サレ妻、やめます。終わってるのはお前だよ。
「おい、渚。これ、なんだよ。こんなもんしか作れねぇの? お前、終わってんな」
リビングに、底冷えするような不機嫌な声が響いた。
「ご、ごめんなさい……」
言葉は、喉の奥で凍りついた。
夫の視線の先には、ステンレスのゴミ箱があった。
蓋が開けっ放しにされ、私が今朝、早く起きて作ったお弁当が、無惨にも投げ捨てられている。
彩りを考えて詰めた卵焼きも、彼が好きな唐揚げも、生ゴミと一緒くたになっていた。
「え……か、和也? どうして……」
「どうしてもこうしてもねえよ。今日から昼は外で食うことにしたから。クライアントと会食が入るかもしれないしな」
「でも、昨日は『節約のためにお弁当がいい』って言ってたじゃん……!」
「あー、うっせぇな! 気が変わったんだよ。それに、お前の弁当、なんか貧乏くさいんだよな。センスねえ。学生じゃねぇんだからさ、会社で広げるのが恥ずかしいって、そろそろ気づけよ」
彼は、私の夫、平田和也。
結婚当初はこんな人じゃなかった。
何がきっかけで変わったのかは分からない。
けど今は、汚いものを見るような目で私を見下ろしている。
中堅商社の営業エースとして活躍する彼は、身だしなみに人一倍気を使っている。
オーダーメイドのスーツに、高級なネクタイ。
磨き上げられた革靴。
腕にはボーナスで買ったばかりの、100万円はくだらない海外製腕時計が光っている。
そのすべてを整えているのは私なのだけれど、彼にとってそれは「寄生虫が宿主にする当然の奉仕」でしかないらしい。
「それに、なんだその服。また毛玉ついてるぞ? 俺の隣を歩くなら、もう少しまともな格好しろよな。……お前もう、若くねぇんだからさ」
鼻先で笑い、彼はスマホをポケットに突っ込んだ。
ショックで言葉が出ない。
私が美容院に行くのを我慢して、GUの服ですら迷って買っているのは、誰のためだと思ってるの?
将来のために、少しでも貯金をしなきゃって言ったのは、あんたじゃない。
そのために、スーパーの特売を何軒もハシゴして、少しでも節約をしてるのに、自分は身なりと羽振りの良い振り。
「今日は帰り遅くなるから。接待」
「……また? 今週でもう4回目だよ? 体調大丈夫なの?」
「誰のおかげでこのマンションに住めて、飯が食えてると思ってんだよ? 俺が外で頭を下げて契約を取ってきてるからだろ。お前みたいな世間知らずの飯炊き女には分からないだろうが、男には付き合いってのがあんだよ」
言い捨てるなり、彼は私に背を向けた。
バタン! と大きな音を立ててドアが閉まる。
部屋に残されたのは、彼のつけている香水の残り香と、生ゴミにまみれた私の愛情だけだった。
ゴミ箱の中の弁当を見つめる。
涙は出なかった。
ただ、心の中で何かが「プツン」と音を立てて切れたのを感じた。
愛していたはずの夫の顔が、今はただの「他人」よりも遠く、冷たいものに感じられる。
むしろ、敵意すら感じる。
(……もう、疲れた。あいつのお守り)
――その時、テーブルの上でスマホが震えた。
画面には『美久』の名前が表示されている。
大好きな親友からの電話。
普段なら明るい声で出るけれど、今は無理だ。
「……はい」
『渚? 今すぐ出てこれる? ……いや、来て。絶対に来て』
美久の声は、怒りに震えていた。
ただ事じゃないのはすぐに分かった。
『あんたの旦那の正体、突き止めたから』
◇◆◇
指定された駅前の個室ダイニング。
通された部屋に入ると、美久は鬼のような形相で腕を組んで待っていた。
そして、その隣には――切れ長の目と整った鼻筋の男性が座っていた。
かなり大人びたし、学生時代よりもずっと洗練された顔立ちになっているけど、私はこの人を知ってる。
仕立ての良いダークネイビーのスーツを完璧に着こなし、知的な眼鏡の奥から、静かな瞳をこちらに向けている美青年。
「……薫、くん?」
私の口から、懐かしい名前が零れ落ちた。
有馬薫。
中高時代からの幼なじみの同級生であり、私の……初恋の人。
そして、卒業以来一度も会っていなかった、淡い思い出の中の彼。
「久しぶり、渚」
薫くんはスッと立ち上がり、私に椅子を引いてくれた。
その動作は洗練されていて、かつて図書室で並んで勉強していた頃の彼とは、雰囲気がまるで違っていた。
「どうして、薫くんがここに……」
「私が呼んだの」
美久が口を開いた。
「渚が最近、あまりにも辛そうだったから。……同窓会のグループLINEで相談したのよ。そしたら彼、仕事を全部放り投げて飛んできてくれたの」
「仕事を? 大丈夫なの?」
「関係ない。俺にとって、今の最優先事項は君だ」
薫くんが、迷いなく言い切った。
その瞳の熱量に、私は思わずたじろぐ。
「俺は今、弁護士をしている。……美久から話を聞いて、放っておけなかった」
薫くんが、名刺を差し出した。
『冬月法律事務所 パートナー弁護士 有馬薫』。
テレビのニュースでも名前を聞くような、国内最大手の法律事務所だ。
しかもパートナー弁護士なんて、雲の上の存在だ。
今のボロボロの私とは、住む世界が違いすぎる。
「弁護士……すごいね。私なんかとは大違い」
「……君にそう言わせているのは君自身か? それとも、腐った旦那か?」
「え……?」
薫くんは少し怒ったように眉を寄せると、美久に合図を送った。
「渚、これを見て。……覚悟してね」
美久がスマホを私に突き出した。
画面の中で再生されたのは、見慣れたスーツ姿の背中。
場所は繁華街の路地裏。
その隣には、派手なメイクをした、私よりずっと若そうな小柄な女性がへばりついている。
『ねーえ和也さん、奥さんにはなんて言って出てきたのぉ?』
『適当だよ。「接待だ」って言えば、あのバカは疑いもしないし』
『きゃはは! チョロいね〜。ご飯作って洗濯してくれて、その上浮気公認とか、無料の家政婦じゃん』
『全くだ。あいつ、最近老けてきて肌もカサカサだし、抱く気もしねえんだよな。女としての賞味期限切れってやつ?』
動画の中の声は、間違いなく夫のものだった。
賞味期限切れ。
無料の家政婦。
今朝、ゴミ箱に捨てられたお弁当の映像がフラッシュバックする。
ああ、そうか。
あのお弁当は、私そのものだったんだ。
彼にとって私は、古くなったら捨てればいい、使い捨ての道具でしかなかったんだ。
「……これ、先週の水曜日。私はたまたま営業回りしてた時だったんだけどさ、和也じゃん、と思って声をかけようと思ったら、この女がいたからさ。動画撮ったんだ。……このあと二人は高級そうなラブホに入っていった」
美久が悔しそうに唇を噛む。
「ごめん、渚。こんなの見せたくなかったけど……でも、あんたが一生懸命節約してる間に、こいつらはあんたが必死に貯めたお金で不倫して豪遊してたんだよ!」
怒りよりも先に、冷たい感情が体中を駆け巡る。
悲しみ?
絶望?
どれも違う。
これは、どす黒く重たい、純粋な殺意に近い憎悪だ。
「……ありがとう、美久。目が覚めた」
「離婚、するよね?」
「うん。でも、ただ離婚するだけじゃ気が済まない。……私が受けた屈辱の分だけ、……ううん、それ以上に、あいつから全てを奪い取ってやりたい」
でも、どうすればいい?
相手は口の上手い営業マンだ。
この動画だけじゃ、「ただの部下だ」「酔って介抱してた」と言い逃れされるかもしれない。
私が唇を噛んでいると、薫くんの手が、私の震える手の上にそっと重ねられた。
驚くほど温かくて、大きな手。
「――その願い、俺が叶えてやる」
低く、けれど甘く響く声。
「薫くん……? でも、私にはお金も……」
「金なんてどうにでもなる。俺を使え、渚。君を苦しめる全ての元凶を、俺が社会的に抹殺してやる」
薫くんは目を細め、眼鏡の奥で暗い炎を揺らめかせていた。
それは弁護士としての正義感じゃない。
もっと個人的で、執着めいた感情。
「ずっと……君に想いを伝えられなかったことを、俺は後悔してた。……君が和也を選んだ時、幸せになるならと身を引いた。でも、あいつは君を傷つけた。君の価値を理解せず、ゴミのように扱った」
握られた手に力がこもる。
痛いほどだった。
けれど、その痛みが「私はここにいていいんだ」という安心感を与えてくれる。
「もう我慢の限界だ。君が虐げられる理由がどこにある? ……徹底的にやろう。あいつが生きていることを後悔するくらいにな」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも力強く、私の凍りついた心に熱を注ぎ込んだ。
隣では、美久がうんうんと力強く頷いている。
一人じゃない。
私には、最強の味方がいる。
私は涙を拭い、薫くんと美久の手をぎゅっと握った。
「……お願い、薫くん。私に、戦い方を教えて。……あいつに、絶望を味わわせてやりたい」
私の言葉に、薫くんは満足そうに口角を上げた。
「……じゃあ、作戦会議を始めようか。まずは、敵を油断させ、懐事情を丸裸にするところからだ」
◇◆◇
作戦は、私の「演技」から始まった。
薫くんの指示は具体的かつ徹底的だった。
『今まで通りの「都合の良い妻」を演じ続けろ。相手を油断させて、尻尾を掴むんだ』
家に帰った私は、和也の脱ぎ捨てた靴を揃えながら、心の中で冷たく嗤った。
今までなら、ため息をつきながら揃えていただろう。
でも今は違う。
これは「証拠集め」のための潜入捜査だ。
「お帰り、和也。お疲れ様」
「飯、まだできてねぇのかよ? 役立たずだな。何ならできんの?」
帰宅した和也は、私を見るなり舌打ちをした。
その首筋に、うっすらと赤いキスマークがついているのを見逃さない。
以前ならショックで泣いていたかもしれない。
けれど今は、それが貴重な「証拠」にしか見えなかった。
『和也の書斎を探ってくれ。あいつのようなタイプは、自分の支配領域に絶対の自信を持っている。証拠を隠すならそこだ』
深夜、和也がイビキをかいて眠るのを確認し、私は静かにベッドを抜け出した。
廊下の床が軋まないよう、慎重に足を運ぶ。
心臓の音がうるさい。
もし今、和也が起きてきたら?
言い訳はどうする?
恐怖で足がすくみそうになるけれど、薫くんの言葉を思い出す。
『大丈夫だ。君ならできる』
夫の書斎。
普段は「仕事の大事な書類があるから入るな」と言われている聖域。
鍵はかかっていない。
私が逆らうはずがないと、完全に舐めきっている証拠だろう。
デスクの引き出しには鍵がかかっていたが、隠し場所は分かっている。
以前、和也に急な来客が来た際に、書斎の扉を開けて彼を呼んだら、慌ててそこに何かを隠すのを見たから。
その時は見て見ぬふりをしたから、和也は私のことを何も気付かない馬鹿としか思ってないんでしょうね。
本棚の洋書の裏から小さな鍵を取り出し、震える手で引き出しを開けた。
そこには、私の知らない通帳と、数々の領収書が眠っていた。
「……なにこれ」
領収書の宛名は『株式会社平田商事』。
品目は、高級ブランドのバッグやジュエリー。
その中の一枚を見て、私は息を呑んだ。
『プラチナ・ダイヤモンドネックレス 15万円』
それは、私が去年の誕生日に「欲しい」と言って、「高すぎる、家計を考えろ」と却下されたものと同じブランドだった。
私には買わなかったくせに。
私には節約を強要したくせに。
そして、配送先の伝票には『片桐寧々』という名前と住所。
片桐寧々。
恐らく、あの動画の女ね。
「……救いようがないね、本当」
会社の経費で、愛人にプレゼントを貢いでいる。
金額にして総額300万円近く。
これは単なる不倫じゃない。
横領だ。
和也は、私との生活費を切り詰めさせ、自分は会社の金で愛人と甘い夢を見ていたのだ。
吐き気がした。
けれど、それ以上に「これで勝てる」という確信が、震える私を支えていた。
私は全てをスマホで撮影し、証拠データを薫くんに送った。
数秒後、既読がつき、返信が来る。
『完璧だよ。……怖かっただろう? よく頑張ったな』
スマホの画面越しでも伝わる、薫くんの優しさ。
『ありがとう、薫くん。私、負けないから』
『ああ。俺がついてる。世界中が敵に回っても、俺だけは君の味方だ』
文字面からも滲み出るような薫くんの熱に、張り詰めていた糸が緩みそうになる。
『これでチェックメイトだ。Xデーは今週の金曜日。奴が離婚を切り出してくるタイミングに合わせて、俺たちが乗り込む』
金曜日、和也は私に「大事な話があるから家にいろ」と言ってきていた。
その話を聞き、薫くんと美久は、十中八九、離婚話をしてくるだろうと踏んでいた。
(……和也、知らないでしょ? 女ってね、愛が冷めたら、途端に別人になるんだよ)
◇◆◇
そして、決戦の金曜日。
和也は片桐寧々を連れて帰宅した。
自宅に愛人を連れ込むなんて、どこまで常識が欠如しているのだろうか?
「単刀直入に言う。離婚してくれ」
和也はソファに踏ん反り返り、離婚届をテーブルに叩きつけた。
隣に座る寧々は、興味なさそうにスマホをいじりながら髪をいじっている。
「俺はこの寧々と一緒になる。お前みたいな貧乏くさい女とはもう限界なんだよ。毎日毎日、節約だの掃除だの、口うるさいおばさんといても息が詰まる」
「そうですよぉ。和也さんが稼いだお金なのに、奥さんが管理するとか意味わかんないしぃ。あ、このソファ古臭いから、あなたにあげます。中古のおばさんにはお似合いでしょ? 私たちは新しいソファを買ってラブラブするんで♡」
寧々がクッションを爪先で小突く。
新婚当初、素敵なソファだね。と、和也と選んだ。
あの頃は、まだ希望しかなかった。
……まあ、今はもうどうでもいいけど。
和也と寧々は顔を見合わせて、下品に笑っている。
私が泣いて縋るとでも思っているのだろうか。
それとも、怒り狂って叫び出すとでも?
残念ながら、私の心はもう、冷え切ってる。
「……条件は?」
私が静かに尋ねると、和也は鼻で笑った。
「慰謝料はナシだ。今まで養ってやったんだから、文句ねえだろ? 財産分与もナシ。お前は身一つで出て行け。……ああ、情けで引越し代くらいは出してやるよ。5万くらいでいいか?」
あまりにも身勝手な言い分。
でも、ここまでは薫くんの想定通りだ。
私はゆっくりと立ち上がり、彼らを見下ろした。
もう、演技は必要ない。
「……随分と、私を安く見積もってるんだね」
「あ? なんだよ、文句あるのか?」
「文句? ……別に。あんたたちにはもう、未来なんてないし」
「は?」
私がそう言うと同時に、隣の和室の襖が勢いよく開いた。
「――随分と楽しそうな会話をしていますね、平田和也さん」
冷たい声を響かせ、薫くんが姿を現した。
その背後には、動画撮影用のスマホを構えた美久もいる。
「な、なんだお前! 誰だよ!?」
「渚さんの代理人を務めます、弁護士の有馬薫です」
薫くんはテーブルの上に、分厚いファイルを叩きつけた。
バンッ! という乾いた音が室内の空気を震わせる。
「不法侵入だぞ! 警察を呼ぶぞ!」
「どうぞ? ですがその前に、この資料をご覧になった方がいい。……警察のお世話になるのは、間違いなくあなたの方ですから」
薫くんがファイルをめくる。
そこにあったのは、ラブホテルに出入りする二人の写真。
興信所による詳細な行動記録。
そして――私が撮影した、横領の証拠となる領収書と通帳のコピーだった。
「なっ……!?」
和也の顔色が、みるみるうちに蒼白になっていく。
「ふ、不倫の証拠……? い、いや、これはただの……」
「言い逃れは無意味です。全て調査済みだ。……それより問題なのはこちらですね。会社の経費で愛人にブランド品を貢ぐ。……理解してますよね? これは、業務上横領ですが」
「お、横領……!?」
寧々が悲鳴のような声を上げた。
「これ、会社に通報されたらどうなるか分かりますか? 懲戒解雇は確実。退職金も出ない。さらに刑事告訴されれば、10年以下の懲役もあり得る」
薫くんは残酷な笑みを浮かべ、和也を追い詰める。
「すべてを失って、前科持ちになって、それでも愛する寧々さんと一緒に借金を返す人生……。無償の愛……ですか。美しい愛の形ですね? 応援しますよ」
「い、嫌だっ!」
突然、寧々が絶叫し、和也を突き飛ばした。
「無理! 絶対無理! 犯罪者とかありえない!」
「ね、寧々……? 待ってくれ、俺たちは愛し合って……」
「はぁ!? 次期役員候補でお金持ちだって言ったじゃん! ただの犯罪者予備軍じゃない! 横領した金で私にプレゼントしてたとか、キモすぎんだけど! 触んないでよ!」
「なっ……てめえが欲しいってねだったんだろ! あのバッグだって、『これ買ってくれなきゃヤらない』って言ったから……」
「はぁ!? 人のせいにしないでよ! ……もういい、別れる! 私、関係ないもん! 今別れたら関係ないよね!?」
寧々は逃げ出そうとしたが、美久が扉の前で立ちはだかった。
「馬鹿じゃないの? 関係大アリに決まってんじゃん。あなたにも共同不法行為者として、慰謝料300万を請求しますから」
「さ、300万!? 払えるわけないでしょ! 私、バイトだし!」
「ふーん? それっておかしくないですか?」
美久はにっこりと笑い、スマホの画面を突きつけた。
「私、見つけちゃったんですよ〜。寧々さんの裏アカ」
「は……?」
そこには、寧々が高級焼肉やブランド品の写真をアップしているインスタグラムが表示されていた。
『彼ピッピに買ってもらった〜♡ パパ活最高w これ売ったら結構な額になるかな?』
そんなキャプションと共に、和也に買わせたバッグや、他にも複数の男性から貢がれたと思われる貴金属の写真が並んでいる。
「これだけ稼いでるなら、ちゃんと確定申告してますよね? パパ活で得た現金とか、ブランド品を売って得たお金って……『所得』になること知ってます?」
「えっ……?」
「そのお金が年間110万円を超えたら、『贈与税』の対象になるらしいんですよ〜。もし無申告なら、追徴課税が発生したりしちゃって……お金ぜーんぶ吹き飛んじゃいますけど、慰謝料払わないなら、手が滑って通報、しちゃうかも?」
寧々の顔は完全に青ざめ、生気が消えている。
そして畳み掛けるように薫くんが言った。
「――片桐さんに、法律家として少し親切な補足をしましょうか」
「……え?」
「もし税務署が動けば、あなたの資産が差し押さえられるだけでは済みません。金の出所を特定するために『反面調査』が行われます」
薫くんは寧々に残酷な事実を突きつける。
「つまり、あなたのパパ活相手全員や、ご実家、あるいは勤務先にも調査の手が伸びるということです。『この大金はどこから出たのか』とね」
「……っ!?」
「親御さんや職場、あるいは友人に、あなたのその『華やかな稼ぎ方』が全て露見する。……まさに、社会的な死ですね」
薫くんは氷のような微笑みで、首を傾げた。
「300万を払って静かに終わらせるか、すべてを失って社会的に抹殺されるか。……賢明なあなたなら、どちらがお得か分かりますよね?」
「は、払います……! 払いますからぁ……! 通報だけはやめてぇ……!」
寧々はその場に崩れ落ちた。
完全に心が折れている。
「……さて、和也さん」
薫くんが冷徹に告げる。
「あなたも、会社に全てをバラされて破滅するか、我々の提示する条件を飲んで協議離婚するか。……選んでください」
提示された条件は、慰謝料600万(和也が連帯して一括払い)、財産分与としてマンションの譲渡、そして今後一切の接触禁止。
和也にとっては破滅的な条件だ。
でも、会社にバレるよりはマシだというギリギリのライン。
「な、渚……頼む! そんなこと言わずに!」
和也が這いつくばって、私の足元に縋り付いてきた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。
かつてのエリートの面影はどこにもない。
「俺が悪かった! 魔が差したんだ! やっぱり俺にはお前しかいない! やり直そう、な? 靴でも舐めるから! なっ?」
私の足を掴もうとする汚らわしい手を、薫くんが革靴で容赦なく蹴り払った。
「触るな。汚れる」
薫くんの瞳には、底知れぬ殺意が宿っていた。
「……渚さんの優しさに甘えて、散々踏みにじってきた報いでは? 今さら命乞いなんて、虫が良すぎますね」
私は冷ややかな目で見下ろし、淡々と告げた。
「和也、勘違いしないで。私が欲しいのはお金じゃない。……あなたが全てを失って、泥沼でのたうち回る姿が見たかっただけ」
「なっ……」
「サインして。……さもないと、今ここで会社のコンプライアンス室に電話するわよ?」
「くそぉっ!!」
和也は震える手でペンを握った。
「ああ、それと」
「なんだよ! まだなんかあんのか!? これでも物足りねぇってのか!?」
「和也、私に終わってるとか言ったけどさ。……終わってんの、お前だから」
私のゴミを見るような瞳を見て、和也の瞳が激しく震えたのがわかった。
プライドがへし折れた音が聞こえた。
「さあ、和也さん。早く署名を」
「……あぁぁぁっ……!」
財産も、家も、プライドも、全て失う署名。
ペン先が紙に触れる音だけが、静寂なリビングに響いた。
署名が終わると、薫くんは素早く書類を回収し、中身を確認した。
「……結構。これで手続き完了です」
薫くんは私に向かって、小さく頷いた。
終わった。
私の三年間の結婚生活と、苦しみの日々が。
「もちろん、これはあくまで私的な契約書です。……逃げ得は許しませんから、明日の朝一番で公証役場に行って『公正証書』にしますよ。和也さん、身分証を持ってきてくださいね? 来なかったら……分かってますよね?」
薫くんがスマホ(通報用)をチラつかせると、和也は涙目でコクコクと頷いた。
「あ、あの……私は? 和也さんが払うなら、私は払わなくていいってこと……ですか?」
寧々が恐る恐る尋ねてくる。
さっき「払います」と言わされたものの、和也が一括払いする契約になったことで、逃げられると思ったのだろう。
「ああ、勘違いしないでいただきたい」
薫くんは冷徹に告げた。
「和也さんがあなたの分の慰謝料も肩代わりすることになっていますが……あくまで渚さんへの支払いを彼が『立て替えた』だけです」
「え……?」
「つまり、和也さんはあなたに300万円を請求する権利があるということです。……一文無しになった彼が、原因を作ったあなたから回収しないわけ……ないですよね?」
その言葉通り、和也は憎悪に満ちた目で寧々を睨みつけていた。
「てめえ……! てめえのせいで! バッグなんかねだりやがって! その上パパ活なんて……! 舐めやがって!」
「ひっ……!」
「俺の人生返せ! この役立たず! ブランド品全部売って金作れよ! 足りなきゃ体売ってでも払え!」
「い、嫌ぁ……!」
修羅場と化したリビングを背に、私は立ち上がった。
こんな低レベルなショーなんて、もう見る価値もない。
「行きましょう、薫くん、美久」
「ああ」
「だね。なんか私もスッキリ!」
私たちは三人で、私の元・自宅を後にした。
背後からは、まだ馬鹿な男と女が罵り合う声が聞こえていたが、マンションのエントランスを出た瞬間、夜風と共に消え去った。
◇◆◇
一ヶ月後。
私は、都内の夜景が見えるレストランにいた。
「離婚成立、おめでとう」
薫くんがワイングラスを掲げる。
和也はその後、親族に頭を下げて借金をし、慰謝料を支払ったものの、結局社内での噂に耐えきれず自主退職したらしい。
再就職もままならず、今は日雇いの肉体労働で食いつないでいるそうだ。
寧々とも泥沼の裁判沙汰になり、互いに恨み合いながら底辺を這いずっているという。
「ありがとう、薫くん。……全部、薫くんのおかげだよ」
「いいや。渚が強かったからだ」
薫くんは優しく微笑むと、テーブル越しに私の手を包み込んだ。
その温もりに、胸の奥が甘く疼く。
「……渚。ずっと言いたかったことがある」
彼の表情が、弁護士の顔から、一人の男の顔に変わる。
「中学の時から、ずっと好きだった。……15年間、一日たりとも君を忘れたことはない」
「薫くん……私、バツイチだよ」
「知ってる。手続きしたのは俺だしな」
「……それでも、もらってくれるの?」
「君はバツイチだと言うが、それは君の価値を下げることにはならないな。そもそも、そんなことで価値の下がるような女じゃないんだよ、君は」
「薫くん」
「君がバツイチなのは、戦ってきた勲章だ。誇るべきことであって、恥じるべきことじゃない」
彼の手から伝わる熱が、私の心を溶かしていく。
安心する。
「私はさ、手に職もないし、取り柄ないんだよね」
「君は立派だ。美久からも色々聞いてる。毎日早起きしてお弁当を作って、毎日洗濯をして、毎日掃除をして、毎日夕飯を作って……凄いよ」
「え?」
「俺なら、3日で嫌になる。それを何年も続けられるなんて、並大抵のことじゃない。そもそも、主婦は仕事じゃないなんて言う世間がおかしいんだ。主婦は立派な仕事だ」
「そんなこと言われたことなかった」
「言わない奴らは馬鹿なだけだな。言うべきだ。毎日、仕事から帰ってきた夫たちは、奥さんに『今日もお疲れ様』と」
「渚くん……」
「君が、働きに出たいのなら出ればいい。家という職場を守りたいのなら、守ればいい。俺はどちらでも尊重する。でも、俺は毎日言いたいよ。いつもありがとう、お疲れ様って」
「……そっか……いいんだ、このままの私でも」
「渚。俺に、言わせてくれない? お疲れ様って」
「えっ……?」
「そして、俺に言ってほしい。お疲れ様って」
和也との結婚生活で、私は「愛されること」を諦めていた。
主婦の自分には価値がないと、思い込まされていた。
でも、目の前の彼は、私を「価値ある女性」として、何よりも大切に扱ってくれる。
「俺と、結婚を前提にお付き合いしてくれないか」
「…………いいの……?私で」
「君がいい。君が嫌だと言っても、俺は一生君につきまとうつもりだ。15年、想い続けたんだ。……死ぬまで、俺の隣にいてくれないか? 俺を、隣においてくれないか?」
それは、少し狂気を孕んだ、けれど何よりも誠実な愛の告白だった。
重い。
普通の人が聞いたら引くくらい、重い愛。
でも、空っぽになった私の心を満たすには、これくらいの重さが丁度いい。
私は涙を浮かべて、頷いた。
「……うん。絶対に私を、離さないでね」
「ああ。死んでも離さない」
薫くんが席を立ち、私を強く抱きしめる。
その腕の強さに、私は心地よい息苦しさを感じながら、ようやく心からの笑顔を浮かべた。
もう二度と、私は自分を安売りしない。
この重たくて温かい愛に溺れながら、私は私の人生を生きていく。
『お疲れ様』を言い合いながら。




