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事件現場は、夙川の河口付近――御前浜の海岸だった。遺体に青いビニールシートがかけられているということは、恐らくそういうことなのだろう。
そして、私の姿を見たのか、善太郎が声をかけてきた。
「あっ、君は……彩香ちゃん? どうしてこんな場所に来たんだ?」
「沙織ちゃんから話を聞いたのよ」
「ああ、そうか。――知っての通り、西宮北口で発生した猟奇殺人事件と同様の手口による事件が、この御前浜で発生した。被害者の名前は桜井祥子といい、年齢は29歳。職業は看護師だったそうだ」
「なるほど。――それで、彼女の遺体の横には、どういう訳かアコースティックギターが置かれていたのね」
「その通りだ。彼女の遺体の横には、確かにアコースティックギターが置かれていた。一宮和子の笹といい、彼女のギターといい、犯人がどういう目的でこんなことをしたのかは不明だ」
善太郎は、頭を抱えながらそう話した。――相当参っているのか。
私は、なんとなく思いついたことを彼に話した。
「これ、私の持論で申し訳ないんだけど、犯人は『嵐のメンバー』に見立てて殺人を犯したんじゃないのかな」
しかし、彼は私の考えに対して懐疑的な反応を示していた。
「嵐のメンバー? ――確かに、2人の被害者の名前は微妙に嵐のメンバーと似た名前だが……そんなふざけた見立てがまかり通るのか?」
「そうは言うけど、一宮和子は二宮和也だし、桜井祥子は櫻井翔じゃないの。これ、少なくともあと3人は同様の手口で殺害されるってことよ」
「あと3人か……。嵐のメンバーの中で残っているのは、相葉雅紀と松本潤、そして大野智だな。しかし、そんな都合の良いことってあるのだろうか?」
「多分、あるんだと思う。――私の推理をアテにするほうも、どうかと思うけど」
「そうだな。彩香ちゃんはただの小説家であって、探偵ではない。それは分かっているよ」
善太郎は、そう言いながら持っていたマルボロに火を点けた。――今どき、ヘビースモーカーな刑事さんって珍しいかも。
タバコを吸っている彼に対して、私はなんとなく「どうして古谷沙織と知り合いなのか」を聞くことにした。
「ところで、どうして善太郎さんは沙織ちゃんのことを知ってるのよ?」
「ああ、沙織ちゃんと出会ったのはちょっと訳ありでね。――彼女、数年前に三宮で発生したある連続猟奇殺人事件で知恵を借りさせてもらったんだ」
善太郎が言う「連続猟奇殺人事件」に対して、私はなんとなく心当たりがあった。確か、三宮の北側――俗に言う「パイ山」周辺で肝臓のない遺体が相次いで見つかったとかそんな感じだったか。被害者は俗に言う「立ちんぼ」の少女たちであり、結局のところ、犯人はとてつもない変態野郎だった。
――ちょっと待った。この事件、パイ山で発生した連続猟奇殺人事件と似た手口だな。パイ山で犯人が奪ったモノは肝臓だったけど、今回の事件で奪われているモノは胎児である。パイ山の事件で犯人が肝臓を奪った理由は「少女の肝臓を食べるため」という明確かつ気持ち悪い理由だったが、今回の事件で犯人が胎児を奪った理由は分からない。
そんなことを考えつつ、私は善太郎との話を続けた。
「なるほど。――沙織ちゃんが事件の取材をしているときに、たまたま捜査を担当していた善太郎さんと出会ったとかそんな感じなのね」
「ほとんど正解に近いな。――沙織ちゃんは、週刊誌のフリーライターとして例の事件を追っていて、僕も捜査一課の刑事として事件を捜査していた。そういう利害関係が一致して、僕は沙織ちゃんというコネクションを手に入れたんだ」
「彼女、結構『使える』でしょ?」
「使える……か。確かに、彼女の取材力には感服させられるよ。僕たち兵庫県警が知らない情報まで知っているからね」
「それはそうでしょ。彼女、色々と顔が広いからさ」
確かに、古谷沙織という女性は――昔から妙に顔が広い。先日、スマホのメッセージアプリに彼女からある写真が送られてきたのだが、写真に写っていたのは「どう見てもヤバい人」だった。多分、北新地かミナミの居酒屋で撮った写真なんだろうけど、彼女の隣にいた男性の腕には刺青が入っていて、私は思わずその写真をログから削除しようとしたぐらいである。
もちろん、彼女の顔の広さは裏社会だけじゃなくて、表社会でも通用する。聞いた話だと、ある政財界の大物や名の知れた映画監督とゴルフに出かけたこともあるとか。――政財界の大物はともかく、映画監督の方は気になる。まあ、彼女はコミュ障な私と違っていわゆる「コミュおばけ」だし、これぐらい朝飯前なのかもしれない。
そういえば、彼女――今何しているんだろうか。とりあえずスマホのメッセージアプリに「善太郎と会った」と送ったけど、既読は付いていない。やはり、事件に関する情報収集で忙しいのだろうか。
彼女のことを気にしても仕方がないので、私は善太郎に「今分かっていること」をまとめてもらった。
「とにかく、この事件は連続殺人事件であることに変わりはなくて、なおかつ被害者は妊婦だ。当然だが、妊婦の中に宿っていた小さな生命もろとも殺害されていることになるから、早急な事件の解決が求められるが……どうしたものか」
「善太郎さん、容疑者らしき人物の特定は出来ているの? もし、特定が出来ていたら事件の解決に一歩前進だと思うけど……」
しかし、善太郎が返した答えは私が望んでいたモノではなかった。
「残念ながら、特定は出来ていない。――監視カメラの映像は西宮署で調べてもらったが、フードが災いして顔の特定までには至っていないんだ」
ああ、そういえば監視カメラに映っていた人物はフードを被って顔を隠していたな。だから、監視カメラに映ったとしても個人の特定までには至らないのが現実である。
「そうなのね。――まあ、監視カメラをアテにしてもダメよね」
「その通りだ。僕は西宮北口の事件と御前浜の事件を同一人物による犯行であると考えているし、引き続きこの事件を追っていくつもりだ。もちろん、沙織ちゃんの力も借りさせてもらうよ」
善太郎がそう言ったところで、私は事件現場を後にした。――どうせ、これ以上詮索しても良い情報は得られないだろう。
***
アパートに戻ったところで、時刻は午後10時30分を少し過ぎた頃合いだった。――随分と事件現場に長居してしまったな。私は、とりあえず浴室に向かいシャワーを浴びることにした。
それにしても、あの事件は謎が多いな。一宮和子の事件で遺体に持たされていた笹といい、桜井祥子の事件で遺体の横に置かれていたギターといい、何かの見立てであることは確かなんだろうけど、どうして犯人はわざわざこの2つのアイテムを遺体の見立てに使ったのだろうか? そして、被害者の名前が嵐のメンバーに似ていることも気になる。偶然にしては出来すぎていて、気持ち悪いと思う。そんなことを考えながらシャワーを浴びていて、蛇口を閉めたときに――自分の華奢な裸体が鏡に映った。
私は、その裸体をじっと見つめる。乳房は一般的な女性と比べて平ら――まな板であり、背は低い。日光を浴びることが少ないが故に肌は白く、両腕には自傷行為の傷痕が痛々しく残っている。なんとなく自傷行為の傷痕をなぞると、ズキズキと痛む。まだ、出来て間もない傷痕なのか。私は自傷行為の常習者であり、事あるごとに自らの腕をカミソリで傷付けてしまう。そういう自分が情けないし、嫌なことがフラッシュバックすると自らの手でその命を絶ちたくなる。もちろん、死ぬのは怖いし、死んだ後の世界がどうなっているかは分からない。でも、私は常に「生」と「死」の狭間で葛藤している。このまま生きていたら他人に対して迷惑をかけるだけだし、死んだところで弔ってくれる人間なんていないだろう。そう思った私はカミソリを手にしてみたけど、これ以上嫌なことを考えていたら自傷行為の衝動に駆られてしまうし、さっさと浴室を後にした。
それから、スマホを見ると古谷沙織からメッセージが来ていた。
私は、彼女から送られてきたメッセージを読んでいく。
――ヒロロン、善くんに会ったのね。
――それで、事件の手がかりは何か掴めたのかしら?
――もし、何か掴めてたら教えてほしいわ。
そうは言うけど……脈ナシでしかない。私は彼女のメッセージに対して返信した。
――ううん、全然掴めてない。
――でも、なんとなく事件の全貌は見えてきたかもしれないわ。
既読は付いている。そして、すぐさま彼女から「事件の全貌を教えてほしい」というメッセージが送られてきたので、私はそのメッセージに応えた。
――これは私の考えでしかないんだけど、この事件は「パイ山浮浪児連続殺人事件」と同じだと思う。
――あの事件は「少女の肝臓を奪って食べようとした」という凄惨なものだったけど、今回の事件は多分「胎児を食べようとした」というのが動機だと思うの。
――だから、犯人は……相当な変態野郎というか、「姑獲鳥」みたいなものだと考えてるわ。
――いや、京極夏彦の小説のパクりじゃないとは思うけどさ。
そこまでメッセージを送ったところで、古谷沙織は思わぬ返信をしてきた。
――ヒロロン、それ……マジで言ってんの?
――確かに、アレは「少女の新鮮な肝臓を食べることによって自らの精力が増す」と信じ切ってた変態野郎による犯行だったけど、まさか模倣犯がいるとでも?
――でも、アンタがそう言うなら……そうかもしれないわね。とはいえ、流石に犯人も『姑獲鳥の夏』のような考えは持ってないと思うけど。
――とにかく、アタシは引き続き事件について追っていくから、何か分かったらすぐに連絡するわ。
――それじゃ、おやすみ。
メッセージはそこで終わっていて、ついでに「ウサギのキャラがベッドに入って寝ているスタンプ」も送られてきた。――ああ、気付けば日付が変わろうとしている。
とはいえ、重度の不眠症を患っている私にとってそんなことはどうでも良くて、私はダイナブックで小説の原稿を書いていた。
進捗状況としては75パーセントぐらいだろうか。誤字脱字は校正係の方でなんとかしてもらうとして、とりあえず適当にあしらっておけば良いという考えを持っていた。
結果として、出来上がりそうな原稿は「妖怪の仕業としか思えない猟奇殺人事件を人間の仕業であると見抜く」とかそんな感じである。――結局、京極夏彦の後追いでしかない。
私が京極夏彦の後追いのような小説を書いたところで世間からは「パクりだ」と言われるのがオチだろうし、そういう世間からの声を素直に受け入れていくしかない。それが、私のようなミジンコにできる唯一のことである。
そして、進捗状況が90パーセントに差し掛かったところで――案の定、行き詰まった。ああ、やっぱり自分はダメな小説家なんだ。
仕方がないので、私は睡眠安定剤を飲んでベッドに入った。こういう時は、寝るに限る。
***
ここは、どこだろうか。辺りを見渡しても、ひたすら白い世界が広がっているだけである。
やがて、白い世界の中に1つの黒い点が見えた。黒い点に近づくと、それは紛れもなく人間のカタチをしていた。どうやら、女性らしい。
「――あなた、誰なの?」
私はそこにいた女性にそうやって尋ねた。
「私は……誰なんだろうか。それが分からない」
彼女は、記憶を失っているのか。それに、私の姿を見て怯えている。――まるで、自分を見ているようだ。
怯える彼女に対して、私は話す。
「あなたは、どうしてここにいるの? ここには、私とあなたの2人だけしかいないみたいだけど」
しかし、彼女は「自分がここにいる理由」すら分からないらしい。本当に記憶喪失なのか。
「それも分からない。――ただ、私は気付いた時にここにいて、白い世界の中をひたすら彷徨っていたみたい」
「そうなのね。私も似たようなモノだけど。ベッドに入ってまぶたを閉じて、眠ったら――この場所にたどり着いただけの話よ」
眠った瞬間にこの場所にたどり着いたということは――ここは、夢の世界なのか。でも、夢の世界にしては、妙に感覚がある。
そういう感覚を感じつつ、私は彼女の手に触れた。彼女の手は、氷のように冷たくて、「生きている」という感触がなかった。――彼女、もしかして、すでにこの世にはいない存在なのだろうか?
そう思った私は、なんとなく事件のことを彼女に聞いてみることにした。
「ところで、最近『妊婦を狙った猟奇殺人事件』が起きてるんだけど……あなたは、この事件に対して何か知ってることはないのかしら?」
どうせ夢の世界の住民に聞いても、碌な答えは望めないだろう。私はそう考えていたが――彼女の様子がおかしい。私の質問に対して、彼女は頭を抱えて、気が触れたように悲鳴を上げた。
「――い、いやああああああああああああっ!」
やはり、ここにいる彼女は――一連の事件の被害者の1人なんだろうか? それとも、被害者の子宮に宿っていた小さな生命が具現化したモノなのだろうか?
仮に、彼女が「被害者の子宮に宿っていた小さな生命」だとしたら、この夢は――悪い夢だ。早く醒めなければ。
***
スマホのアラームがうるさい。――お陰で、私の意識は夢の世界から現実へと引き戻された。
それにしても、嫌な夢だったな。白い部屋に、記憶を失った女性が佇んでいて、彼女に例の事件のことを尋ねたら、突然悲鳴を上げて暴れ出した。私、何か悪いことでもしてしまったのだろうか?
そういう自己嫌悪に陥りつつも、私は寝ている間に来ていた古谷沙織からのメッセージを読むことにした。
――ヒロロン、おはよう。もう起きてるかしら?
――アタシは色々あって5時起きよ。今日、例の事件とは別件で取材があるからね。
――なんでも、ガッツ大阪の選手が不倫したらしくてさ、アタシがその選手のゴシップを追うことになっちゃったって訳。
――まあ、川崎フロンアーレのサポーターであるアンタに言っても分かんないと思うけどさ、不倫した選手の名前は「宇佐山貴仁」よ。
――日本代表でもバリバリ活躍してるから彼の名前ぐらいは知ってるっしょ?
――それで、不倫相手の女性もかなりビッグネームでさ、名前は「相馬雅美」っていうのよ。ほら、「高学歴グラビアアイドル」として一時期話題になった子。……そういえば、アンタ同命社大学卒よね?
メッセージはひとまずそこで終わっていた。それにしても、相馬雅美か。彼女はヤンマガの表紙とグラビアを飾ることが多かったから、それなりに目にする機会はあった。しかし、それ以上に――私が彼女を目にする機会が多かった場所は、そういう雑誌ではなくクイズ番組だった。しかも、彼女はそのクイズ番組における正答率が高く、度々チャンピオンに輝いていた。――ヤラセじゃなければの話だが。
よく考えると、クイズ番組における彼女の肩書きは「同命社大学卒」であり、私は先輩として彼女を応援しているフシがあったのかもしれない。
そんな彼女が、サッカー選手と不倫? それも、ガッツ大阪の選手となれば、世間からの冷たい目は避けられない。しかも、宇佐山貴仁ってガッツ大阪のエースストライカーだよな。彼はそのルックスから女性人気も高くて、ライバルチームであるビクトリア神戸の宮島大成と女性人気を二分しているのは確かである。
そういうことを思い出しつつ、私は古谷沙織のメッセージに対して返信した。
――確かに、私は同命社大学卒よ。ちなみに専攻は理工学で、在学中にメンタルを崩したわ。
――それはともかく、私の後輩にあたる相馬雅美が宇佐山選手と不倫ねぇ……。
――ガッツ大阪の本拠地って吹田だし、どこかで接触する機会でもあったのかしら?
そこまで返信したところで、彼女は即座にメッセージを送ってきた。
――ああ、その可能性はあるわね。互いに吹田在住で、度々接触してたとか。
――まあ、アタシは今から吹田まで取材に行ってくるから、また何か情報があれば送るわね。
――それじゃ。
メッセージの文末に「親指を立てたキャラのスタンプ」が付いていたので、チャットはそこで終了した。――相変わらず、面倒くさいヤツだ。
そもそも、ガッツ大阪は松島電器という吹田に本社機能を持つ電機メーカーのサッカー部をルーツとして創立されたサッカークラブであり、いわゆる「関西4大サッカークラブ」の中では一番歴史が古い。かつてはコンスタントに優勝争いに絡むことが多く、日本代表選手も多数輩出していた。しかし、リーマンショックから端を発する親会社の傾きの影響もあり、平成24年に2部リーグへと降格した。
翌年、2部リーグとは思えない圧倒的な成績で1部リーグへと復帰して、1部リーグ復帰初年度で日本サッカーの主要3冠タイトルをすべて獲るというグランドスラムを達成したが、それ以降の成績はイマイチであり、関西におけるライバルチームであるビクトリア神戸やゴラッソ大阪、京都フェニックスの後塵を拝するシーズンもザラにある。とはいえ、ガッツ大阪の昨年シーズンの成績は4位と復調傾向にあるのだが、いかんせんその年の優勝チームがビクトリア神戸だったので、結局ガッツ大阪は2番手となってしまった。ちなみに、昨年の川崎フロンアーレはかつての「常勝軍団」から一転して長年にわたるロートルの酷使が祟ったのか一時残留争いまで巻き込まれ、最終的には8位でフィニッシュしている。――そんなことはどうでもいい。
そういえば、「相馬雅美」という名前は――相葉雅紀に似ているな。あまりそういうことを考えたくはないが、もしかしたら最悪の事態もあり得る。
一宮和子が二宮和也の見立てだとして、桜井祥子は櫻井翔の見立てだとする。そうなると、相馬雅美は相葉雅紀の見立てとして殺害される可能性も考えられるのだ。
この状況で私にできること。それは――古谷沙織に「相馬雅美という人物を護ってほしい」と伝えることだろうか。そう思った私は、なんとなく彼女のスマホにそういう旨のメッセージを送信しておいた。しかし、既読は付かない。多分、取材するにあたってスマホをマナーモードにしているのだろう。とはいえ、バイブレーターぐらいは設定しているはずだから、そのうち読んでくれるか。
***
それから、私は小説の原稿を書いたり消したりをずっと繰り返していた。――お陰様で、進捗は全く進んでいない。というか、昨日見た嫌な夢をまだ引き摺っている部分がある。それだけ、私の心はボロボロに壊れているのだろうか。
あまりにも原稿が進まないので、私はワープロソフトの×ボタンをクリックして画面を閉じ、そのままダイナブックの電源をシャットダウンした。こういう時、敢えて何も考えない方が良いこともある。
それから、私は自分の顔を手で覆った。――正直言って、何かを考えることすら面倒だった。
「――死ンデシマエバイイノニ」
幻聴? ああ、とうとう私の心は壊れるところまで壊れたのか。
「――アナタナンカ、コノ世ニイラナイ人間ダモノ」
そうだよね。私なんて、この世にいらなくても良い人間だよね。
「――ダカラ、私ガ楽ニシテアゲル」
***
私の右手に、カミソリが握られている。
握ったカミソリで、左腕の静脈を切りつける。赤黒い血はどくどくと流れ出て、私の白い肌を汚していく。――人を殺す時って、こんな感じなのかな。
自分で自分を傷付けることによって、脳内からドーパミンが出てくる。それで私の心はしばらく満たされていた。
――痛い。痛い。いたいいたいイタイイタイ!
ドーパミンなんて一時的なモノなので、私の心が満たされなくなると、心臓の鼓動と同調するように自傷行為の傷が痛みだした。
痛い。苦しい。こんな私、いっそ死んでしまったほうがマシだ。
そんなことを思いながら、私は子宮の中の胎児のようにうずくまって、自分の心臓の鼓動を聴いていた。――どくん、どくん。
***
無機質な心電図の音が聴こえる。――まだ、生きているのか。私、死んだと思ったのに。
でも、私の鼻と口には酸素を送るための人工呼吸器が装着されているから、そう長くは生きられないのだろう。
「――■■■■さん?」
えっ? 誰? 私は、「廣野彩香」っていう名前であって、「■■■■」っていう名前じゃないのに。一体、どういうことなの?
私は思わず声を上げたが、看護師には聞こえていない。それどころか、「発作」と判断されたのか、私は拘束されたうえに胸部にパッドを着けられた。――その後のことは、言わなくても分かる。
私は無理やり心臓に電気ショックを与えられて、強い鼓動を感じた。心臓は大きく脈を打って、まるで飛び跳ねるようだった。強い鼓動を感じるということは、すなわち心臓発作を起こすということでもあり、私は思わず胸を押さえて苦しみ藻掻いた。
「――■■■■さん、容態が急変しました!」
ああ、私――死ぬのか。そう思うと、もうどうでも良くなった。
危篤状態を表す心電図の音を聞きながら、私はその死期を悟っていた。そして、私は――。
「――午前0時39分、■■■■さんの死亡を確認。御臨終です」
心拍が停止したことを示す心電図のエラー音が鳴り響く中で、私は――死んだらしい。
***
――ああ、夢か。
私は自傷行為に手を染めて、そのまま気を失って、そして「自分が死ぬ夢」を見た。でも、死んだのは「廣野彩香」ではなく「■■■■」という女性だったらしい。「■■■■」の部分はノイズがかかっていてよく聞こえなかったけど、私の記憶上に存在している人物なのは確かである。
それにしても、正気を取り戻すと――ひどい有り様である。私は血塗られた床をフロアクリーナーで拭き取り、シャワーを浴びて何事もなかったかのように処理した。しかし、結局のところ「自傷行為の傷痕」までは消せないので、私は浴室の中で傷痕の痛みに苦しんでいた。
それから、スマホを見ると――やはり、古谷沙織からメッセージが来ていた。
――そうは言うけどさ、流石に相馬雅美は殺害されないと思うわ。
――仮に彼女に危害が加わろうとしても、マネージャーが犯人を撃退するはずよ。
――でも、考えとしては正しいかもね。アタシも、そこまでは気付かなかったからさ。
――そうそう、明日……三宮で会おうよ。チェーン店の居酒屋で良かったら、おごるからさ。
メッセージはそこで終わっていた。ここは、彼女の要求をのむか。そう思った私は、とりあえず彼女に対して「親指を立てたキャラのスタンプ」を送信しておいた。――既読はすぐに付いたので、恐らく「脈アリ」だろう。
***
翌日。私は飲酒運転を避けるために阪急で三宮まで来ていた。――当然、完全防備の状態である。
白いフードにサングラス、そしてマスクという月光仮面のような格好をしていても、やはり気付く人には気付いてもらえるらしい。その証拠に、三宮駅の改札口を出た辺りで待っていた私の姿を見て、古谷沙織が話しかけてきた。
「――ヒロロン、こっちこっち。アタシはJRで来たからさ」
そういう彼女に若干呆れつつも、私は話す。
「どうして私の姿が分かったのよ?」
「うーん、長年の勘かしら? ――ってのは冗談で、服よ、服。ヒロロン、いつもカーキ色のフライトジャケット着てるからさ」
「ああ、これ? 一応男物だけど、気に入ってるわよ?」
私はお察しの通り女子力が低ければファッションセンスまでゼロなので、服も適当に選ぶことが多いし、どちらかと言えば男物の服を着ることが多い。その結果が、このフライトジャケットである。
とはいえ、フライトジャケットは貴重な印税で買ったモノなので大事に使っているし、我ながら物持ちは良い方である。
そんなくだらないことを思いつつ、私は話す。
「それで、私に話があるってことは――結局、宇佐山貴仁と相馬雅美は不倫してたってことなの?」
「シーッ、声が大きいわよ。――詳しいことは、そこの居酒屋で話すから」
古谷沙織は、そう言いながらチェーン店の居酒屋へと入っていった。仕方がないので、私も彼女の後ろについて行った。
***
「――そういうことなのよ」
古谷沙織は、私に事のいきさつを詳しく説明してくれた。
前提として宇佐山貴仁は既婚者であり、なおかつ子供もいる状態である。そんな中、彼は相馬雅美と密会を繰り返していたとのことだった。
「それで、これ……雑誌に載せるの?」
私は彼女になんとなく聞いてみた。彼女の答えは当然のモノである。
「もちろんよ。すでに週刊現代にも記事の掲載を取り付けてあるしさ。――まあ、アタシとしては宇佐山選手がそういう人間性でショックを受けたんだけどさ」
「沙織ちゃん、宇佐山選手のファンだったの? あなた、確か鹿島アントリオンのサポーターのはずじゃ……」
「確かに、アタシは鹿島アントリオンのサポーターよ? でも、やっぱり他のクラブの選手も日本代表に入ったら自然と目にする機会も増えるし、何より関西人であることに変わりはないじゃないの」
「それはそうだけど……なんか意外ね」
魚の突き出しと枝豆、そして唐揚げの盛り合わせを食べつつ、私は古谷沙織としばらくしょうもない話をしていた。
それから、私は「古谷沙織のおごりである」ことを良いことに色々とタッチパネルで料理をオーダーしていた。
彼女は若干呆れつつも、私がオーダーした料理に口をつけていた。
「ヒロロン、相変わらず甲殻類が好きなのね……」
「ああ、多分――私の体に流れてる日本海の血がそうさせているんでしょうね」
「アハハ、ヒロロンらしいわ」
私にせよ古谷沙織にせよ、元々阪神地区に住んでいた訳ではない。
兵庫県というのは日本列島に対して蓋をするように位置していて、瀬戸内海と日本海という2つの海に面しているのは言うまでもない。そして、私と古谷沙織の出身地は、兵庫県は兵庫県でも北部の方である。
比較的栄えている南部と違って、北部というのは――厳しい自然環境と、それ故に寂れていく街で成り立っている。故に、大体の人間は大学入学を機に兵庫北部という場所を捨てる。
そういう私も、大学入学を機に北部を捨てた人間の1人である。進学先の同命社大学が京都にあるから当然だろう。――京都市内での大学生活を夢見ていた私にとって、理工学部のキャンパスがある京田辺市は微妙に不便な場所だったのだけれど。
母親からは「たまには実家に戻ってこい」という旨のメッセージが送られてくるが、正直言ってあんなクソ田舎に戻るつもりは1ミリもない。仮に戻ることがあるとすれば、何らかの取材だろう。
古谷沙織は話す。
「まあ、アタシもあんな場所に戻るつもりはないけどね。正直、中学校のときから肩身が狭かったし」
「そう? 正直言って、沙織ちゃんがいなかったら私は中学校でも孤立してたけど?」
私はそう言うけど、彼女は――謙虚だ。
「だからこそ、アタシはヒロロンがいてくれて良かったと思ってるのよ。アタシだって、もしかしたら中学校で孤立してたかもしれないし」
「いや、沙織ちゃんはそんなことないと思う。その証拠に、人間不信だった私と違って誰とでも同等に接してたし、私よりも遥かに頭が良かった。――じゃなければ、近況報告で『関阪大学に進学した』なんて言わないし」
「えーっ? そうかなぁ? ヒロロンの同命社大学もすごいと思うけどなぁ……」
「いや、全然すごくない。確かに同命社大学は関西でも屈指の難関大学だけど、だからといって就活に失敗したらどうにもならないわよ。――あの時、講談社が拾ってくれなかったら、私はとっくの昔にこの世にいないし」
「アハハ、それで小説家としてデビューしたんだったら大したものじゃないの。――もっと自分に自信を持ちなさいよ?」
古谷沙織はそうやって言ってくれるけど、正直言って私は――「小説家」という看板を下ろそうと思っていた。今はその分岐点にいる状態である。
果たして、私はこの分岐点をどっちに進むべきなのだろうか? 仮に「仕事を続ける」という分岐に進んだらいつかは結果が付いてくるかもしれないし、「看板を下ろす」という選択肢には――ブラックホールが待ち構えている。つまり、この分岐は未知数であり、もしかしたら私は小説家ではない別の仕事を見つけて働いているかもしれないし、どうにもならなくなって自らの手でその命を絶つ可能性もある。
そんな自問自答をアルコールが回った頭の中で考えているうちに、古谷沙織は――潰れていた。彼女、相当酒癖が悪いのか。
仕方がないので、私は彼女を背負って近くのネットカフェへと連れて行った。――帰りの電車がなくなるよりはマシだろう。
***
「――うーん。あれ、ここどこ? アタシ、居酒屋に来たはずなのに、どうしてネカフェにいるのかしら?」
ネットカフェに連れて行って1時間。――古谷沙織は、ようやく目を覚ました。
若干呆れつつ、私は彼女に事情を説明した。
「沙織ちゃん、私が気付かないうちに酔いつぶれてたから、居酒屋の近くのネットカフェまで運んだのよ。――もちろん、個室のレディースルームだから安心してちょうだい」
「そ、そうなのね……。アタシ、あまりお酒飲まないほうが良いのかしら?」
「何事もやりすぎは良くないと思う……」
一応、彼女のために酔い醒ましとしてドリンクバーでコーヒーを淹れていたが……1時間も経ったらすっかりぬるくなってしまった。
ぬるくなったコーヒーを飲みながら、彼女は話す。
「それで、アンタ――何調べてたのよ?」
どうやら、パソコンの画面が気になるらしい。
「これ? ネットに載ってた宇佐山貴仁と相馬雅美の不倫報道だけど……それがどうしたの?」
「いや、別に? ――そういえば、彼……不倫疑惑が報じられてから試合に出てないわね」
「言われてみれば……」
試しに、この週末のガッツ大阪の試合結果をパソコンに表示させる。――確かに、宇佐山貴仁はサブメンバーにも入っていなかった。ガッツ大阪の対戦相手は横浜Fマリンズだったが、やはりエースストライカーを欠いていたこともあって0対2でガッツ大阪が負けている。
試合のフォーメーション表を見ながら、古谷沙織は悪い顔をする。
「やっぱり、臭うわね……。まあ、アタシも今回の件に関する決定的な証拠を掴んだ訳なんだけど。これ、週刊現代に載せたら売上はうなぎ登りだわね」
「そ、そうかもしれないわね……」
ちなみに、この節の川崎フロンアーレは昇格組であるマジアーノ岡山相手に5対1で圧勝していた。――いくら何でも、限度はあると思う。
それから、結局私と古谷沙織はネットカフェで夜を明かすことにした。――どうせ、終電もない状態だったし。
***
翌日。――私がその意識を覚醒させたのは、スマホのアラームではなく古谷沙織のいびきと寝言だった。うるさい。
結局居酒屋代は私が支払うことになってしまったので、ネットカフェ代ぐらいは彼女に支払ってもらうつもりでいたが、夜間料金を考えたらかなりの請求額を覚悟しておかなければならない。私はモーニングサービスのパンをかじりながらそう思っていた。
ふと、パソコンの画面を見ると色々な速報が入っている。
日本人大リーガーがホームランを打ったとか、ヨーロッパでは無差別テロが発生したとか、そういう速報ばかりが目に入っていたが……あれ?
私は、嫌な予感を覚えながらあるニュース速報の記事をクリックした。
***
【速報 兵庫県西宮市で下腹部が切り裂かれた遺体が見つかる 一連の事件と同一犯か 神戸新報】
202×年3月17日未明、兵庫県西宮市のJRさくら夙川駅付近で女性の遺体が放置されているのを近隣の住民が発見した。
兵庫県警によると、遺体の身元は市内に住む竹本潤(27)という女性であり、下腹部を切り裂かれた状態で発見された。
西宮市内では同様の手口による事件が今までに2件発生しており、県警では「女性の夜間外出には気をつけてほしい」との声明を出している。
***
――えっ? 今度は松本潤の見立て?
私は、そのニュース記事を読んで思わず困惑した。このまま事件現場に向かおうにも、古谷沙織が寝ている以上どうしようもない。
仕方がない、私は彼女の頬を引っ叩いた。――パチン!
「イタッ……。ああ、ヒロロンだったのね。急にどうしたのよ」
「実は……例の事件に関して、新しい遺体が見つかったらしいのよね。これを見て」
「えーっと、兵庫県西宮市で下腹部が切り裂かれた遺体が見つかる……か。どうも見ても、例の事件と同じ手口よね。被害者は竹本潤という女性で、年齢は27歳か。――分かった。今から、夙川まで向かうわよ?」
「今から夙川に向かうって……宇佐山貴仁と相馬雅美の不倫疑惑はどうするのよ?」
「アタシを何だと思ってんのよ?」
そう言って、古谷沙織はカバンからスマホとレッツノートを取り出した。――ああ、そういうことか。
「アタシの仕事も、パソコンさえあればなんとかなるのよ。流石にネカフェのWiFiを使わせてもらうのはマズいから、スマホのWiFiで記事を送信するわよ?」
そう言っているうちに、件の記事は送信が終わったらしい。――思ったよりも、早い。
「それじゃあ、夙川に行くわよ? さくら夙川駅って言ってたから、JRだわね。ヒロロンの駅は通り過ぎちゃうけど、自分で戻ったら問題ないわね」
「そうね。芦屋とさくら夙川って、1駅しかないし」
そういう訳で、私は芦屋を通り過ぎたうえでさくら夙川駅へと向かうことにした。
***
さくら夙川駅というのは、JRの神戸線で2番目に新しい駅である。故に周辺は何もなく、あるとすれば――駅ビルが1つ2つと言ったところである。これは阪急の夙川駅も対して変わらないが、あちらは甲陽園へ向かう分岐点として重要な駅になっている。
改札口を抜けたフェーズですでに物々しい雰囲気に包まれていて、駐車場には兵庫県警のパトカーが複数停まっていた。
私と古谷沙織は規制線をくぐって事件現場へと入っていく。事件現場には、当然のように善太郎がいた。
「ここは部外者以外立入禁止……あっ、沙織ちゃんと彩香ちゃんか。ということは、例のニュース速報は見たんだな」
「もちろんです。――善太郎さん、やっぱり私の言った通りになりましたね」
「ああ、そうだな。一宮和子からの桜井祥子、そして竹本潤――言うまでもなく、これは『嵐』の見立てだ。しかし、本当にそれだけなんだろうか?」
「善くん、どういうことなのよ?」
古谷沙織の質問に対して、善太郎が答えていく。
「実は――遺体の横に、ピコピコハンマーが置いてあったんだ」
「ピコピコハンマー? あの、『叩いて被ってジャンケンポン』で使うハンマー?」
「その通りだ」
遺体の横に、ピコピコハンマー? 一体、犯人はどういう目的があってそんなことを……。
普通のハンマーなら凶器として使えると思うけど、ピコピコハンマーはあくまでもおもちゃだし、凶器として使えるはずがない。仮に凶器として使おうものなら、鼻で笑われるのがオチだ。
私はそんなことを考えつつ、2人の話に入った。
「うーん、普通のハンマーならまだしも、どうしてピコピコハンマーなんでしょうか? ピコピコハンマーで人は殺せないはずですが……」
「ああ、彩香ちゃんもそこに目をつけたか。――うーん、分からないなぁ。犯人は我々兵庫県警を挑発しているんだろうけど、それにしてはやり方が幼稚だ」
「そうですよね。笹にアコースティックギター、そしてピコピコハンマー……。犯人がどういう目的で遺体の横にそんなモノを置いたのか、私にも分かりません」
私がそんなことを話すと、部下と思しき女性の刑事が善太郎に話しかけてきた。
「田辺刑事、少しよろしいでしょうか」
「京極君、どうしたんだ?」
「実は、鑑識が竹本さんのスマホのデータを復元したんですけど、データの中にこんなモノが……」
「これが本当だとすれば、犯人は――」
私は気まずいと思いつつ、刑事さんの話に割って入った。
「何か、手がかりでも掴めたんでしょうか?」
「だ、誰なんですか? この女性。勝手に事件現場に入って来て、色々と物色していますが……」
「ああ、京極君には紹介していなかったな。――彼女は、小説家の廣野彩香だ。訳あってこの事件を追っている、いわば探偵みたいな存在だ」
「探偵を雇うなんて、田辺刑事も頭がおかしくなっちゃったんでしょうか? 確かに、この事件は混迷を極めていますが……」
「まあ、そう言わずに……」
やはり、気まずいのか。――私は空気を読んだ。
「いや、私はそういうつもりでこの事件を追っている訳じゃないんですけど……」
なんとか言い逃れをしようと思ったが、どうやら善太郎は私に部下のことを紹介したかったらしい。――彼女、善太郎から「京極君」って呼ばれてたな。
「コホン。――ああ、紹介するよ。彼女は京極仁美だ。兵庫県警捜査一課の刑事で、言うまでもなく僕の部下だ」
きょうごく……ひとみ……? そんな「遅刻しそうな2人の推しがパンをくわえて出会い頭にぶつかったような名前」がこの世に存在するのだろうか?
京極仁美は話す。
「えっと、あなたが廣野彩香さん? 確かに、田辺刑事が紹介してくれた通り、私は京極仁美よ。田辺刑事は先輩というか上司で、厳しくも優しいのよ。――廣野さん、よろしく」
私は持ち前の対人恐怖症を発症しつつ、彼女と握手した。
「そんな、怖がらなくていいのよ? 私だって、あなたのことを怖がってるつもりはないし」
「そうですか……」
結果として、京極仁美との出会いが私の心の奥底に深く関わるようになるのだけど、今はまだ、その時じゃない。――だって、事件自体が解決していないし。