝利でしかなく、すぐに追い抜かれるのわかっていた。
すぐにそうなると思っていたが――
異常に気づく。
いつまで経っても、誰も俺の前へと現れない。
俺は悠々とトップでゴールを抜けた。
「へ?」
そして、まばらにゴールしていく運動神経抜群なクラスメートたち。
記録を計っていた生徒が声をあげる。
「すっげ、想本、6秒ちょいだぜ!」
6秒ちょい、少し前まで7秒の後半だったはずなのでありえない数字だ。
「まじかよっ! 正確にはどれくらいだ!?」
俺と一緒に走っていたクラスメートは驚いたように俺の記録を追及する。
他の人の記録を計っていたクラスメートも興味を持って、俺の記録を計っていたやつへと詰め寄る。
「6秒09だ。え、これってすっげえ速いんじゃねえ?」
「5秒台前じゃないか、ありえなくね?」
「想本、すげえ速いじゃん。なんで、今まで記録でてなかったんだ?」
「いやいや、計りミスじゃないの。手動で計ると誤差、すごい出るらしいし」
俺を放置して騒ぎ始めるクラスメートたち。
俺は運動神経抜群なクラスメートたちを抜かしたことに優越感を覚えながらも、同時に恐怖も沸きあがってきていた。
『夢』。
そう、『夢』を思い出した。
確か、――「わかった。『短剣セット』に2枚、速さに3枚払う」。俺は、あの少女にそう言ったのだ。『速さ』に、『魂の金貨』を、3枚も払ったんだ。
「おい、想本、どうなんだ。おまえ、フライングしてたか?」
「いや、先生は止めたなかったぜ」
「想本、こっそり練習でもしてたのか?」
複数のクラスメートが俺に問いかける。
「ははっ、たぶん、計り間違えたんだろ。確かに今のはベストな形で走れたけど、さすがに速すぎる数字でしょ」
俺は眩暈を抑えつつ、つくり笑顔で答えた。
「そ、そうだよな」
「先生に言って、もう一度計るか?」
「そうしたほうがいいんじゃないか。本人も間違いだって言っているし」
もう一度計り直す流れになっているので、俺はスタート地点へと戻っていく。
そして、先生たちへ事情を説明してもう一度走ることにする。
今度は抑えよう。
けれど、さっきの50メートル走で俺が運動神経抜群の人を抜いていたのは事実だ。
速すぎず、遅すぎず、不自然さがでないような記録を狙う。
「よーい」
そして振り下ろされる腕。
俺は足の速い人、瀧澤君に目をつけ、その少し後ろを走る。
「えっと、6秒91だ……」
計りなおした記録が皆に告げられる。
「なんだ、そのくらいか。けど、それでも速いな」
「ああ、想本がこんなに速いとは思わなかったぜ」
「確かに、5秒台近いとか、大会クラスだし」
クラスメートたちは納得したように話を始める。
けれど、瀧澤君は俺をいぶかしんでいるように見える。なにせ、一本目はぶっちぎりで前を走られ、二本目は後ろをぴったりと走られたのだ、その違和感は他の人よりも強そうだ。
「先生が気づかなかっただけで、一本目はフライング気味だったんだよ」
俺は何でもないような様子を装い、瀧澤君の肩を叩き、待機しているクラスメートたちへと紛れ込んだ。
興味を示したクラスメートたちが俺に話しかけてくる。しかし、俺は言葉を濁すことしかできない。
俺は苦笑いを浮かべながら体力測定を受け続けた。
そのどれもが、異常な結果を叩きだしそうだったため、神経をすり減らして調整を行い続けた。
何より、今まで自分を見下していたやつらを見返そうとする欲求を抑えるのが大変だった。
しかし、この尋常でない状況が、どうにか俺の逸る心を抑えてくれた。
このような感じで続いてきます。