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 善太郎が言っていた産婦人科は、今津の方にあった。今津は西宮北口からまっすぐ下へと突き進んだ場所に位置していて、割と静かな場所である。


 古谷沙織が運転する黄色いアウディが停まった場所には、「花澤産婦人科」という看板が立っていた。――ここが、すべての元凶なのか。


 ***


「あの、警察が当院に何の用でしょうか?」


 受付係の女性の質問に、善太郎が答えていく。


「ここに、ある事件の被疑者が勤務しているとお聞きして僕たちはこの産婦人科にやって来ました」

「事件? 一体、どういうことでしょうか?」

「最近、西宮でこういう事件を聞きませんでしたか? 妊婦が相次いで殺害されて、子宮から胎児が奪われるという事件を」

「はい、確かにそういう事件が相次いでいることはニュースで見ましたが、どうして当院が関係あるんでしょうか?」

「詳しいことは、そこの女性が説明します」


 そう言って、善太郎は会話の優先権を私に譲った。――上手く説明できるのだろうか?


「事件の被害者である一宮和子、桜井祥子、そして、竹本潤。彼女たちはいずれも花澤産婦人科の患者というか、産婦人科ですから……妊婦と新生児でしょうか? とにかく、ここの産婦人科に通っていました。それは、確かですよね?」


 私の話に、受付係が答えていく。


「はい、確かに……一宮和子さんも、桜井祥子さんも、竹本潤さんも当院にカルテが残っています。彼女たちは同時期に当院へ来るようになって、ちょうど妊娠から8ヶ月ぐらいが経ったころに、あのような事件が発生したことになりますね。――でも、犯人はどうしてそのことを知っていたんでしょうか?」

「それは、この事件の犯人はこの産婦人科に勤務しているスタッフだからです。――まずは、院長と話をさせてください」

「分かりました。――少しお待ち下さい」


 受付係は、そう言って院長に連絡を取り付けた。


 それから数分後、院長と連絡が付いたらしい。受付係は話す。


「――とりあえず、診察室まで向かってください。院長はそこで待っていますので」


 そう言われた以上、私たちは診察室の中へと案内されることになった。


 診察室は普通の病院の診察室と対して変わらず、強いて変わったことがあるとすれば――子宮の中を観察するための機械が置いてあることぐらいだろうか。


 院長は話す。


「私がこの産婦人科の院長、花澤俊一(はなざわしゅんいち)です。――今後とも、お見知りおきを」


 花澤俊一と名乗った院長は、想像していたよりも若く、まるで事件とは無関係そうな顔をしていた。


 彼は話す。


「受付係も言っていた通り、確かに一連の事件の被害者はウチの産婦人科で受け持っていた妊婦で、胎児の発育も順調で、とても殺害される風には見えませんでした。私としては、妊婦とその胎児が殺害されて命を落としたことを大変遺憾に思っています」

「そうですよね。――少なくとも、あなたは事件とかかわりがなく、むしろ事件の被害者だと思っていますから」


 私がそう言ったところで、古谷沙織も話に加わる。


「そうね。アンタはこの事件には関係ないどころか、アンタの産婦人科で働いてる看護師のせいで、人生滅茶苦茶にされてるわよ」

「看護師? 確かに、ウチの産婦人科には5人の看護師がいますが……その中に、事件の犯人がいるんでしょうか?」

「いるわよ。――ほら、ヒロロン……じゃなくて、彩香ちゃん、アンタが言いなさいよ」


 こういう時、犯人を言うのは探偵の仕事である。だからこそ、私は犯人の名前を――名指しで言った。


「事件の犯人は、この産婦人科に勤めている看護師――穂積佳奈(ほづみかな)です」


 ***


 花澤産婦人科へと向かう決定打になったのは、古谷沙織が掴んだ証拠だった。レッツノートの画面を私と善太郎に見せながら、彼女は話す。


「当たり前だけど、西宮って産婦人科がいっぱいあるのよね。でも、その中で明らかに怪しいのは今津にある『花澤産婦人科』ってところなのよ。とりあえず、これを見てちょうだい。――アタシ、前に別件でこの産婦人科へと取材したことがあったのよ。ちょっと前にネット上で噂になってた『妊婦から胎児を奪って、闇オークションで売りさばいてる』って話は覚えてるかしら?」

「私、なんとなくそういう噂を聞いたことがある。産婦人科の妊婦から胎児を奪い取って、その胎児を東南アジアの闇オークションで売りさばいているっていう話でしょ?」

「そうそう。――それで、闇オークションの取引先リストに書いてあった産婦人科の中で、兵庫県に所在地がある産婦人科が、西宮の『花澤産婦人科』だったって訳」

「まさか、この産婦人科が事件に絡んでるの?」

「そうよ。――とはいえ、産婦人科の院長はシロなんだけどさ」

「院長がシロなら、疑うべきは看護師の方だよね。――産婦人科のホームページを見る限り、看護師は5人いるみたいだけど……」

「そんなところを見なくても、事件の犯人は明確よ。闇オークションの取引先リストを見なさい」


 私は、古谷沙織に言われて取引先リストにあった「花澤産婦人科」の欄を見ていく。


 そこに表示されていたのは、院長――花澤俊一の名前ではなく、「穂積佳奈」という知らない女性の名前だった。


「穂積佳奈? 彼女が、闇オークションに関与していたの?」

「その通りよ。――闇オークション自体は数ヶ月前に警察に検挙されて壊滅したけど、どうやら彼女は闇オークションに手を染めるうちにタガが外れてしまったみたいね」

「タガが外れたって……まさか……」

「妊婦から奪った胎児を別の子宮に移植して、その中で育てることよ。――まあ、カンガルーみたいなモノかしら? もっとも、穂積佳奈がやりたいことは『デザイナーベイビー』なんだろうけどさ」


 デザイナーベイビー。作られた赤ちゃん。ホムンクルスとはまた違うけど、優れた精子と優れた卵子で赤ちゃんを育てていくというモノである。――そんなこと、倫理的に許されるはずがない。とはいえ、子宮の中でずっと赤ちゃんを育てていると、その重さに耐えきれなくなるのではないか。私はそう思った。


「いくら子宮が伸縮性に優れているからって言っても、限度はあるよね? その妊婦、子宮がはち切れて死んでしまわないの?」


 そういう私の疑問に答えてくれたのは、善太郎だった。


「ああ、子宮が破裂すると妊婦は大量出血でショック死するし、胎児の命も危ない。たまに『妊婦が交通事故に遭ってお腹の中の赤ちゃんだけが助かった』という事例を聞くけど、それは妊婦がその命を引き換えに赤ちゃんを守った証でもあるんだ。――そんなこと、あってはならないんだけど」

「そうだよね。――まさかとは思うけど、花澤産婦人科にそういう妊婦がいたりするの?」


 どうやら、古谷沙織の話によると――そういう妊婦がいるらしい。


「それが、いるのよ。名前は『大野チヒロ』という女性で、彼女は妊娠10ヶ月でも出産する気配がないのよ」

「ちょっと待って、『チヒロ』って――どういう字を書くの?」


 私がそう言うと、彼女はとっさにそこにあった紙とボールペンで文字を書き出した。


「知るに日で露出の露。つまり――知日露よ」

「それ、もしかして……大野智ってこと?」

「大野智? ああ、嵐の元リーダーね。――ってことは、穂積佳奈はそういう狙いがあって大野知日露の子宮に胎児を移植してんの? それ、ヤバくない?」

「沙織ちゃんの言葉を借りるなら、『ヤバい』と思う。――穂積佳奈の凶行を、止めないと」


 私と古谷沙織が覚悟を決めたところで、善太郎は話す。


「じゃあ、行こうか。――花澤産婦人科に」


 ***


「ウチの看護師が胎児を売りさばく闇オークションに関与していた? そんなふざけたことを言わないでください! 当院はクリーンな産婦人科ですよ!」


 経緯を説明したところで、花澤俊一は激昂している。当然だろうか。


 彼をなだめるために、私は話す。


「もちろん、あなたは闇オークションに関与していないですし、むしろ健全な方だと思っています。でも、勤務している看護師が健全じゃなければ、健全である意味はないですよね?」

「それはそうだが……」


 話が膠着(こうちゃく)状態になろうとしていた時だった。――コツコツという足音が聴こえた。足音は段々と大きくなって、引き戸の前で止まった。そして、引き戸のガラガラという音がした。


「――失礼します。なんだか、呼ばれたような気がしましたので」

「あ、アンタは……穂積佳奈!」


 そう言って、古谷沙織は叫んだ。


「あら、あなたは悪徳記者の古谷沙織さんじゃないですか? 性懲(しょうこ)りもなくまた取材ですか? あの闇オークションは摘発されましたし、もう用事はないじゃないですか」

「いや、まだ用事はあるわ。――アンタが妊婦とその中に宿っていた小さな生命を殺害したことを白状しない限り、性懲りもなく取材させてもらうわよ!」

「そうですか。――勝手にしてください」


 女性同士の言い争いに、花澤俊一は困惑している。


「こ、これは一体……」


 困惑する彼に対して、私は話す。


「花澤さんが知らなくても当然だと思います。だって、《《穂積佳奈はあなたの知らないところで胎児を摘出して、それを闇オークションで売りさばいていました》》から。――あなた、最近クレームを聞きませんでしたか?」

「ああ、確かに『ウチの産婦人科で診てもらったら、知らないうちに流産していた』という問い合わせをいくつか聞いていました。私はそれを『妊婦の自己責任』だと思っていましたが、まさかこんなことになっているとは……」

「最近は医療技術の発達に伴って、妊婦の子宮と同じ環境を保てる『子宮バッグ』というモノも開発されています。とはいえ、まだまだ開発途上の段階なので、そこで胎児が命を保てる期間は約1週間と限られています。多分、最終的には妊婦の出産期間である10ヶ月まで生きられるようになると思いますが。だからこそ、穂積佳奈はそこに目をつけたんじゃないんでしょうか?」

「なるほど。――しかし、彼女はどうしてそんなモノに手を染めていたんだ?」

「とりあえず、この投稿を見てください」


 そう言って、私は花澤俊一にスマホを手渡して、SNS上のある投稿を見せた。


「こ、これは……」


 私が彼に見せた投稿。それは「なにわのクラリス」がタイで観光している画像だった。――穂積佳奈こそ、私が追っていた「なにわのクラリス」の正体だったのだ。


 私は話す。


「穂積佳奈は、『なにわのクラリス』という名前でSNSをやっていたみたいです。名前の由来は大泥棒が心を奪い取ったお姫様ではなく、人食い精神科医の恋人の方だと思います」

「人食い精神科医の恋人――ああ、クラリス・スタ―リングですか。私もその映画は見たことがありますけど、まさかそこから『クラリス』と名付けてSNSをやっているとは……」

「まあ、『なにわ』って付いている割に、所在地は西宮なんですけどね。タイガースが西宮の球団でありながら大阪の球団と勘違いされているようなモノだと思います」

「――コホン。とにかく、私を警察に突き出すつもりですか。どうぞ勝手にしてください」


 そう話す穂積佳奈に対して、私はある要求を突き付けた。


「穂積さん、その前に――大野知日露さんに会わせてもらえないでしょうか? どうしても彼女の容態が気になるんです」


 彼女は、その要求を――のんだ。


「そうですか。――良いでしょう。彼女は病室に入院していますから、今から案内します」


 彼女がそう言った瞬間、私は胸の高鳴りを覚えた。――なんというか、嫌な予感がする。


 ***


「彼女が、大野知日露です。――今は安静な状態ですが、いつ容態が急変するか分かりません」


 穂積佳奈が言う通り、確かに病室のベッドには大きなお腹の妊婦が入院していた。――この女性が、大野知日露だろうか。彼女は眠っていて、心電図を見る限り容態は安定しているらしい。そして、彼女を背にしながら――私はそこにいるみんなに対して話を始めた。


「さて、ここでようやく事件の本題に入りましょう。穂積佳奈さん、あなたは――一宮和子と桜井祥子、そして竹本潤という3人の妊婦とその中に宿っていた小さな生命を殺害しました。それは紛れもない事実ですね?」

「はい、確かに私は彼女たちを殺害しましたけど、そのことに理由なんていらないじゃないですか」

「なぜあなたは3人の妊婦に対して危害を加えたのか? その答えは単純なモノです」

「単純なモノ? もったいぶらずに教えなさいよ?」

「そこまで言うなら、私はもったいぶらずに真相を説明しようと思います。――被害者の名前はかつて活動していた国民的アイドルグループである『嵐』のメンバーに似ていますよね? でも、これは殺人の動機にはなりません」


 私がそう話したところで、古谷沙織は疑問を呈した。


「嵐のメンバーが殺人の動機にはなっていない? どういうことなのよ。どう考えても、被害者は嵐のメンバーじゃないの」

「沙織ちゃん、もうちょっと人の話を聞きなさいよ」

「はーい……」

「――コホン。とにかく、被害者が『嵐のメンバーと名前が似ている』ということでそこに注目が行きがちですけど、本来見るべき場所は、あなたが遺体の横に置いたモノです」

「遺体の横に置いたモノ? 確かに、私は妊婦を殺害した後に、一宮和子さんには笹を、桜井祥子さんにはアコースティックギターを、そして竹本潤さんにはおもちゃのピコピコハンマーをお供えしました。それがどうしたんでしょうか?」


 私は、そこでようやく「事件の答え」を穂積佳奈に話した。


「――あなた、桐崎譲治さんがやっていたことの続きをやろうとしていましたよね?」


 私の「答え」に反応したのは、どういう訳か古谷沙織だった。


「ちょっ、桐崎譲治さんがやっていたことの続きって、どういうことなのよ?」


 仕方がないので、私は彼女に説明した後に――事件の「答え」を説明した。


「沙織ちゃんに分かりやすく説明するなら、『七福神』の見立てかしら? ――とにかく、桐崎譲治は三宮婦女殺人事件で殺害した女性の服に、血文字を書いていたんです。1人目の被害者である坂下真希さんの遺体の服には血文字で『毘』と書き、2人目の被害者である常田茜さんの服には血文字で『福』と書いた。そして、3人目の被害者である井口美緒さんの服には血文字で『布』と書き、ついでにコンビニ袋も添えた。この時点で遺体はそれぞれ毘沙門天と福禄寿、そして布袋尊の見立てだと分かる」

「確かに、遺体の横にコンビニ袋を添えていたら、それだけで布袋尊の見立てにはなるよね。でも、残りの4人は……?」

「もちろん、桐崎譲治は4人目以降の殺害も計画していたんでしょうけど、それを――私の姉が止めてしまったんです」

「『私の姉が止めた』って、もしかして……アンタのお姉ちゃんが殺された事件のことなの?」


 古谷沙織が言いたいことは、分かっている。私は、真面目な口調で話した。


「そうです。あの時、パイ山で4人目の獲物を捕獲した桐崎譲治は、獲物――女性に逃げられた。逃げた先は阪急三宮駅西口で、私の姉は桐崎譲治に襲われて、命を落としてしまったんです。結果的に、姉を犠牲として桐崎譲治は現行犯逮捕。私は彼が逮捕された場所に居合わせていなかったんですけど、どうやら姉が警察を呼んだことは無駄じゃなかったみたいです」

「そうだったのね。――ヒロロン、辛かったでしょ」

「もちろん、辛かったわ。だからこそ、私はその忌々しい記憶を封印していて、ベランダから飛び降りた時に頭を打ち付けて記憶を失ったの。もっとも、私の心の中で目覚めた「もう一人の自分」のせいで、その記憶がフラッシュバックしちゃったんだけど。――コホン。そして、たまたま私の姉が巻き込まれた事件の現場に居合わせていた穂積佳奈さんは、SNSで『なにわのクラリス』と名乗って桐崎譲治による犯行を調べ上げて、それが『七福神の見立て』だと気付いた。でも、当時のあなたは看護師とは別の『裏の顔』を持っていたから、桐崎譲治の事件を引き継げなかったんです」

「もう一つの顔……胎児バイヤーね」

「沙織ちゃん、その通り。彼女は自分が産婦人科の看護師であることを良いことに、妊婦から胎児を奪って、それを闇オークションで売りさばいていた」


 私が話すうちに、古谷沙織はあることに気付いた。


「――もしかして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って訳!? そんなこと、許されないわよ!」

「その通り。闇オークションが摘発されたことによってやることがなくなってしまったあなたは、腹いせに妊婦を殺害して、下腹部から胎児を奪い取り、そして――七福神に関するアイテムを遺体の横に添えたんです。笹は恵比寿天、アコースティックギターは弁財天、そして、ピコピコハンマーは大黒天の見立てで、別件で殺害された相馬雅美の遺体の横に添えられていた寿老人の桃を合わせると、ちょうど7人殺害されたことになります」

「えっ? じゃあ、相馬雅美を殺害したのは穂積佳奈じゃないの?」


 古谷沙織がそう言ったところで、善太郎があることを彼女に伝えた。


「その件だが、先ほど――容疑者が逮捕された」

「マジで?」

「沙織ちゃんの言葉を借りるなら、マジだ。――容疑者は『須田真理子(すだまりこ)』という名前で、相馬雅美のマネージャーだった。どうやら、須田真理子も『#桐崎譲治の死刑執行に反対します』というハッシュタグを利用していたらしい」

「じゃあ、『なにわのクラリス』が投稿していたマツシマスタジアム吹田の写真は、須田真理子から送られたモノだったのね」

「その通りだ。大阪府警の話によると、彼女は殺害に関して容疑を認めていて、これから留置所に送られるとのことだ」


 まあ、私は相馬雅美を殺害した犯人は最初から穂積佳奈だと思っていなかったのだけれど。いくら何でも、西宮から吹田に移動して殺人を犯すなんて無理があるし、そもそも相馬雅美は妊娠していない。その時点で、相馬雅美の殺害はフェイクだと分かる。ということは――。


「あなたの推理、よく出来たホラ話じゃないですか」


 穂積佳奈は、私を挑発するようにそう言った。


「ああ、我ながらよく出来たホラ話だと思いますよ。――探偵は、ホラ話を言うのが仕事ですから」

「それで、あなたのホラ話はもうおしまいなんでしょうか? もう少し聞きたかったんですけど」

 私は、彼女に対して残念そうに話した。


「残念だけど、あなたが言う通り――ホラ話はもうおしまいです。でも、一つだけ質問をしてもよろしいでしょうか?」

「一体、何でしょうか?」

「あなたの後ろにいる患者――いや、妊婦の大野知日露さんに関する質問です。彼女は一応『妊娠10ヶ月』ということになっていますが、それにしてはお腹が大きすぎる。一体、どういうことなんでしょうか?」

「そ、それは……今にも赤ちゃんが産まれそうだからとしか言いようがないですけど、あなた、まだ私を疑っているんですか?」


 ――頭が、痛い。


 私は、痛む頭を押さえながら、ふらついた。


 私の滑稽な姿を見て、穂積佳奈は悪魔のように笑った。


「アハハハハ! 急に頭を押さえるなんて、仮病も甚だしいわね! 一体、どういうつもりなのかしら!」


 ――どくん。どくん。心臓が、高鳴っている。


 鼓動と同調するように、ズキズキと頭が痛む。


「――人の命を簡単に奪うなんて、許さない」


 朦朧とする意識の中で、私は穂積佳奈にそうやって叫んだ。


「それが、あなたの最後の悪あがきかしら? 脳腫瘍なら、大人しくそのまま死ねばいいのに」


 これは、脳腫瘍なんかじゃない。――その証拠に、私は飛び降りて頭を地面に打ち付けた時に、記憶の一部を失った。


 記憶の一部を失うということは、空いた部分に「私じゃない誰かの人格」が生み出されることになる。


 あの時見た幻覚。あの時聴こえた幻聴。それは、私の心の中に眠っている――。


 ***


「――あなた、随分と人を殺してきたじゃないの。しかも、妊婦ばかりを狙って、おまけに胎児の命まで奪っている。そして、妊婦から奪った胎児は、そこの妊婦のお腹の中に入っている。しかし、あなたは計算違いをしていた。妊婦から無理やり胎児を奪ったってことは、普通なら『へその緒』という生命装置を失うことにもなって、胎児は命を落とす。ところが、1人だけ『へその緒』がなくなっても命を落とさなかった胎児がいた」

「命を落とさなかった胎児? 一体、どういうことなのよ?」

「多分、その胎児は運良く胎盤と適合して、知日露さんの『へその緒』と結びついたんでしょうね」


 私の中に眠っていた「誰かの人格」がそう言った瞬間、大野知日露は――悲痛な叫び声を上げながら暴れ出した。


「いやあああああああああああああああっ! 痛い! 痛い! お腹が! 痛い! 助けて!」

「お、大野さん! 今、鎮痛剤を打ちますからね! 待っていてください!」

「いや、鎮痛剤は打たない方がいい。鎮痛剤を打つと、お腹の中の赤ちゃんまで亡くなってしまう。仮に亡くならなかったとしても、赤ちゃんに対して後遺症が残ってしまう可能性も考えられる。――穂積佳奈さん、残念だけど知日露さんの命は諦めた方が良い」

「そ、そんなことを言われても……」


 その時だった。


「――オギャー、オギャー」

「う、産声? ま、まさか……」


 赤ちゃんの産声が聞こえると同時に、大野知日露はこの世のモノとは思えない叫び声を上げて、そのまま絶命した。――シーツが、赤黒く染まっている。多分、彼女の子宮が破裂したのだろう。


「ヒロロン、知日露さんを見殺しにして良かったの?」


 しかし、「誰かの人格」は、私の友人に対してあるまじき言葉を発してしまった。


「――あなた、誰?」

「えっ? わ、私は古谷沙織よ? ヒロロンの友人で、フリーライターをやっているんだけど……」

「ヒロロン……彩香ちゃん、そうやって呼ばれてたのね。私は、廣野彩香の姉――廣野麻衣よ」

「アレ? 確か、麻衣さんって、桐崎譲治に刺されて死んだはずじゃ……」

「桐崎譲治? ああ、私の心臓を刺した変態野郎ね。それで、私は死んでしまったのね」

「ま、まさか……」


 どうやら、私は記憶を失った代わりに、「廣野麻衣の人格」をその頭に生み出してしまったようだ。理由は分からないけど、私は無意識のうちに「生きている廣野麻衣」と心を共有していたことになる。


 だから、今の私は「廣野彩香の肉体を介して廣野麻衣の人格が発露している状態」なのか。――なんだか、面白いな。そんなことを考えている時だった。古谷沙織が、叫んだ。


「ヒロロ……じゃなかった、麻衣さん、危ないっ!」


 後ろを振り返ると、私の目の前にメスを持った穂積佳奈がいた。


「許さない……みんな、死んでしまえ!」


 ――ああ、「廣野麻衣」は今度こそ死ぬのだろうか。どうせ他人の肉体を介して人格が発露しても、死んでしまえば同じだ。


 私は、「一度死んだ当事者」の人格を利用して、穂積佳奈を説得した。


「人は簡単に『死ね』とか『死んでしまえ』とか言うけど、一度死んだ人間は生き返らない。これがゲームやアニメなら簡単に生き返るけど、所詮ゲームやアニメは仮想世界だから、現実世界でそういうモノを望む方が間違ってるわ」


 私の説得に屈したのか、穂積佳奈は言葉を無くしている。そして、膝から崩れ落ちた。


「くっ……」


 膝から崩れ落ちた彼女を見たのか、善太郎は彼女の腕に手錠をかける。


「穂積佳奈、あなたを殺人の容疑で逮捕します」

「刑事さん、ごめんなさい……」


 私は連行される穂積佳奈を見つつ――その場に倒れた。


 ***


「――ン?」

「――ロン?」

「――ロロン?」

「――ヒロロン?」


 私、何してたんだろう? 確か、大野知日露が入院している病室に向かって、突然頭が痛みだして、そして、倒れた。その後のことなんて覚えてないし、私が何をしたかも分からない。


 そんな中で、古谷沙織は話す。


「ヒロロン、突然頭を押さえて倒れたかと思ったら、起き上がった時には大人っぽくなってたわ。なんていうか、ヒロロンの姉っぽかった」

「私の――姉?」


 ああ、そうか。事件を解決に導いたのは、私なんかじゃなくて、お姉ちゃんだったのか。――そういえば、私は無意識のうちに大野知日露に対して「一度死んだ人間は生き返らない」なんてクサいセリフを吐いていたんだっけ。


 古谷沙織は話す。


「まあ、とにかくヒロロンが戻ってきて良かったわ。――アレはアレでかっこよかったけどさ」

「私のどこがかっこいいのよ?」

「ウフフ、なんでもないわ」


 そういえば、善太郎はどこに行ったんだ? 私は、古谷沙織にそのことを聞いた。


「ところで、善太郎さんはどこに?」

「善くんなら、とっくの昔に署に向かったわよ?」

「ということは、穂積佳奈は連行されたのね」

「そうよ。一応、彼女の罪状は殺人罪だけど、闇オークション関連で捜査四課の方でも調べていくって方針よ?」

「まあ、殺人罪よりも、産まれてくるべき命をお金で売り飛ばした方が重罪だと思うけど」

「そうよね。売春よりもひどいわ」


 そんな話をしながら、私は花澤産婦人科の入口まで戻ってきた。――オレンジ色の夕日が、空一面に広がっている。


「それで、沙織ちゃんはどうするのよ?」

「アタシ? アタシは大阪に帰るわよ。――なんだか、疲れたし」

「そっか。じゃあ、私も芦屋に帰ろうかな」

「そうね。また、何か面白い事件があったら、ヒロロンに解決を依頼するかもしれないから」

「とはいうけど、もう探偵ごっこは懲り懲りかな。しばらくは、小説業に専念させてもらうわ」

「そっか。――新作、楽しみにしてるから」

「分かった。じゃあね」


 そう言って、私はカワサキグリーンのバイクにまたがり、ギアを入れた。


 この時間の国道2号線は死ぬほど混んでいるけど、きれいな夕日を見ながら帰られるなら、悪くはない。そう思いながら、私は信号待ちをしていた。


 ***


 ――その日の夜。私は夢を見た。


 目の前にいるのは、私に似たドッペルゲンガーではなく、明らかに廣野麻衣だった。


 彼女は話す。


「彩香ちゃん、私の人格を目覚めさせてくれてありがとう。お陰で久々に『生きている感覚』をこの肌で感じ取ったわ」

「そうは言うけど、お姉ちゃんはすでにこの世にいない存在であることに変わりはないわ。だから、私は『偽りの廣野麻衣』を演じてるに過ぎないの」

「偽りの私……か。まあ、そういうモノも悪くないとは思うけど。――それにしても、彩香ちゃん、他人に対して心を開くようになったわね」

「そうかなぁ……」


 確かに、私は心の奥底に眠っていた「廣野麻衣の人格」を目覚めさせたことよって、自分のあるべき姿というモノが見えてきたかもしれない。


 でも、私はまだ心のどこかで「怯え」を持っているかもしれない。その「怯え」は、私の心を蝕み、自傷行為や希死念慮に繋がっているのだろう。そして、完全に心の中の「怯え」を取り払った時、私はそこでようやく「自分らしさ」を見つけ出すはずだ。


 麻衣は、背中から私を抱きしめながら話す。


「まあ、私はいつでも彩香ちゃんを守ってるから、それだけは信じてほしいな」


 ――お姉ちゃんがそう言うなら、私は……もう少しだけ、生きてみようと思う。

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