第9章 奈落の誘い
エリスを倒した夜から数日が経った。
背中の数字は9860。
血の契約を乗り越えた代償として、身体はまだ痛みに軋んでいる。
だが、止まる時間はない。
妹の居場所を突き止める手がかりが、ようやく掴めそうだった。
⸻
数字ギルドの薄暗い一室。
レイスが差し出したのは、折り畳まれた一枚の地図だった。
「カイ、いい知らせだ。お前の妹が売られた先が分かった」
「本当か!?」
俺は思わず身を乗り出す。
心臓が早鐘を打つ。
「落ち着け。場所は《黒の市場》。奴隷や数字を売り買いする、裏社会の最深部だ」
レイスの声は低く、どこか警告するような響きがあった。
「ただし、問題がある。そこを仕切ってるのは《奈落の商人》クロウ。背中の数字は……41だ」
「41……また二桁か」
ロイド、エリスと二桁を倒してきたが、毎回命を削る戦いだ。
それでも、妹がそこにいるなら、行くしかない。
「もう一つ忠告だ、カイ」
レイスが目を細める。
「クロウはただの商人じゃない。奴のスキルは【取引の奈落】。相手の欲望を読み取り、必ず“欲しいもの”で誘う。だが、取引に乗れば最後――数字も命も吸い取られる」
俺は地図を握りしめ、頷いた。
「分かった。クロウを狩る。妹を取り戻すためなら、どんな罠でも潜り抜ける」
レイスは黙って俺を見据え、ただ一言呟いた。
「気をつけろ。お前が壊れる前に、だ」
⸻
《黒の市場》は、街の地下深くに広がる巨大な迷宮だった。
湿った空気と血の匂い、叫び声と金貨の音が混ざり合う。
檻の中に閉じ込められた奴隷たちの目が、俺を無言で追う。
その中心に、クロウはいた。
黒いローブに身を包み、顔の半分を仮面で隠した男。
背中の数字、41が、闇の中で不気味に光る。
「お前が噂の数字狩りか。随分と若いな」
クロウの声は滑らかで、まるで親友に話しかけるようだった。
「欲しいものは分かってる。妹だろ? 412の数字を持つ、愛らしい少女」
俺の心臓が締め付けられる。
クロウの言葉は、まるで俺の心を直接抉るようだ。
「彼女はここにいる。だが、ただで返すわけにはいかない」
クロウが手を広げると、空間が歪み、妹の姿が幻のように浮かんだ。
牢の中で震える彼女の姿。
「カイ兄……!」
その声が、俺の胸を刺す。
「取引しよう、数字狩り」
クロウが仮面の下で笑う。
「【取引の奈落】を発動する。お前の数字と引き換えに、妹を返してやる。簡単な話だ」
⸻
クロウが指を鳴らすと、足元の闇が蠢き、黒い霧が俺を包み込む。
【取引の奈落】――このスキルは、相手の欲望を具現化し、取引という形で縛る。
拒否すれば、妹は永遠に檻の中だ。
「条件はこうだ。お前の数字を500削る。代わりに、妹の居場所を教える。どうだ?」
9860から500。
9360になれば、俺は確実に強くなる。
だが、レイスの警告が脳裏をよぎる。
クロウの取引に乗れば、必ず何か失う。
「どうした? 妹を助けたいんだろ?」
クロウの声が甘く響く。
霧の中で、妹の幻がさらに鮮明になる。
彼女の泣き顔が、俺の決意を揺さぶる。
「……分かった。取引だ」
⸻
瞬間、黒い霧が俺の身体に絡みつき、背中の数字が焼けるように熱を帯びる。
9860 → 9360
身体に力が漲る。
数字が下がったことで、俺の感覚が研ぎ澄まされる。
だが、同時に――何か大切なものが、心の奥から抜け落ちていく感覚があった。
クロウが笑う。
「いい選択だ。妹は市場の最深部、第七の檻にいる。だがな……もう一つ取引をしないか?」
「何?」
「今度は1000だ。お前の数字を1000削れば、妹を“今すぐ”ここに連れてくる」
9360 → 8360。
それは、俺を一気に二桁に近づける。
だが、背中の数字が疼き、警告を発する。
この取引には、もっと深い罠がある。
「断る」
俺は短剣を抜き、クロウを睨みつけた。
「妹は俺の手で助ける。お前の取引はここまでだ」
クロウの仮面の下で、目が細まる。
「フフ……面白いガキだ。なら、力ずくで奪ってみな」
⸻
クロウが手を振ると、黒い霧が実体化し、無数の刃となって襲いかかる。
俺は短剣でそれを弾きながら、【逆計術】の準備を整える。
「一撃で終わらせる……!」
クロウの動きは速いが、エリスの血の触手ほどではない。
俺は霧の隙を突き、クロウの腕を掠める。
「【逆計術】発動!」
契約が成立する。
背中の数字が脈打つ。
9360 → 9330
41 → 71
クロウが呻き、仮面の端から血が滴る。
「くっ……小賢しい……!」
だが、クロウはまだ倒れない。
霧がさらに濃くなり、俺の視界を奪う。
「取引を拒んだ代償だ。奈落に落ちな!」
霧の中から、巨大な黒い手が伸び、俺の身体を締め上げる。
数字が疼き、身体が重くなる。
9330 → 9335
「ぐっ……!」
クロウのスキルは、俺の数字を直接操作している。
このままじゃ、数字が跳ね上がって終わりだ。
⸻
だが、俺はまだ諦めない。
妹の声が、頭の中で響く。
「カイ兄……たすけて……」
俺は最後の力を振り絞り、短剣をクロウの胸に突き立てる。
「【逆計術】!」
9335 → 9300
71 → 106
クロウが膝をつき、黒い霧が消えていく。
「ハハ……まさか、こんなガキに……」
彼の数字が光を失い、身体が崩れ落ちる。
⸻
市場の奥、第七の檻。
俺は血と汗にまみれながら、鉄格子をこじ開ける。
そこには、妹がいた。
やつれてはいるが、確かに生きている。
「カイ兄……!」
彼女が泣きながら俺に抱きつく。
背中の数字、412。
まだ、取り戻せていない。
だが、今、この瞬間だけは――
「もう大丈夫だ。帰ろう」
⸻
市場を出る途中、俺は背中の数字を確かめた。
9300。
クロウを倒し、妹を救った。
だが、心のどこかで、レイスの言葉が響く。
「数字を削るたびに、お前自身が壊れるぞ」
俺は妹の手を握りながら、夜の闇に誓った。
「壊れてもいい。ゼロになるまで、俺は進む」
次の標的は――一桁だ。






