第8章 血の契約
闘技場での《処刑人》ヴァルドの戦いから一夜明けた。
俺の背中の数字は9936。
一桁の視線に触れただけで削られた数字は、俺の身体に重くのしかかっていた。
あの恐怖――あの圧倒的な支配感は、忘れようとしても脳裏に焼き付いている。
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「カイ、次の仕事だ」
レイスが差し出したのは、一枚の古びた羊皮紙。
そこには、裏社会の依頼としては異様な内容が記されていた。
「ターゲットは《血の司祭》エリス。数字は……72」
「また二桁か……」
俺は呻く。ロイドの一件で二桁の恐ろしさは嫌というほど味わった。
だが、レイスの目はいつもより鋭く、どこか冷たかった。
「こいつはただの二桁じゃない。数字を“血”で操るスキル持ちだ。気をつけろ」
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その夜、俺はエリスの居場所を突き止めるため、街の外れにある古い礼拝堂へ向かった。
月光がステンドグラスを貫き、赤と青の光が石畳に映る。
堂の奥、祭壇の前に立つ女――エリス。
背中の数字、72が、仄かに光っていた。
「お前か……数字狩りの新入り」
エリスは振り返り、血のように赤い瞳で俺を捉えた。
その瞬間、身体が凍りつく。
一桁のヴァルドとは違う。
この女の気配は、まるで血そのものが生きているようだった。
「噂は本当だったんだな。ロイドを仕留めたガキがいるって」
彼女は笑いながら、祭壇の上で短剣を弄ぶ。
「だがな、俺の数字を奪うなら、相応の“代償”が必要だ」
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「代償?」
エリスが指を鳴らすと、礼拝堂の床に魔法陣が浮かび上がる。
赤い光が脈打ち、俺の背中の数字が疼いた。
「【血の誓約】――私のスキルだ。お前の血と引き換えに、数字を奪う契約を結べる」
彼女の声は甘く、毒のようだった。
「ただし、失敗すればお前の数字は一気に跳ね上がる。10000を超えて、な」
俺は短剣を握りしめる。
ロイド戦の傷がまだ癒えていない身体が、警告を発していた。
だが、妹を取り戻すためなら、どんな賭けでも受けるしかない。
「その契約、受けてやる」
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エリスが笑い、魔法陣がさらに強く輝く。
「いいだろう。ルールは簡単だ。私の短剣を三度受け止めろ。それだけで、お前の勝ちだ」
彼女が一歩踏み出すと同時に、短剣が空を切り、俺の肩を浅く裂いた。
血が滴り、魔法陣がそれを吸い込む。
9936 → 9940
「っ……!」
わずかに数字が上がっただけで、身体が鉛のように重くなる。
だが、エリスの動きは速い。
二撃目が腹を掠め、再び血が流れ出す。
9940 → 9945
「まだだ……!」
俺は歯を食いしばり、逆計術の準備を整える。
エリスの三撃目が来る瞬間、俺は彼女の短剣を自分の刃で受け止めた。
「【逆計術】発動!」
契約が成立する。
背中の数字が熱を帯び、脈打つ。
9945 → 9900
72 → 117
エリスがよろめき、魔法陣の光が揺らぐ。
「くっ……やるじゃないか、ガキ……!」
だが、彼女の目はまだ死んでいない。
血の匂いが強くなり、礼拝堂全体が赤く染まる。
「まだ終わらないよ。私の血は、そう簡単には枯れない!」
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エリスが両手を広げると、床から血の触手が伸び、俺の足を絡め取る。
「この契約は、私の血が尽きるまで続く! お前が死ぬか、私が死ぬかだ!」
触手が俺の腕を切り裂き、血が床に広がる。
数字が再び疼く。
9900 → 9905
「くそっ……!」
身体が重い。
このままじゃ、数字が跳ね上がって終わりだ。
だが、俺は気づいた。
エリスの血の触手――その動きには一瞬の隙がある。
彼女が次の攻撃を繰り出す瞬間、俺は最後の力を振り絞り、短剣を投げつけた。
刃はエリスの胸を貫き、彼女が膝をつく。
「【逆計術】!」
9905 → 9860
117 → 162
血の魔法陣が砕け散り、エリスが倒れる。
「ハハ……まさか、こんなガキに……」
彼女の声は弱々しく、数字が光を失っていく。
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礼拝堂に静寂が戻る。
俺は血まみれの床に膝をつき、荒い息を吐いた。
「また……勝った……」
だが、勝利の味は苦い。
エリスの言葉が頭に響く。
「代償が必要だ」と。
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帰り道、レイスが俺を待っていた。
「お前、どんどん人間じゃなくなってるな」
彼の声はどこか悲しげだった。
「エリスの血の契約……あれは、数字を削るたびに魂も削るスキルだ。気をつけろ、カイ。妹を助ける前に、お前自身が壊れるぞ」
俺は黙って拳を握る。
壊れる?
そんなの、最初から覚悟の上だ。
「俺はゼロになる。どんな代償を払っても、妹を取り戻す」
レイスはため息をつき、夜の闇に消えた。
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礼拝堂の戦いから、俺の数字は9860。
二桁をまた倒した。
だが、一桁の壁はまだ遠く、俺の心は確実に軋んでいる。
「待ってろよ……もう少しだ」
血と数字に塗れた道を、俺はただひたすらに進む。
次は――誰の数字を狩る?
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