モラハラ婚約者の末路 ~私の手柄を奪って威張っていた男はすべてを失った〜
「女に魔導具の研究など不要だ。聖ロマーリオ学院を卒業したら、大人しく俺の妻になってブスマン家を支えろ。俺のような優秀な夫を持つことが、女にとって一番の幸せなんだ。理解できるな?」
学校の廊下で、私の婚約者であるエルジオ・ブスマンが告げてくる。
黒髪を指でかきあげ、まるで犬に言い聞かせるような傲慢な態度だ。
「聞いているのかミレイ! 俺にもう一度同じ事を言わせるのか!」
「いえ……わかりました、エルジオ様」
私は、膝の上でギュッと拳を握りしめながら、伏し目がちに頷く。
「わかればいい。それと、明後日までに提出する魔導具の基礎理論のレポート、お前が仕上げておけよ。俺の字体を真似て書くのを忘れるな。俺の輝かしい成績に傷をつけたら承知しないぞ」
当然のように私の労力を搾取し、エルジオは取り巻きの友人たちのもとへ戻っていく。
彼の背中を見つめながら、私の心は重い泥沼に沈んでいくようだった。
私はまだ十八歳にして、人生が終わったように感じる。
私の夢は隣国へ留学し、最新の魔導具と武器の研究をすること。
しかし一年ほど前、ブスマン家の莫大な財産と権力に目が眩んだ両親が、私の幼馴染で婚約者だったリオスとの婚約を一方的に破棄させた。
そして、半ば無理やりエルジオとの婚約を結ばせたのだ。
以来、私はエルジオに研究の成果や課題をすべて奪われ、彼が自分の手柄として評価を得るための便利な道具として扱われている。
反論すれば両親から「ブスマン家の機嫌を損ねるな!」と激しく叱責されるため、私はただ耐えるしかなかった。
「……死にたい」
そう呟き、敷地の外れにある旧工房へと向かった。
ここは使われなくなって久しい場所だが、私にとっては唯一息ができる秘密の避難所だ。
いや、私と『彼』だけの場所である。
軋む扉を開けると、魔導具の部品や工具が散乱する机に向かっている見慣れた背中。
「ミレイ、遅かったね。エルジオにまた何か言われていたのかい?」
振り返り、私を気遣うのは、元婚約者であるリオスだ。
サラサラとしたブラウンの髪に、理知的な瞳。
派手さはないけれど、誠実で優しい私の大好きな幼馴染。
私たちは密かにこの場所で、対悪食竜用の魔導具や武器の共同研究を続けていた。
「いつものことよ。レポートの代筆を押し付けられていたの」
「あいつ、また君の成果を……。っていうかミレイ、少し休んだ方がいい。顔色が酷く悪いよ」
リオスは作業の手を止め、温かい紅茶を淹れてくれた。
マグカップを受け取ると、彼の手の温もりが伝わってくるようで、張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
「ありがとう、リオス。……実は私、少し焦っているの。卒業したら、私はもう研究を続けられなくなる。ブスマン家に嫁いだら、工房に出入りすることすら禁じられるわ。私の夢は、ここで終わってしまうのかな……」
声が震え、視界が滲む。
弱音を吐くつもりはなかったのに、リオスの前だとどうしてもうまく強がれない。
ポタリと机に涙が落ちた瞬間、リオスが隣に座り、私の両手を強く握りしめた。
「ミレイ」
「……っ。ごめんなさい、私……」
「謝らないで。僕は……僕は、君を諦めたくないんだ。ずっと一緒にいたい。君のその素晴らしい才能も、君自身のことも、僕が守りたい」
「リオス……」
リオスの瞳は、真剣な光を宿していた。
「卒業したら家も身分もすべて捨てて、二人で隣国へ逃げよう。向こうの伝手は僕が探す。二人なら、きっとどこでだって研究を続けられる。だから……絶望して、心を殺さないでくれ」
それは、すべてを捨てる覚悟を伴う駆け落ちの提案だった。
辛く息苦しい日常から、彼が連れ出してくれる。
その事実がたまらなく嬉しい。
私は溢れる涙を拭うことも忘れて、何度も強く頷いた。
「……うん。私も、あなたと一緒にいたい。リオスとなら、どこへでも行くわ」
私たちは固く手を握り合い、冷たい工房の中で、確かな未来の約束を交わした。
でも不安は消えない。
もしそんなことをしたら、ブスマン家は財力を使って追っ手を出すだろう。
私はともかく、リオスだけは危険な目にあわせたくない。
☆
魔物学の授業で、初老の教師が黒板に鳥の魔物の絵を描きながら説明をする。
「最近、王都周辺の山岳地帯で『ハイエナ鳥』という魔物が増加している。こいつらは非常に厄介でな。強力なドラゴンの後を追って大群で移動する習性があるのだ。ドラゴンが生み出す死肉を漁るために。もし空がハイエナ鳥で黒く染まったら、近くにドラゴンがいる前兆だと思え」
生徒たちが不安にざわめく中、教師はさらにチョークを鳴らして続けた。
「だが、上級のドラゴンは単なる凶暴な獣ではない。極めて高い知能を持ち、中には人語を解する個体もいる。理論上は人間と友好的な関係を築くことも可能かもしれないな」
これに馬鹿笑いしたのはエルジオだ。
「あははははは! 先生、ドラゴンと友好関係ですか? 俺に殺された屍とであれば、可能かもしれませんね!」
「その通りですよ〜! エルジオ様無双で終わりです」
エルジオの取り巻きたちが調子よく褒め称える。
ブスマン家は厄介なので、先生もあまり注意はしない。
生徒たちが嘲笑する中、私とリオスだけは違った。
私たちはそっと視線を交わし合う。
『いつか、ドラゴンと対話できる魔導具を作りたいね』
『そうだね。悪食竜だけを退けて、知能の高いドラゴンとは共存できる道を探ろう』
声に出さなくても、お互いの考えていることが痛いほどわかった。
それが、私たちが今進めている研究の最終目標でもあったからだ。
悪食竜という、人間をひたすら狙う小型の竜は危険だが、上位竜は先生のいうように友好の可能性があるのだ。
☆
年に一度の学院祭がやってきた。
校庭には無数の出店が立ち並び、串焼きや香草焼き、甘いお菓子の香ばしい匂いが辺り一面に漂う。
生徒だけでなく来客も多く、校庭は人で溢れている。
中でもみんなが夢中なのは、恒例の武術大会だ。
「あっはっは! 見たか、俺の華麗な剣技を!」
決闘場の上でふんぞり返っているのは、エルジオだ。
彼の剣術は凡庸だが、ブスマン家の財力に物を言わせ、対戦相手を事前に金で買収し、わざと負けるように仕組んだ八百長で勝ち進んでいた。
事情を知っている者たちは冷ややかな目で見ているが、本人は自分の実力だと本気で信じ込んでいるようだ。
さらに最悪なことがある。
いま、彼が自慢げに頭上に掲げている片手剣は、私とリオスが旧工房で共同開発した『対悪食竜用・ドラゴンスレイヤー』の試作品だった。
ワイバーンなどの鱗の隙間に有効な毒を練り込んだ、私たちの血と汗の結晶だ。
「皆様、よく見ていただきたい! このドラゴンスレイヤー武器は、私が日夜研究を重ねて独自に開発したものだ! 最近、ドラゴン出現の吉兆があるらしいが、ご安心を。このエルジオが一撃で殺すでしょう!」
観客席の一部から拍手が上がる。
エルジオは満足げに頷くと、観客席の隅にいたリオスを見つけ、下劣な笑みを浮かべた。
「それに比べて、そこの貧乏男爵のリオスときたらどうだ? 剣の腕もなければ、家柄も低い。日々ガラクタをいじり回しているだけの、まさに学院のゴミだな! お前のような無能が、私の婚約者に色目を使っていた時期があったとは虫唾が走る。ミレイは俺のものだ、今後一切関わるな!」
大勢の観客の前で、エルジオがリオスを指差して執拗に嘲笑する。
周りの取り巻きたちもヘラヘラとそれを盛り上げる。
リオスは悔しそうに唇を噛み締めている。
プツン、と。
私の中で、なにかが決定的に切れる音がした。
私が馬鹿にされるのは耐えられた。
成果を奪われるのも、この際どうでもよかった。
けれど……リオスを……彼のひたむきな努力と優しい心を侮辱することだけは、絶対に許せなかった。
「エルジオ様!」
私は観客席から飛び出し、決闘場のすぐ下まで進み出て、彼を睨みつけた。
「ミレイ……? その反抗的な目はなんだ?」
「私に対する侮辱は百歩譲って受け入れます。でも彼を……リオスを悪く言うのだけはやめてください! 彼はあなたのように、金で相手を買収して虚勢を張るような恥知らずではありません!」
突然の私の激しい反抗に、周囲はシンと静まり返った。
エルジオは顔を真っ赤にして、唾をまき散らしながら怒鳴る。
「な、なんだと貴様! 婚約者であるこの俺に向かって、その口の利き方はなんだ! たかが女の分際で——」
彼が剣を振り上げて怒髪天をついた、その時だった。
——バサバサバサバサッ!!
突如として、校庭の上空が不自然なほど真っ暗になった。
見上げると、太陽の光を遮るほどの夥しい数のハイエナ鳥の群れが、悲鳴のような鳴き声を上げて空を逃げ惑っていた。
「なん、だ、あれは……!」
「ハイエナ鳥の群れだ! 先生が授業で言っていた……ドラゴンの死肉を漁る……」
直後、邪魔なハイエナ鳥を数体仕留めながら、凄まじい風圧とともにそれは落ちてきた。
ドズゥゥゥゥゥゥゥン!!!
巨大な地響きが轟く。
決闘場のすぐ近くに、黒い隕石のような塊が墜落した。
巻き起こる砂埃と突風に、出店のテントの一部が吹き飛び、生徒たちが悲鳴を上げて転がる。
砂埃が晴れた後、そこに姿を現したのは……。
見上げるほど巨大な漆黒の鱗。
四、五メートルはゆうにある巨体、そして血のように深紅の瞳を持った絶望の象徴。
上位竜の中でも最強の一角と名高い、ダークドラゴンだった。
『ほう、遠出してみるものだな。なかなか良い匂いがするではないか』
地獄の底から響くような、頭の中に直接響く重低音。
誰もが完全にパニックに陥っている。
観客の一部が叫ぶ。
「ド、ドラゴンだぁぁぁっ!!」
「生徒を下がらせろ! き、騎士団、倒してくれ!」
命の危機を目の前にして、誰もが恐怖に包まれた。
数人の教師や護衛の騎士たちが一斉に剣や槍を抜き、ドラゴンへ立ち向かおうとする。
しかし、ドラゴンが面倒くさそうに巨大な翼を一度羽ばたかせただけで、暴風が巻き起こった。
重装備の騎士たちは木の葉のように空を舞い、一瞬にして壁に叩きつけられて無力化されてしまった。
『……ん?』
圧倒的な力の差に絶望が支配する中、ドラゴンがゆっくりと顔を巡らせる。
私と、私を庇うように前に出たリオス、そして腰を抜かしているエルジオの三人の前に、ドラゴンが悠然と歩み寄ってきた。
鋭い嗅覚え、エルジオが震える手で握りしめている『ドラゴンスレイヤー』を捉えたのだろう。
『おい人間。貴様が持っているそれはなんだ? ひどく嫌な臭いがするな」
「こここ、これは……その、剣で……」
腰を抜かしたまま、エルジオが声を震わせる。
『ドラゴンが嫌う何かが塗り込まれているな。さしずめ、竜殺しの剣といったところか。……なるほど、余を殺したいということだな』
「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!?」
殺気が込められた深紅の瞳に睨まれ、エルジオの顔面から血の気が引いている。
ガチガチと歯を鳴らし、へたり込んだエルジオの股間からは、ジョワァァァ……と生温かい液体が漏れ出した。
ズボンには情けないシミが広がり、決闘場に黄色い水たまりを作っていく。
大勢の生徒が息を呑んで見つめる中での、恥ずかしすぎるお漏らしだった。
「あ、あ、あああ……っ! ち、ちがいます、俺じゃない、俺が作ったんじゃありませんっ!」
さっきまで自分が開発したと豪語していたのに、エルジオは剣を放り投げた。
そしてあろうことか、婚約者である私をその場に置き去りにして、涙と鼻水と尿を撒き散らしながら四つん這いで逃げ出してしまった。
「ミレイ、下がれ!」
逃げ遅れた私にアルミラの視線が向いた瞬間、リオスがエルジオの捨てた剣を拾い上げ、私の前に立ちはだかった。
リオスは武術には通じていない。
騎士団でも負ける相手に、勝てる道理がない。
それでも己の何百倍も強いドラゴンに、一切の躊躇なく渾身の一撃を振り下ろした。
——ガァン!!
硬質な音が響き渡る。
ワイバーンを倒すために作られた刃は、ドラゴンの硬い漆黒の鱗に傷一つつけられず、あっけなく根本からへし折れた。
『毒など体内に入らなければ無意味。そもそも下級のドラゴンと余を一緒にするな。その百倍の毒を盛ったところで、余は殺せぬわ』
アルミラが忌々しそうに鼻を鳴らし、邪魔な羽虫を払うかのように、リオスを仕留めようと巨大な爪を振り上げた。
だめ……死ぬ……。
リオスが殺される!
「やめてええええっ!!」
私は無我夢中でリオスに覆い被さり、彼を抱きしめて庇った。
……。
…………。
痛みが、ない。
恐る恐る目を開けると、ドラゴンは爪を振り上げたまま、こちらを見下ろしていた。
『余はアルミラという。女、貴様の名は?』
「ミ、ミレイと申します」
『ミレイよ。己の命より、その男が大事か』
「……はい」
『余は賢い。知っているぞ。夫婦とか婚約者とかいうのだろう』
ドラゴンが名乗ったこと、またコミュニケーションを取ってくることに驚きつつ、私は正直に答える。
「彼は婚約者ではありません」
『なに……? では貴様の婚約者はどこだ?』
「……彼です」
私が逃げ出して、屋台の影に隠れているエルジオを指さす。
アルミラは衝撃を受けたように目を丸くする。
『なんだと!? 小便を漏らしながら、貴様を捨てて逃げた奴が、婚約者というのか!』
「……家同士の都合なのです。私の意志ではありません」
理解できないといった感じにアルミラは首を横に振った。
『弱い人間の考えることは理解できぬな』
「あなたはなぜ、ここに降りたのですか?」
勇気を出して尋ねると、アルミラは存外簡単に教えてくれた。
『腹が減っていてな。そしたら良い匂いがしたから降りてみただけだ』
ドラゴンだけど、人間の食べ物を好むってことだろうか?
確かにここには、大量の美味しいものがある。
肉も野菜も、甘い物だって揃っている。
「ここにあるもので良ければ、食べてみますか?」
『……フム。食ってやるから早くしろ』
半壊していた出店や、まだ無事な屋台から山盛りの肉の束、串焼き、香草焼きなどの料理をひっつかみ、ドラゴンの顔の前に必死に突き出した。
甘いスイーツもそこに添える。
「ど、どうでしょうか……!」
アルミラは大きな口を開けて、集まったそれらをパクパクと食べていく。
『……むぅ。そこそこ、美味いな』
そこからは凄まじかった。
アルミラは殺気をすっかり引っ込め、食い気を出してきた。
すぐに消えていくので、私とリオスは急いで残りを集めてくる。
『ふむ……悪くない。人間どもの飯も、なかなかイケるではないか』
多少は腹が満たされたのか、アルミラはその場にどっこいしょと座り込み、ゲップをした。
空気が緩んだのを感じ、私は震える声で語りかけた。
「私たちは決して、あなたと敵対しようと思ったわけではありません」
「そうなんだよ」
リオスも私を庇うように立ち上がり、言葉を継いだ。
「僕たちはむしろ、ドラゴンと仲良くしたい。あの剣だって、人里を襲う悪食竜だけを対象にしたもので……あなたのような知能の高い竜とは友好関係を結べると思っている」
いつかドラゴンと対話する魔導具を作りたい。
私たちの真実の思いだった。
いま、魔道具はないけれど、その願いが叶っている。
仲良くなれるかもしれない……。
そう思ったが、現実は甘くない。
アルミラはひどく冷たい、アリでも見るような見下す目で私たちを一瞥した。
『貴様らの考えなど、どうでも良い。余が人間と仲良くする? 背中に乗せて送るとでもいうのか? ——有り得ぬ。貴様らなどその辺の虫と変わらん』
絶対的な強者としての痛烈な拒絶。
人間との共存など鼻で笑うような態度だった。
私は膝の震えを必死に抑えながら、立ち上がるアルミラに問う。
「で、では、私たちを許していただけますか?」
『許す? 飯も食ったし、貴様に興味などない。……いや、一つだけあるな』
アルミラは、エルジオをつまむように指で捕まえて持ち上げる。
「た、助けてっ」
『この小便臭い男と一緒になるのはやめろ。見ていて不愉快だ。家の都合か知らんが、そんなものが邪魔するなら余が壊しにきてやろう』
パッと指を話すと、エルジオがお尻から地面に落ちる。
激痛で芋虫のように転がってうねうねしている。
『フン』
殺す価値もない。
目がそう語っていた。
アルミラは巨大な翼を大きく広げ、凄まじい暴風を残して空の彼方へと飛び去っていった。
後に残されたのは半壊した校庭と、呆然と空を見上げる私たちだけだった。
☆
数日後。
ドラゴンの襲来という前代未聞のパニックがようやく収束した頃、ブスマン家の応接室には重苦しい空気が漂っていた。
大勢の生徒の前で盛大にお漏らしをし、自慢していた剣を投げ捨てて婚約者を置き去りにしたエルジオは、学院中の笑い者となっていた。
プライドだけは一人前だった彼にとって、それは社会的な死を意味していた。
取り巻きは離れ、すれ違う生徒からはクスクスと指を差される日々。
「ミレイ! お前、俺を置いて逃げるとはどういうことだ! 俺が剣を落とした隙に、お前がドラゴンを怒らせたせいで俺は……ッ! それでも婚約者か!」
自分の醜態を完全に棚に上げて、顔を真っ赤にして喚き散らすエルジオ。
同席していた私の両親もそれに同調する。
「エルジオ様のおっしゃる通りだ! お前がもっと上手く立ち回らないから……」
没落しかけの我が家は、彼らに媚びへつらうしかないのだろう。
貴族社会なんて大嫌いだ。
私はそんな彼らをひどく冷たい、憐れむような目で見下ろした。
もう、我慢する必要はない。
限界は超えた。
アルミラのおかげで、吹っ切れもした。
なんの遠慮もなく、本心を出せる。
「非常時に婚約者を盾にして逃げ、あまつさえ大勢の前でおもらしをするような殿方とは、到底一緒にはなれません。私へのモラハラと、手柄の横取りの証拠もすでに学院長に提出済みです。——エルジオ・ブスマンとの婚約は、破棄させていただきます」
「……ふ、ふざけるな! 許さんぞ、お前のような地味な女、俺が捨ててやる——!」
「どうぞお好きに。もしリオスに変な真似をしてみてください。そのときは、あのドラゴンに告げます。彼はあなたのことが酷く嫌いなようですから」
エルジオの顔が青ざめる。
あの場にいて会話を聞いていたので、彼も当然自覚はあるのだろう。
次に、私は両親に向き直る。
「それとお父様、お母様。私は家を出ます。学院も辞めますし、ここにも二度と戻りません。縁も切らせていただきます」
慌てふためく両親の声を背中で聞き流しながら、私は応接室の扉を開けた。
もう一切の未練も、後悔もない。
足取りは羽が生えたように軽かった。
屋敷の外に出ると、眩しい日差しの中、見慣れた優しい顔が私を待っていた。
馬車の手配と旅の荷物を持ったリオスだ。
「待たせてごめんね」
「ううん。迎えに来たよ」
彼もまた学院を辞めた。
私たちは全てを捨ててでも一緒になることに決めたのだ。
晴れて自由の身になった私に、リオスは心底嬉しそうに微笑みかける。
そして、私の腰をグッと引き寄せた。
二人の唇が重なり合う。
私を縛っていた長かった呪縛が、完全に解けていくのを感じた。
「行こう。僕たちの夢を叶えるために」
「ええ、どこまでも一緒に」
夢や人生は、自分でつかみ取る。
そう決めた私たちはしっかりと手を取り合い、憧れの隣国を目指す。
振り返ることは、もうない。
ドラゴンと人間が仲良くなる未来は、アルミラが言うように『有り得ぬ』ことなのかもしれない。
けれど、いつかそんな奇跡が起こる日を私たちは信じる。
「……なにやってるの?」
馬車の中で、ゴソゴソとやっているリオスに尋ねる。
彼はどこか緊張した面持ちで、私の前にひざまづく。
その掌には、素敵な指輪がのせられていた。




