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 私から見た京極仁美の印象は――切り揃えられたショートボブの短い髪で、スーツ姿がよく似合っていた。


 彼女は話す。


「とにかく、あなたは訳ありでこの事件を追っていて、それで――事件現場にノコノコと入ってきたと。まあ、そこにいる記者の入れ知恵なんでしょうけど」


 そこにいる記者――古谷沙織のことなのか。


「えっ? アタシ? 確かに、アタシは善くん……いや、田辺刑事と知り合いだったというのもあって、彼から事件のことは聞いてたのよ。それで、アタシの友人で、推理小説家でもある廣野さんを探偵役に仕立て上げただけのことよ」

「そうだったのね。――廣野さん、先ほどは無礼を言って申し訳ありませんでした」


 古谷沙織が事情を説明したところで、京極仁美は思いっきり謝っていた。


 私は、京極仁美に対して謙虚に話す。


「いえ、良いんですよ。この事件、私のような一般人がかかわるものじゃないって思っていましたし。でも、友人である沙織さんの依頼となれば、期待に応えてあげたいのは確かですからね」

「なるほど。――とはいえ、この事件は言うまでもなく先に発生した2件の事件と手口が同じで、なおかつ被害者である竹本潤さんは妊婦だった。つまり、私が何を言いたいか分かりますよね?」


 京極仁美が言いたいことなんて、分かっている。


「彼女の下腹部を切り裂いて、子宮の中に宿っていた胎児を奪った……」

「その通りです。彼女、妊娠8ヶ月だったから、胎児としてはかなり育っていたんですよ。当然だけど、彼女の子宮から奪われた胎児は、すでにこの世にいない状態です」


 ――ちょっと待った。今までの事件における胎児の発育状況って、どんな感じだったんだ?

 私は、刑事さんたちにそのことを聞いた。


「そういえば、今まで発生した同様の手口による事件で奪われた胎児って、妊娠何ヶ月だったんでしょうか?」


 私の質問に答えてくれたのは、善太郎の方だった。


「一宮和子も桜井祥子も妊娠8ヶ月だったよ。胎児はすでに人間のカタチをしていて、産まれるまであと2ヶ月といった感じだった」

「まあ、『十月十日(とつきとおか)』なんて言葉があるぐらいですからね……。赤ちゃんっていうのは、子宮にその生命を宿してから大体10ヶ月と10日で産まれると言われていますし」


 そうなると、この事件の犯人は――そういうモノに対して精通している人物なのか。私は真っ先に京極夏彦の『姑獲鳥の夏』を思い出したが、この理論に当てはめると、容疑者は医療従事者となる。


 そして、事件は西宮市内で発生していることも気になる。一宮和子は西宮北口の商店街で殺害されて、桜井祥子は夙川の河口付近で殺害されて、竹本潤はさくら夙川駅付近で殺害された。事件現場に法則性こそないけど、いずれも西宮市内であることに変わりはない。一体、どういう目的があるんだ?


 頭を抱える私に対して、京極仁美が話しかける。


「廣野さんは、この事件をどう思っているんでしょうか?」

「『どう思う?』って言われても、残忍な犯行であるとしか言いようがないですけど……」

「そうですよね。――話は変わるんですけど、私、こう見えて友人を殺人事件で喪っているんです」

「殺人事件? 一体、どういう事件だったんでしょうか?」

「数年前に、三宮の『パイ山』と呼ばれる場所で身寄りのない女性が相次いで殺害された事件があったのは覚えていますよね?」

「覚えていますけど……もしかして、仁美さんの友人もその事件に巻き込まれたんでしょうか?」

「そうです。友人の名前は『坂下真希(さかしたまき)』って言うんですけど、彼女は大学卒業後に奨学金が返済できずに預金がショートして、パイ山でいわゆる『立ちんぼ』と呼ばれる女性になっていたんです。私は『立ちんぼ』になっていた彼女がショックで仕方なくて、なんとかして救ってあげたかった。それなのに……」

「肝臓を奪われて、彼女は死んでいたと」

「その通りです。その後、同様の手口による事件は4件続きました。その中でも、1人だけ肝臓を奪われなかった代わりに、その命を失ってしまった女性がいたんです。彼女の名前は――廣野麻衣(ひろのまい)です」

 私は、その名前を聞いて心臓の鼓動が高鳴った。なぜなら、廣野麻衣は私の姉の名前だからである。


 ***


 私は、孤独だった。学校では常にいじめられていて、居場所が家にしかなかった。


 私の家庭環境は複雑であり、私が幼い頃に父親と母親が離婚。私と麻衣は母親方に引き取られた。結婚していた頃は千葉県の市川市に住んでいたらしいけど、その頃の記憶はウィル・スミス演じるメン・イン・ブラックからニューラライザーを当てられたように抜け落ちている。幼すぎたから当然だろうか。


 父親がいないということは、学校では当然のようにいじめのターゲットにされる。保育園の頃はそんなことなんてなかったのに、小学校に入学した途端にいじめられるようになったのだ。いじめは学年が上がるごとにエスカレートしていき、小学3年生の頃になると不登校の時期が増えるようになってしまった。


 そういう私の心の拠り所は麻衣だけであり、私は当時中学生だった彼女から勉強を教えてもらっていた。そして、時折私に勉強の息抜きとしてMDプレーヤーを手渡すこともあった。――そのディスクの中に入っていた曲が、hitomiだったのだ。


 ディスクは「彼女がセレクトしたお気に入りの曲」で構成されていて、特に私が気に入って聴いていたのは『SAMURAI DRIVE』という曲だった。曲名の通りなのか(?)、彼女はミュージックビデオの中で侍をモチーフとした衣装を着ていて、音楽番組でもその衣装で登場することが多かった。


 そして、「hitomiみたいな強い女性になれば良い」と勘違いした私は、そのメンタルを解き放って不登校から抜け出したが、結局のところ学校での居場所がないことに変わりはなかった。――周りの女の子は男性アイドルに夢中で、hitomiに興味を持つ女の子なんて皆無だったのだ。


 それから、私は中学校に進学したフェーズで私と同じhitomiファンの同級生である古谷沙織と出会ったのだが、そこから先の話は割愛させてもらう。散々書いてきたし。


 一方、私が中学校に進学した頃の麻衣は、名古屋の国立大学に進学していた。


 中学生になってガラケーを買ってもらったことを良いことに、私は遠く離れた麻衣とメールのやり取りをすることが多かった。曰く「大学生活は大変だけどやりがいは感じるし、毎日が発見の連続」とのことだった。ついでに「名古屋グランバルの選手はイケメンぞろいで星野仙一がいなくなってもドラゴンズは強すぎる」と言っていた。


 その後、麻衣は4年間に渡る名古屋での大学生活を経て神戸でも屈指の大企業である河崎重工に就職。本人は「地元に戻る気はない」と言っていたが、最初から同じ兵庫県の神戸で妥協するつもりだったのだろう。――多分、リーマンショック直前に就活を行っていた麻衣の世代が「就活で苦労しない最後の世代」だったと思う。その証拠に、麻衣の就活から5年後に就活を行っていた私は散々苦労していたし、メンタルも壊している。


 当然だけど、麻衣が社会人になってからは彼女と連絡を取ることもなくなってしまった。


 とはいえ、どうして麻衣はパイ山の連続猟奇殺人事件で殺人鬼から殺される必要があったんだ? そもそも、私は母親から「麻衣ちゃんが亡くなった」という訃報を聞いたことがない。――母親は、私に対して何か隠し事をしているのか?


 ***


「――彩香さん?」


 京極仁美に声をかけられて、私は自分の意識が(うわ)の空に行っていたことに気付いた。よほど、自分の姉が何者かに殺害されたことがショックだったのか。


 それでも、私は何事もなかったかのように京極仁美に対して振る舞っていく。


「いえ、何でもありません。確かに、『廣野麻衣』は私の姉の名前と同じですが、ありふれた名前ですし、どうせ人違いですよね……」

「だったら良いんですけど。――とはいえ、あの事件では真希さんと麻衣さんを含めて、4人の女性の命が奪われています」

「あとの2人は?」

「それぞれ『常田茜(つねたあかね)』と『井口美緒(いぐちみお)』という女性です。彼女たちは、坂下さんと同様にパイ山で『立ちんぼ』という女性でした」


 そもそも、「立ちんぼ」というのは「繁華街の周辺で立ちながら男性を待ち、出会った男性に対して性的行為を行い、報酬として現金をもらう女性」のことである。彼女たちの平均年齢は低く、17歳から23歳ぐらいが多いと言われている。


 特に「立ちんぼ」が多いと言われる場所は、東京なら新宿の「トー横」と呼ばれる場所、大阪ならミナミの「グリ下」と呼ばれる場所だが、神戸の「パイ山」にも少なからずそういう女性がいる。――実際、昨日居酒屋に行く道中でも、そういう女性を見かけたぐらいだ。もちろん、「立ちんぼ」はリターンよりもリスクの方が高く、「トー横」では「立ちんぼ」の女性が相手の男性から犯されるという事例が報告されている。


 近年、繁華街において「立ちんぼ」が急激に増えているが、それは日本が貧困化しているのが原因と言われている。――まあ、あんな疫病が流行ってなおかつ不景気なのに増税もすれば、物価高で貧困にもなるだろう。私ですら、印税がなければギリギリの生活を送っているぐらいだし。


 そんなことを考えながら、私は京極仁美に話す。


「坂下真希と常田茜、そして井口美緒の3人は肝臓を抜き取られた状態で殺害された。これは確実に言えますよね。――でも、廣野麻衣の死因は肝臓を抜き取られたことじゃなければ……一体、何なんでしょうか?」


 どうやら、彼女にも廣野麻衣の死因は分からないらしい。


「ごめんなさい……。私にも、麻衣さんの死因は分からないんです。ただ、私が聞いた話だと『彼女は犯人と争った形跡があった』とのことです」

「それで、あの事件の犯人は誰なんでしょうか?」

「被告の名前は『桐崎譲治(きりさきじょうじ)』という男性で、河崎重工で期間工として働いていました。――事件自体は3年前に発生していて、彼には当然のように死刑判決が下されています」

「ということは、今そこで起きている事件は彼の犯行ではないと」

「当然でしょう。彼が脱走していたら、兵庫県警として大失態ですから」

「ですよね……」


 一連の妊婦切り裂き事件が桐崎譲治による犯行でないとすれば――一体、この事件は誰が犯人なんだ? 私はそのちっぽけな頭脳で考えていた。――そういえば、京極仁美が刑事になったきっかけは何なのだろうか? 私は彼女にそのことを聞いた。


「ところで、仁美さんはどうして刑事になったんでしょうか?」


 彼女の答えは、やはりあの事件に関するモノだった。


「やっぱり、真希さんが殺害されたことがきっかけですね。事件が発生もしたのも、私が大学を卒業してすぐでしたし」

「ということは、仁美さんと真希さんは同い年であると」

「そうですね。――私、25歳ですから。刑事としてはまだまだ新米ですし、田辺刑事から学ぶことも多いんですよ」


 25歳なら、私よりも7歳下なのか。――彼女、色々と大変な時期に大学に通っていたんだな。3年前なら、ちょうど疫病騒ぎの時期と被るし。


「ちなみに、僕は35歳だ。彩香ちゃんや沙織ちゃんから見て、少し上になるかな」


 善太郎は、そうやって私と京極仁美の話に割り込んできた。私は、若干呆れつつも彼と話すことにした。


「善太郎さん、私と仁美さんの話を聞いていたんですね」

「ああ、刑事として当然だ。――ところで、京極君、竹本潤のスマホに残されていた画像を分析させてもらったが……これ、西宮北口の監視カメラに映っていた人物と同じじゃないか?」

「確かに……この黒いフードは、西宮北口の監視カメラで見た人物と同じですね。ということは、犯人は計画性を持って妊婦を殺害していたんでしょうか?」

「今のところは、そうとしか言いようがない。西宮署の方でも引き続き顔認証からの分析を行っているが、容疑者の候補を絞り込めていないのが現状だ」

「そうですか。――田辺刑事、これからどうするんですか?」

「僕は、一旦本部に戻るつもりだ。――これ以上、凶行が起こらないことを祈るしかない」

「分かりました。――じゃあ、私も同行しますね」

「そうだな。――というわけで、彩香ちゃん、僕と京極君は一旦帰らせてもらうよ」


 刑事さんたちが帰るのに気付いたのか、古谷沙織は話す。


「善くん、ちょっといいかしら?」

「沙織ちゃん、どうしたんだ?」

「これ、あくまでもアタシの考えでしかないんだけど……この事件の犯人は、桐崎譲治を崇拝する人物によるものだと思うわ」

「桐崎譲治を……崇拝する人物?」


 突拍子もない考えに困惑する善太郎をよそに、古谷沙織は話す。


「いるのよね、そういう人。――これ、見てちょうだい」


 そう言って、彼女は刑事さんたちに自分のレッツノートの画面を見せた。画面には、あるハッシュタグを付けたSNSの投稿が多数表示されていた。

「#桐崎譲治の死刑執行に反対します……か。今更決まったことに対して反対するなんて、この人たちは一体どういう神経をしているんだ?」


 善太郎、意外と頭が固いのか。――京極仁美がフォローに入った。


「ああ、それですか? いわゆる『ハッシュタグデモ』ですね。SNS上で特定のモノやコトに対して反対を示す姿勢として『#〇〇に反対します』というハッシュタグデモが行われることがあるんですよ。とはいえ、所詮はSNS上でのデモですから、反対意見がまかり通ることなんてあり得ません。――まあ、SNSの投稿で世間がひっくり返るなら、私もそういうモノには賛同しますけど」

「なるほど……。沙織ちゃん、この『#桐崎譲治の死刑執行に反対します』というハッシュタグ、捜査の参考資料にさせてもらうよ」

「そうね。――SNS上でのこのハッシュタグデモ、すごいことになってるから」


 私も自分のスマホで件のハッシュタグを検索したが、確かにSNS上での投稿件数はかなり多かった。――正直、追いきれないぐらいである。


 そして、刑事さんたちが引き上げたことを確認して、私と古谷沙織もイコカをタッチして駅のホームへと向かった。


 向かう場所が反対方向とはいえ、待ち時間ぐらいは古谷沙織と話すことができる。――彼女は話す。


「それにしても、あの気持ち悪い事件の犯人を崇拝する人物がいるなんて思わなかったわ」

「沙織ちゃんは、どのフェーズでそのハッシュタグに気付いたのよ?」

「うーん、たまたまSNSを開いた時かな? そしたら、トレンドワードの中に『#桐崎譲治の死刑執行に反対します』っていうハッシュタグが上がってきていたの。――ああ、気持ち悪い」

「そうね。仮にあの事件で私の姉が本当に殺害されたんだったら、なおさら許せる話ではない。――一刻も早く、今そこにある事件を解決しないと」

「あら、ヒロロンにしては珍しく乗り気じゃないの? 以前のアンタなら、ウジウジしてたのに」

「そうかなぁ……」


 そんな話をしているうちに京都行きの普通列車が来てしまったので、古谷沙織はそれに乗った。――どうせ、西宮駅で快速に乗り換えだろう。


「ヒロロン、何かあったらすぐにスマホで連絡するから」

「分かってるわよ」


 私がそう言った頃には、京都行きの列車はすでに発車していた。それから数分経って西明石行きの普通列車が来たので、私はそれに乗った。


 ――ノイキャンのイヤホンからは、hitomiの『SAMURAI DRIVE』が流れていた。


 ***


 芦屋駅に着いたフェーズでGショックを見ると、時計の針は午後5時30分を指していた。――随分とさくら夙川に長居してしまったな。


 仕方がないと思いつつ、私は芦屋駅のスーパーで適当に食料を買い込み、アパートへと戻った。


 それにしても、事件は大変な方向に向かってしまったな。ただでさえ猟奇的で凄惨なモノなのに、そこに絡む人物が多いし、まさか私の姉が殺人鬼に殺されているとは思わなかった。――そんな話、聞いたことなかったのに。


 私はなんとなく姉――廣野麻衣のスマホにメッセージを送信しようと思ったけど、本当に死んでいたら申し訳ないし、死んでいなくても申し訳ないので、すんでのところで送信をやめた。


 それから、私は浴室に入ってシャワーを浴びていたが、シャワーのお湯が真新しい自傷行為の傷痕に染み込む度に、その痛みに苦しんでいた。そして、シャワーを浴び終わったところで疲れていたし、私はさっさとカップラーメンを食べて寝ることにした。


 先ほどスーパーで買い込んだ袋からとっさに取り出したカップラーメンは、味噌味だった。――まあ、悪くはない。


 味噌ラーメンを食べながら、ダイナブックの画面を見ると――やはり、ニュースは例の連続猟奇殺人事件一色だった。良い意味で脚光を浴びるならまだしも、悪い意味で西宮という街が脚光を浴びてしまうのはどうかと思いながら、私はひたすら事件に関連した記事を読んでいた。


 その中で、気になる見出しを見つけたので、私はその記事を読むことにした。


 見出しには「西宮の妊婦連続殺人事件から浮かび上がる過去の猟奇殺人事件」というセンセーショナルな見出しだった。――よく見ると、ライターの欄に「古谷沙織」と書いてあったので、恐らくそういうことなのか。


 それから、私は彼女が書いた記事を読んでいたが、そこで結論に至るかと思えばそうでもなく、私が事件に関して知っている現状だと「結論はぼかすしかない」と感じた。というか、この記事、善太郎からの受け売りでしかない。


 記事を読み終わったところで、いい感じで睡魔が襲ってきた。念のために睡眠安定剤を飲んで、私はベッドの中へと入った。――こういう時にスマホを触ってしまうと、却って眠れなくなる。


 ***


 眠っているはずの私は――なぜか、阪急三宮駅の東口にいた。東口といえば、いわゆる「パイ山」と呼ばれる場所である。この場所は、かつて「おっぱいのような山のオブジェ」がそこにあったから「パイ山」と呼ばれていて、再開発によってオブジェが撤去されても、結局「パイ山」と呼ぶ人が後を絶たない。


 そして、私は東口からメインストリートへと向かっていた。いわゆる「センター街」と呼ばれる場所と違って、阪急側のメインストリートは飲食店がひしめき合っていて、だいたいの人間はこの周辺でランチを食べたり飲み会を行ったりする。――状況的に、そんなことを言っていられないのだけれど。


 夢の中だと何をしても許されるとは言うが、私の身体はその意思に反して突然走り出した。――体力にはあまり自信がないのに。


「――ちょっと、待ちなさい!」


 いや、これは私の声じゃない。――私の声に似てるけど、その声は紛れもなく廣野麻衣のモノだった。一体、どういうことなんだろうか?


 私は夢の世界にその意識を委ねることにした。目の前には、刃物を持った男性がいる。恐らく、彼が桐崎譲治なのだろう。


 廣野麻衣は話す。


「あなた、さっき――女の子を犯そうとしたでしょ? そして、犯した挙げ句にスタンガンで気絶させて、ナイフで彼女の肝臓をえぐり出そうとした。あなたのことはネット上で噂になってるから、どんなに逃げても無駄よ」

「くっ……」

「だから、大人しくして。――警察も呼んだし」


 廣野麻衣がそう言ったところで、桐崎譲治は突然彼女の背後に回って、乳房を揉み始めた。――そういえば、私と違ってお姉ちゃんは結構胸がある方だったっけ。


「んっ……あっ……」


 乳房を揉まれて、廣野麻衣は喘ぎ声を上げた。


「お前、結構良い胸してるじゃねぇか。俺の目当ての女じゃねぇが、このまま犯して、肝臓を奪ってやろうか?」


 彼女は抵抗しつつ、桐崎譲治に対して反撃の態勢を取った。


「やめてください! 私はまだ、死ぬ訳にはいかないんです!」

「死ぬ訳にはいかねぇ……か。どういうことだ?」

「私、大切な妹がいるんです。でも、最近……心を閉ざしてるみたいで、私はなんとかして元気付けてあげようと思っているんです」

「なんだ、それ?」

「私は、妹のために、内緒でイギリス旅行を計画しているんです。私の妹、サッカー観戦が好きですし。今は疫病騒ぎでそれどころじゃないけど、あと2年経てば疫病騒ぎも解決しているはず。――だからこそ、今ここで死ぬ訳にはいかないんですよ!」

「うるせぇ! ここで死ね!」


 そう言って、桐崎譲治は「何か」を私――いや、廣野麻衣の背中に刺した。


 桐崎譲治が「何か」を彼女の背中に刺したことによって、周りの人間は悲鳴を上げていて、スマホでその様子を撮影する野次馬も見える。そして、両手を見ると――赤黒いモノで塗れている。血か!


 背中に刺さった「何か」がナイフだと気付いた時点で、心臓の鼓動は段々と遅くなる。心臓の鼓動が遅くなるということは、意識も遠のいていく。意識が遠のくにつれ、視界もぼやけていって、やがて、救急車が来た時点で、その視界は――完全に暗転した。


 次にその視界に見えたモノは、三宮の繁華街ではなく、病室だった。その証拠に、無機質な心電図の音が鳴り響いている。


 そして、鼻と口には酸素を送るための人工呼吸器が装着されている。だから、廣野麻衣はそう長く生きられないのだろう。


「――廣野麻衣さん?」


 私は看護師に対して声を出そうとしたが、声が出ない。それどころか、廣野麻衣の意識としてうめき声のような声を上げてしまった。


 うめき声が「発作」と判断されたのか、拘束具で拘束されたうえに胸部にパッドを着けられた。パッドから無理やり心臓に電気ショックを与えられて、無意識のうちに強い鼓動を感じた。強い鼓動を感じるということは、すなわち心臓発作を起こすということでもあり、思わず胸を押さえて苦しみ藻掻いていた。当然だけど、鼓動は段々と速くなる。


「――廣野麻衣さん、容態が急変しました!」


 容態の急変――ああ、死ぬのか。心電図の音が、明らかに危機感を醸し出している。


 やがて、心電図は――「ピー」という音を鳴らしていた。その音は、まるで誰かの死を弔うようにも聞こえた。


 そして、看護師は話す。


「――午前0時39分、廣野麻衣さんの死亡を確認。御臨終です」


 ***


「はあっ……はあっ……」


 荒い息遣いの中で、私はその意識を覚醒させた。これが夢だと分かっていても、死ぬのは怖いのか。


 乳房の間に手を触れると、確かに心臓の鼓動を感じた。――私は、生きているんだな。


 鼓動は速く、自分の耳を通じて聴こえている。それだけでも自分が「悪い夢」を見たことは明確だった。再び眠ろうにも、また同じ夢を見てしまうことが怖かったので、私はそのままベッドから離れた。


 それにしても、どうして私の中に「廣野麻衣の記憶」が残っていたのだろうか? そもそも、夢で見た彼女の記憶は本物なのだろうか? 私は、そのことが不思議で仕方なかった。


 スマホを見ると、現在時刻は午前4時だった。随分と早起きである。とりあえずパンを焼いて、コーヒー用のお湯を沸かして、朝食を食べることにした。


 それから、私はダイナブックでなんとなく「桐崎譲治の事件」を調べていた。こういう時、一番頼りになるのは警察よりもアングラサイトの情報である。


 アングラサイトで色々と桐崎譲治に関する情報を収集していて分かったが、どうやら彼は生活に困ってあのような凶行に及んだらしい。――いわゆる「無敵の人」なのか。


 桐崎譲治自身は職を転々としていて、逮捕された時の勤務先がたまたま河崎重工だった。とはいえ、所詮は期間工なので給料は一般的なエンジニアよりも安く、まともに生活できる状況ではなかった。


 それで彼は殺人を思いつき、阪急三宮駅のパイ山にたむろしていた身寄りのない女性――「立ちんぼ」をターゲットとして殺人を犯した。その過程で、彼は己の腹を満たすために女性の肝臓に喰らいついたようだ。いわゆるカニバリズムである。


 カニバリズムとは、言うまでもなく「人肉嗜食」、つまり「人の肉を嗜んで食べること」を指す。有名なカニバリストとして『羊たちの沈黙』というサスペンス小説に出てきたハンニバル・レクターがいる。彼は天才的な精神科医である一方、人間の内臓を好んで食すという恐ろしい一面も持っていた。とある連続猟奇殺人事件の解決を彼に依頼したFBI捜査官も、危うく食べられそうになったぐらいである。――そういえば、私が15歳になって最初に見た15禁の映画が『ハンニバル』だったな。アンソニー・ホプキンス演じるレクター博士の食事シーンが怖すぎて、初見の後はしばらくホルモンが食べられなかった。そんなこと、どうでもいいのだけれど。


 とにかく、桐崎譲治という人物が俗に言う「無敵の人」で、なおかつカニバリストだったことは確かである。――もしかしたら、今そこにある事件も同様なのか。


 そう思った私は、SNSの検索欄に「#桐崎譲治の死刑執行に反対します」と入力した。どうせこのハッシュタグも誰かの悪ノリだろうと思っていたが、タグの火元は死刑に反対する政治的なアカウントではなく――やはり、桐崎譲治という犯罪者を崇拝する人物だったようだ。


 ハッシュタグの最初の書き込みは今からおよそ1か月前――2月14日だった。曰く「我々にとって桐崎譲治は神であり、死刑の執行によってその命が絶たれるのはおかしい」とのことだった。アカウントは自らを「第六天魔王」と名乗っていて、SNS上で猟奇犯罪について投稿していた。投稿の中には「明らかにアウト」な画像も含まれていて、このアカウントは逮捕以前に凍結されるべきだと思った。


 当たり前の話だけど、こういうSNS上の匿名アカウントと直接接触することは、自らの所在地を書いていない限り困難である。とはいえ、所在地もフェイクである可能性が高く、実際にその場所にいるとは限らない。――第六天魔王の所在地は、東京の青山か。青山に住んでいる時点で、彼が一連の事件の犯人である可能性はゼロに等しい。


 それでも、私は諦めない。無数に投稿されたハッシュタグの中に、事件の犯人が紛れ込んでいる可能性も考えられる。


 例えば、「実際に桐崎譲治の事件を目撃した」とかそんな感じの投稿を見つければいいだけの話である。――そんな都合の良い話は、すぐに見つかってしまったのだけれど。


 都合良く見つかってしまったその投稿には、「その事件は私にとって衝撃的で、なおかつ美しいと感じた。この事件をきっかけに、私は桐崎譲治という人物に対して尊敬の念を抱くことになった」と書いてあった。


 件のつぶやきを投稿したアカウントは「なにわのクラリス」と名乗っており、所在地は――西宮だった。まさか、そんなことってあるのか。


 クラリスといえば、たいていの人間は「大泥棒から心を盗まれてしまったお姫様」を想像するかもしれないけど、私はどうしても『羊たちの沈黙』に登場するFBI捜査官のクラリス・スターリングが浮かんでしまう。確か、映画ではジョディー・フォスターが彼女を演じていたか。劇中でレクター博士に事件の解決を依頼するのはまさしく彼女であり、どういう訳かレクター博士は彼女のことを食料ではなく恋人として愛してしまった。その結末はサイコサスペンスなのに切なくて、続編の『ハンニバル』にも繋がっていくのである。


 それはともかく、仮に「なにわのクラリス」が妊婦切り裂き事件の犯人だとすれば、その姿は意外とすぐそこで見かけたりする。――これ、何気にマズい事態なのでは。


 私はすぐそこにある危機に対して怯えながら、古谷沙織のスマホにメッセージを送信した。


 ――あれから、私は桐崎譲治について色々と調べてたんだけど、彼を崇拝する人物の中に……西宮在住者がいたの。

 ――匿名のSNSとはいえ、所在地に「西宮」って書いてあると、どうも臭うのよね。

 ――名前は「なにわのクラリス」で、私は真っ先に『羊たちの沈黙』に登場するあのFBI捜査官が浮かんだわ。

 ――沙織ちゃんがどう思うかはさておき、このアカウントが犯人だとしたら、事件の解決はすぐそこまで来ているんだと思う。

 ――まあ、参考までに。


 スマホの時計を見ると、時刻は午前7時になるところだった。早い目覚めの割に、桐崎譲治について調べていたからか、眠気はまったくなく、むしろ「眠ること」に対して恐怖心を抱いていた。


「――マダ、死ネナイノ? 死ヌコトナンテ、怖クナイノニ」


 誰? あの時の幻聴が、頭の中で聴こえた。


 私は、思わず幻聴に対して独り言を呟いた。


「――あなた、私の頭……というか、心の中にいるみたいだけど、誰なの?」


 私の独り言を聞いたのか、幻聴は質問に答えていく。


「――私ハ、アナタノ心ノ『抑圧サレテイル部分』ヨ。アナタハ、ネガティブナ感情ニ支配サレルコトヲ恐レテ心ヲ閉ザシテイル。ダカラ、他人トノ接触ヲ嫌ッテイテ、『自分ナンカイナクテモイイノニ』ッテ思ッテイル。ソレハ間違イナイヨネ?」


 確かに、幻聴が言う通り――私は、心のどこかで「ネガティブな感情に支配されること」を恐れているのかもしれない。だから、心を閉ざしているのか。――そういえば、あの夢の中で廣野麻衣は「妹は心を閉ざしている」って言っていたな。


 そんなことを考えていると、突然頭が痛みだした。頭痛は鼓動と同調するように、ズキズキと私の頭を苦しめていく。


「――アナタ、前ニソコノベランダカラ飛ビ降リテ、頭ヲ強ク打チ付ケテイルヨネ?」


 ああ、そうだった。私は、自ら命を絶とうと思って部屋のベランダから飛び降りたことがあったな。でも、飛び降りた先で待っているのは、命を絶つことではなく――頭を強く打ち付けたことによる昏睡状態でしかない。


「――廣野さん、頭を強く打ち付けたショックである記憶を失っているようです」


 ――えっ? こんな記憶、あったっけ? そこにないはずの記憶が、フラッシュバックしていく。


「――廣野さん、あなたに姉がいることはご存知ですよね?」

「――はい。確かに、私には『廣野麻衣』という姉がいますが……それがどうしたんでしょうか?」

「――麻衣さんは、ある事件で殺人犯に襲われてすでにこの世にはいません。その時のこと、覚えていませんでしょうか?」

「――いえ、姉はまだ生きているはずですが……」

「――やはり、そういうことですか……」

「――そういうことって、どういうことなんでしょうか?」

「――廣野彩香さん、あなたは脳に損傷を受けた結果、いくつかの記憶が抜け落ちているようです」


 いくつかの記憶が……抜け落ちている? いや、そんなことはないはずだけど。そう思っていた時だった。――心臓の鼓動が、高鳴った。


 鼓動の高鳴りとともに、思い出したくない記憶がフラッシュバックしていく。夢で見た光景と同じ景色が、残像として私の中に映し出されていく。


 繁華街。殺人犯。ナイフ。血。――確かに、私はあのときお姉ちゃんと一緒にいて、警察に通報したタイミングで、お姉ちゃんは刺された。


 私は「廣野麻衣が殺されたこと」を忌々しい記憶として頭の中に封印していた。そして、自ら命を絶とうと思ってベランダから飛び降りたときに、その記憶は丸ごと抜け落ちてしまったのか。


 その後、病室での記憶がフラッシュバックしていき、心電図の「ピー」という音が鳴り響く病室の光景が脳内で映し出された。


「――お姉ちゃん……」


 最後にフラッシュバックした記憶は、まさしく廣野麻衣が亡くなった瞬間だった。看護師さんが淡々と死亡時間を伝えて、私は慟哭(どうこく)していた。――ああ、そういうことか。


 すべてを思い出した私は、古谷沙織のスマホにメッセージを送ろうとした。しかし、古谷沙織からメッセージが届いたことによって、私が送信しようとしたメッセージは遮られてしまった。


 仕方がないと思いつつ、私は彼女から送られてきたメッセージを読んだ。


 ――ヒロロン、大変なことになったわ。

 ――さっき善くんから聞いたんだけど、吹田で相馬雅美の遺体が見つかったらしいのよね。

 ――彼女は妊婦じゃないのに下腹部が切り裂かれていて、遺体の横には桃が置いてあったわ。

 ――アタシはこの件に関して「桃太郎の見立て」だと思ったけど、もっと別の見立てがあるんじゃないかって思ってヒロロンにメッセージを送ってみたのよ。

 ――そうだ、今からヒロロンのアパートに向かっても良いかしら? 色々と面倒だから、車で行かせてもらうわよ。


 あまりにも唐突な相馬雅美の死に、私は困惑していた。仮に相馬雅美が相葉雅紀の見立てだとしたら、残すピースは大野智だけである。一体、犯人は何を目的としてこんなことをしているんだ?


 それから約30分後、古谷沙織が私のアパートへと来た。


 彼女は話す。


「例の不倫疑惑について取材してたら、宇佐山貴仁が憔悴(しょうすい)した顔でマンションから飛び出してきたのよ。一体何があったのかって彼に聞いたら、『マツシマスタジアム吹田付近で相馬雅美の遺体が見つかった』という知らせを聞いたって言ってたわ。それで実際にスタジアムの近くに向かったら――相馬雅美は、お腹を切り裂かれた状態で亡くなってたのよ」


 マツシマスタジアム吹田って……ガッツ大阪のホームスタジアムじゃないか。この事件が一連の事件と関係あるとすれば、犯人は西宮を飛び出して吹田まで向かったことになる。――犯人の目的が、まるで分からない。そんなことを思いながら、私は話す。


「犯人は、どうして西宮から突然吹田まで向かったのよ? それに、相馬雅美ってかなりの有名人じゃないの。彼女、マネージャーとかいなかったの?」

「宇佐山貴仁曰く『雅美が殺害されたとき、現場付近にマネージャーがいなかった』って言ってたわ」

「彼女のマネージャーの名前、分かるの?」

「さすがのアタシでも、分からないわよ……。それに、マネージャーが1人だけとは限らないし」

「そうよね。――聞いた私がバカだったわ」


 私はそう言ってため息を吐いた。――そういえば、ダイナブックの画面はずっと「#桐崎譲治の死刑執行に反対します」というハッシュタグが表示されたままだったな。


 画面を見たのか、古谷沙織は話す。


「あれ? これ……もしかして、相馬雅美のマネージャーじゃないの?」

「どうして分かるのよ」

「とりあえず、この投稿を見て」


 そう言って、彼女は私のマウスを触りながらある投稿をクリックした。投稿日時は今日の午前10時だった。――ついさっきだな。


 投稿者は私が唾を付けていた「なにわのクラリス」であり、曰く「あと1人で、桐崎譲治の願いは達成される」と書いてあった。そして、投稿された写真に写っていたモノは――紛れもなく、マツシマスタジアム吹田だった。


 私は、その投稿を見て思わずおののいた。


「早く、『なにわのクラリス』を捕まえないと、大変なことになるわ……」


 私の言葉に、古谷沙織も同調していく。


「そうよね。――殺害現場が吹田だったってだけで、犯人自体はすぐそこにいるかもしれないしね」

「でも、どうすればいいか分からない。こんな時、お姉ちゃんがいれば……」

「お姉ちゃんって、廣野麻衣のこと?」

「うん。――さっき、頭の中から抜けていた記憶がフラッシュバックして、思い出したくないモノまで思い出したの。それで、確かにあの時お姉ちゃんは桐崎譲治に胸をナイフで貫かれて殺されていたわ」

「なるほど。――もしかしたら、桐崎譲治が麻衣ちゃんを殺害した時の野次馬に、今回の事件の真犯人がいる可能性も考えられるわね」

「言われてみれば、そうかもしれない……」


 古谷沙織の指摘が正しければ、犯人の目星はなんとなく付いているけど……どこまで正しいのかは分からない。それに、人違いだとしたら私はとんだ推理ミスをしてしまったことになる。――思い出すんだ。


「――思イ出シタ? アノ時ノコト」


 私は声がした方を振り向いたけど、振り向いた先には誰もいない。


 古谷沙織は、私の奇行に対して不思議がった表情を見せている。


「ヒロロン、どうしたのよ?」

「ううん、なんでもないわ。――でも、最近……私の頭の中で幻聴が聴こえるのは確かよ」

「幻聴ねぇ……。それ、ホントに幻聴なの?」


 彼女はそう言うけど、これは誰がどう考えても幻聴だろう。


「――ソレヲ幻聴ダト思イ込ムコト自体ガ、悪イコトダト思ウワ」


 じゃあ、これは幻聴じゃなくて何なんだ? あまりにもうるさいので、私は両耳を塞いだ。――それでも、声は聴こえる。


「――アナタハ、内ナル心ノ声ガ聴コエル体質ナノヨ」


 内なる心の声? どういうことなの?


 そう考えているうちに、私は――気を失った。


 ***


「――ヤット、私ノコトヲ受ケ入レタノネ」


 目の前に、私とよく似た人物がいる。――これが、幻聴の正体なのか。まるで、ドッペルゲンガーだ。


 幻聴の主は、私を後ろから抱きしめた。他人から抱きしめられるならまだしも、自分で自分を抱きしめるという行為は、なんだか滑稽である。


 私を抱きしめながら、幻聴は話す。


「――私ハ、アナタノ心ノ中ニイルモノナノ。今マデ、ソノ心ヲ閉ザシテタカラ眠ッテイタダケデ、アナタノ心ノ中デ目覚メル日ヲ待ッテイタノヨ」

「目覚めるのを待っていた? 確かに、私は今まで人間不信で他人に対して心を閉ざしてたけど……」

「――アナタ、気付カナイウチニ他人ニ対シテ心ヲ開クヨウニナッテイタノヨ」


 ああ、言われてみればそうかもしれない。私は田辺善太郎や京極仁美という存在と出会って、無意識のうちに他人に対して心を開くようになっていた。


 そして、幻聴は私にあることを伝えた。


「――アナタ、変ワッタヨネ。今マデナラウジウジシテタノニ」


 そういえば、この前古谷沙織にも駅のホームで「今までのアンタならウジウジしてたのに、明らかに変わった」と言われたっけ。――だからなのか。私は、自分自身で変わろうとしているのか。


 そのことに気付いた私は、幻聴に身を委ねながらまぶたを閉じた。


 ***


「――ちょっと、ヒロロン?」


 意識を覚醒させると、古谷沙織が心配そうに私を見つめていた。恥ずかしいと思いつつ、私はある覚悟を決めた。


「さ、沙織ちゃん……私、変わろうとしてるの」

「変わろうとしてるって、何が?」

「心よ、心。――だから、沙織ちゃん、私の願いを聞いてほしいの」


 私が自分の胸を指しながらそう言ったところで、彼女は鼻を鳴らしながら話す。


「アンタの願い、言われなくても分かってるわよ? 事件の犯人が分かったから、善くんを呼んでほしいんでしょ? それなら、すでに呼んでるわよ?」

「やっぱり、沙織ちゃんには見透かされてたのね」

「当然よ、と・う・ぜ・ん」


 やがて、ドアチャイムが鳴った。――ピンポーン。


「沙織ちゃん、彩香ちゃん、僕だ」


 ドアを開けたのは、古谷沙織だった。


「善くん、来たのね。――とりあえず、中に入って」

「ああ、分かっているよ」


 そう言って、善太郎は私の部屋の中へと入った。一人暮らしで間に合うと思っていたが故に、3人以上の人間が部屋に入ることなんて考えていなかったので、部屋の中はかなり狭かった。


 そんな中で、善太郎は話す。


「――彩香ちゃん、事件の犯人が分かったって、本当なのか?」


 私の答えは、当然のモノである。


「分かったんです。――私、三宮で発生したある刺殺事件の被害者の遺族で、なおかつその刺殺事件で現場に居合わせていたんです」

「刺殺事件ということは――彩香ちゃん、京極君が言っていたことを思い出したのか」

「思い出しました。――私、あの時、お姉ちゃんを救えなかったことを後悔していたんです。お姉ちゃんを刺した犯人こそ『三宮婦女連続殺人事件』の犯人である桐崎譲治ですが、その野次馬の中に、明らかにおかしい人物がいたんです」

「おかしい人物? それって、どういうことだ?」

「スマホが普及した今の世の中って、何かおかしなことがあったらすぐにスマホでその様子を撮影してSNSに掲載するじゃないですか。――それで、これを見てほしいんです」


 そう言って、私は善太郎にダイナブックの画面を見せた。善太郎は、その画面を見て絶句している。


「こ、これは……」


 私は、確かに「なにわのクラリス」が投稿したある写真をダイナブックの画面に表示させていた。「なにわのクラリス」はあの事件で、現場を撮影して、なおかつSNSに掲載している。もちろん、事件現場は血塗られた状態である。


 とはいえ、「なにわのクラリス」という仮の名前を使っている以上、容疑者の本名なんて分かるはずがない。私は話す。


「とりあえず、『なにわのクラリス』が『妊婦連続切り裂き事件』の犯人であることまでは分かったんですけど、犯人の足取りは掴めていないのが現状なんです。――善太郎さん、あれから何か分かったことはありませんでしょうか?」


 どうやら、善太郎は――分かっていたらしい。


「実は、遺体から奪われた胎児の行方が判明したんだ。――京極君によると、胎児は西宮にある産婦人科で遺棄されていた。しかし、単純に胎児が遺棄されていた訳じゃない」

「単純に遺棄されていた訳じゃないって、どういうことなんでしょうか?」


 私がそう言うと、善太郎は――申し訳なさそうに話した。


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「その妊婦の名前、分かるんでしょうか?」

「――大野知日露(おおのちひろ)という女性だ。僕が何を言いたいかは、彩香ちゃんも沙織ちゃんも分かっているな?」


 善太郎の問いかけに、古谷沙織が答えていく。


「当然よ。大野知日露という女性の下腹部を切り裂いて、そこに遺体から奪った胎児を詰め込んで、縫合させた。当然だけど、彼女は下腹部の痛みに耐えきれなくなって、そのまま命を落としたんでしょ?」

「沙織ちゃん、まだ彼女は命を落としていないんだ。――でも、危篤状態であることに変わりはない」

「それじゃあ、その産婦人科に行くしかないわね」

「当然だ。――彩香ちゃんも、付いてきてくれ。この事件の解決には、君の力が必要なんだ」


 そんなこと、善太郎に言われなくても分かってるのに。そう思った私は、古谷沙織が運転する黄色いアウディの後ろを追いながら、カワサキグリーンのバイクで西宮の産婦人科へと向かった。


 ――春めいてきた空は、鉛のような色だった。

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