5話 二章 斥候ライル③
翌日。
洞窟を満たす湿気が、肌にまとわりつくように重かった。
辺境都市 《グルーム》郊外――
岩肌がむき出しになった洞窟型迷宮《アグライアの穴》。
その中層へと続く薄暗い通路を、三つの灯りが進んでいた。
先頭を歩くのは、鼻歌交じりのライル。
その後ろには、緊張に足音を潜める部下が数名。
そして一番後ろを静かに歩くのは――給仕服の女性、ルミナス。
「へっ……なんか思ったより静かだな。罠も魔物も見当たらねぇ」
ライルは壁に反射する光を見ながらケラケラ笑い、肩を揺らした。
「迷宮なんざ、俺の運と実力を前に手も足も出ねえさ!」
金のアクセサリーが揺れ、その宝石が暗闇に怪しくきらめく。
部下が弱々しく言う。
「で、でも隊長……この階層、普段はもっと魔物が……」
「うるせぇな。俺がいるんだ、魔物の方が逃げたんだろ?」
笑って言い放ちながら、ライルはまるで散歩のように洞窟を進んだ。
しかし、部下たちは気づいていた。
――このダンジョンは“静かすぎる”。
粘りつく湿気。
滴り落ちる水音。
自分たちの足音だけが、ひどく大きく響く。
本来なら、どこかから獣の息遣いや羽音が聞こえてくるはずなのに。
ルミナスが静かに歩く。
表情は薄く、呼吸すら揺らがない。
洞窟の温度に左右されない、作り物めいた気配。
だが、その違和感に気づく者は誰もいなかった。
「(はっ……結局よ、俺は選ばれた人間なんだよ……見ろよ、罠も魔物も全部俺を避けてる。
元パーティーの連中もよ、俺を切り捨てたのは大失敗だったな!)」
ライルは心の中で語ると、ふいに、胸の奥がざわついた。
「あ……?」
ライルの足が止まり、眉をひそめた。
(……なんで今、レインの顔なんざ思い出す?)
あの時の光景が、妙に鮮明に浮かんできた。
王国から勅命が来た日、グラン達と話し合って“レインを切り捨てる”と決めたこと。
奈落に突き落とした時、振り返りもせず無視したこと。
罪悪感なんて無い。
後悔も無い。
「(当然だ。あいつは足手まといだった……
ただの追放じゃ都合が悪い。
生かしておけば、俺たちの悪評を吹聴されかねない。
だから“みんなで”殺すことに決めた――ただそれだけの話だ。
なのに……なんで今になって、あんな顔が浮かぶ? 俺は……悪く、ねぇだろ)」
ライルの頭の中で、思考が反芻する。
湿った風が、洞窟の奥からひたりと吹き抜けた。
気温が少し下がったような錯覚に、ライルは首をすくめる。
冷気ではない。もっと不気味な、皮膚の下に入り込むような感触。
部下の一人が、おそるおそる言った。
「た、隊長……?どうかしましたか」
「……いや、なんでもねぇよ」
ライルは乱暴に頭を振り、レインの記憶を追い払うように歩き始めた。
「(そうだ……俺は間違ってねぇ。
遅かれ早かれ、あいつは切り捨てられる側の人間なんだよ……)」
その後ろで、ルミナスが静かに歩みを進める。
どこかで水が落ちる音がした。
洞窟全体が息を潜めたように冷えた。
“中層”はもうすぐだ。
そしてそこは――
この日、ライルにとって“幸運”が終わる場所だった。
洞窟の一本道を抜けた先、ライル達は唐突な広さを持つ空間へ出る。
天井は高く、灯りも無いのに淡く青白い光が壁面から漏れ、まるで、誰かが意図的に整えたような不気味さが漂っている。
「(……何だよここ。ダンジョンの中に、こんな綺麗な空間あったか?)」
ライルに限らず、部下も心の中で思う。
その時、足元でふわりと、白い煙が広がった。
冷たくも暖かくもない――温度を感じさせない煙。
ただ静かに、しかし確実に視界を奪っていく。
「おい……何か来るぞ。武器を構えろ!」
その声が広間に響いた瞬間、それまであったはずの水音すら止んだ。
音が消えた。
洞窟全体が、誰かに喉を掴まれたかのように沈黙する。
ここでようやくライル達は酔いも慢心も抜け、正気を取り戻す。
一定の高さまで煙が満ちた時、
静寂を破る乾いた足音が、煙の向こうでゆっくり近づいてくる。
やがて黒い影が姿をあらわした。
全身を覆う黒子の衣服。
その上から重く垂れた黒ローブ。
顔を覆う黒いベールには、微かに霧のような息が触れ、白い蒸気が漏れ出す。
頭には冠のような金装飾。煌びやかだが、どこか異質で冒涜的。
だが彼が纏うのは、本能的な死の気配だった。
黒衣の男を見つけた瞬間、
ライルの部下の一人が叫んだ。
「ゾンビかリッチかだ! 囲め!!」
怒号と共に数名が飛び掛かった――その刹那。
「……え?」
最初に踏み込んだ部下の胸と腹が、
床下から突き出た鉄槍に貫かれていた。
血の匂いが広間に広がるより早く――
横から無数の矢が飛来し、二人の兵士の首と目を射抜いた。
悲鳴が響く間もなく、
別の一人の足元が ふっ と消え、数メートル下へ吸い込まれる。
「うわああああああッ!!」
底から骨の砕ける音が聞こえた。
ライルは目の前で起きる異常に、
一瞬、思考が止まった。
「……こ、これは……罠……?」
そうだ。
どれだけ酷い迷宮でも、ここまで罠が“連続で”襲ってくることなどありえない。
だが今、まるで広間そのものが生きているかのように、
黒衣の男の前だけで罠が集中して発動している。
黒衣の男自身はただ立っているだけだった。
動かない。
歩かない。
攻撃すらしていない。
ただ、そこに存在しているだけで。
その静寂が何より恐ろしかった。
「た、退避だ!! 逃げろ!!」
生き残った部下の数名が、
我先にと広間の出口へ駆け出した瞬間――
後尾の給仕服の女――ルミナスの両腕が、
音もなく展開した。
手首から肘までを覆う滑らかな装甲が開き、
内部から刃渡りの長い仕込み剣が二本、跳ねるように飛び出した。
その銀光が一閃。
「――あ?」
逃げようとした兵士たちは、
自分の首が落ちたのを理解する暇もなかった。
頭部が床に転がり、体がその場で崩れ落ちる。
ルミナスの表情は変わらず、血飛沫を浴びても瞬きひとつしなかった。
呼吸の乱れすらない。
それはまるで“処理作業”だった。
ライルの背筋に、冷たいものが走る。
(……仕組まれていた。最初から……!)
この広間は偶然ではない。
黒衣の男も、ルミナスも、罠の静寂も、すべてが――
殺すために作られた処刑場だった。
腐っても元・勇者パーティーの斥候。
ライルは、他の部下が次々と罠で死んでいく中、
ギリギリで回避を繰り返し、数度は部下を盾にしながら生き残った。
罠は、動いた瞬間に牙を剥く。
床が沈む。
壁が裂ける。
天井から刃が落ちる。
射出口がどこに隠れているのか、矢が雨のように放たれる。
まるで、ライルが動くことを予知しているかのように。
十数分が経ち、広間は死体と血で満ちていた。
呼吸は荒く、足も震え、ライルは剣を杖代わりにしながら声を荒げる。
「はぁ……はぁっ……ふざけんなよ、クソが……!」
黒衣の男はびくりとも動かない。
ただ、深い闇のような沈黙でライルを見ていた。
ライルは恐怖と混乱に押され、喉を震わせて叫ぶ。
「グランか!? あいつが差し向けたのか!?
それとも、フェニスの野郎か!?
出世する俺が邪魔になったからって、こんな……こんな暗殺者を……!」
黒衣は何も言わない。
ライルの叫びは次第に悲鳴へ変わる。
「答えろよ!! おいッ!!
お前……誰の差金だよ!!」
そう叫んだ瞬間、
黒衣の男の肩が――小さく震えた。
ため息だった。
それは怒りでも失望でもなく、
ただ“呆れ”に近い吐息。
「……誰の差金でもないさ、ライル」
その声に、ライルの背筋が跳ねた。
「……っ!?」
黒衣はゆっくりと、頭に触れた。
冠のような装飾を外し、手に持つ。
次に、顔を覆う黒いベールを、静かにめくる。
闇の布の下から現れたのは――
レインだった。
死んだはずの、あの男。
奈落に落としたはずの“足手まとい”。
しかし顔は以前とは違った。
目は深い闇に染まり、
虹彩には異様な紋様が浮かんでいる。
髪は白が混じり、骨のように冷えた光を帯びていた。
まるで――
奈落そのものが人の形を取ったような姿。
レインは小さく笑った。
「久しぶりだな、ライル。
お前が死んだ仲間のことを……覚えているとはな」
ライルの喉が震え、言葉にならない声が漏れた。
「……な………なんで………」
レインは歩みもせずに、ただライルを見下ろす。
広間の空気が凍りついた。
ライルは、黒衣の男──レインの顔を見た瞬間、わずかに体を震わせた。
しかしすぐに恐怖を噛み殺し、低く搾り出すように問いかける。
「……あの時の復讐かよ、レイン。死んだと思ってたが……こんな形で出てくるとはな」
返事のない沈黙が、逆に圧力となって広間に満ちる。
ライルは焦りを隠すように舌打ちし、隙を見て踏み込んだ。
「黙ってんじゃねえ!!
どんな方法で生き延びたかは知らねえが、また、ぶっ殺してやるっ!!」
自慢の脚力で飛び掛かり、剣を振り下ろした瞬間、ライルの視界が揺れた。
正面からではない。横合いから、何かが閃いた。
「ッ──!」
ルミナスの蹴りと仕込み剣が同時に飛び、ライルの脇腹を浅く裂いた。
壁まで吹き飛ばされ、剣も遠くに叩き落とされながら石床に転がる。
「……ぐっ、はぁ……ッ!」
血を抑えながらも、立ち上がったライルは、本能で察する。
「(勝てない……殺される。)」
ライルはレインに両手を伸ばした。
「ま、待て……! 俺は、本当はお前を殺すのに反対だった……!
あれは……仕方なかったんだ。悪かったよ……なあ……?」
誰が見てもわかる嘘。それでもライルは、へらへらと媚びる笑みを浮かべながら一歩、また一歩とレインへ近づく。
レインは反応せず佇む。
「あの後、俺だって、厄介者扱いされて気持ちがわかったんだ……だから、今なら……」
御託を並べ、ゆっくりと足を運ぶライル。
その距離があと少しになった瞬間——
ライルの目が急速に冷え、獣のように鋭く光った。
「……馬鹿がッ!くたばれっ!!」
腰の後ろに隠していた、銃身を切り詰めた散弾銃を、稲妻の速さで引き抜き、即座に引き金を引いた。
勝利を確信した下卑た笑みが浮かぶ。
しかし——
轟音が迷宮内に響く。
銃は銃口ではなく逆側から破裂した。
炸裂した金属片と火薬がライルの右手を内側から吹き飛ばす。
「ぎっ……ああああああッッ!!!!!」
骨が砕け、肉片が床に散る。
ライルは地面を転げ回り、かつて見せたことのない悲鳴を上げた。
その嗚咽が広間にこだまする中、レインが初めて口を開く。
「……手入れを怠ったな。
昔は、お前が暴発させないよう……直しては注意もしてやっていたのに。」
淡々とした声が、逆に冷たかった。
ライルは涙と汗と血でぐしゃぐしゃになりながら、レインを見上げる。
悪夢を前にしたような顔で震えるしかなかった。
レインはゆっくりと歩み寄り、淡々と告げる。
「勘違いするな……まだ俺は、何もしていない。」
黒いローブの奥で、レインの瞳だけが静かに光った。
「運が尽きたな……ライル。」
その言葉とともに、暗闇が静かに満ちていき、レインの足元から影が波紋のように広がる——




