5.愚者の夢亭
外はもう夕暮れの時刻を過ぎており、ゆっくりと夜の帳が街に降りてきていた。
ケンカして家を飛び出してきていたことから時間が気にはなっていたものの、エリスはティーナの夕食に付き合うことにした。
魔法屋アンティークがある裏路地からいくつか路地を曲がった場所に、目的地の食堂はあった。
お店の上には、大きな文字で「安い!早い!うまい!大満足の大衆食堂 愚者の夢亭」と書かれた看板が置かれていて、食欲をそそる素晴らしい匂いが外にまで漏れ出している。
「ここ、ボクの行きつけの店だよ。おいで」
愚者の夢亭の店内は外から眺めていた以上に大勢の客で賑わっていた。大衆食堂らしく、客たちが大声で騒ぐ声が店内を飛び交っている。
このような店に入ったことのなかったエリスは、ティーナの背に隠れるようにして店内の様子をキョロキョロと伺っていた。
すると、二人の姿を確認した大柄な女性が、両手いっぱいに皿を持ったまま元気いっぱいの声で近寄ってくる。
「あっ、ティーナいらっしゃい! っと……なんだ? 今日はかわいらしいお客さんをつれてきたね!」
「聞いてくれよバレンシア。この子エリスって言うんだけど、なかなか面白いんだ」
「あーっと、いま忙しいからあとでねっ! はじめましてエリスちゃん、私はバレンシア。ここの看板娘でティーナとは幼馴染だよ。よろしくねっ!」
年の頃はエリスより少し年上であろうか。バレンシアと名乗る女性は、両手に皿を持ちながらも器用に右手を差し出してきた。
おそるおそるエリスが握り返すと、バレンシアは一瞬皿を落としそうになったものの器用にバランスを取って体勢を立て直す。素晴らしい反射神経にエリスは素直に感心した。
「そんじゃ、いつものところに行っといて。あとで行くからさ」
「はいはい。エリス、こっちにおいで」
ティーナに声をかけられ、二人はお店の一番奥のテーブルに座った。テーブルには手彫りで「ティーナ専用」と彫られていた。
「ここだよ。ボク専用の席なんだ」
「……。(人の店になにやってるんだか、この人は)」
しばらくすると、バレンシアがいくつかの料理と飲み物を運んできた。
メニューはばらばらであったけれども、どれも圧倒的なボリュームの食欲をそそる素晴らしい料理だった。
表面がカリカリになるまで焼かれ切り口から肉汁がたっぷりとあふれている豚肉や、具が入りすぎて麺とどちらがメインなのかわからなくなってしまった魚介類のパスタなどは、初めての場所に緊張するエリスの食欲をも十二分に刺激した。
「さて、頂こうかね。お代は気にしなくていいよ」
ティーナは手を合わせると、一気に食事を貪り始めた。
そのスピードたるや、恐るべし。エリスはフォークを近づけることすらできない。
……というより、エリスが食べようとすると、先んじてティーナがフォークとナイフを突き刺すのだ。
(いったいこの細い身体のどこに食べたものが入ってるんだろう……)
エリスは早々に食べることを諦めて、美少女が食事を貪る様子を眺めることにした。あれだけあった食事は猛烈なスピードでティーナの口に収まっていく。
「す、すごい勢いですね?」
「ああ?……むぐむぐ、魔法を使うとさ、たくさんエネルギーを消費するんだよ。もぐもぐ……いくら食べても足りないくらいさ」
「へ、へぇ……そうなんですね。(寝てるところしか見てないけど、いつ魔法を使ったんだろう……)」
エリスが抱いた疑問を口にすることなく、半分近くの皿が空になったころ、ようやくバレンシアが片手にビールを持ってやってきた。
「ごめんごめん、遅くなっちゃって! えーっと、いまさらだけどエリスって呼んでも良いかな?」
親しげな笑顔を浮かべながら話しかけてくるバレンシアは、真っ赤な髪の毛をショートカットにしたボーイッシュな印象の女性だった。
どうやらお店の状態も一段落したようで、エプロンも解いでくつろいだ格好になっている。
非常に均整の取れたスタイルで、ティーナのような浮世離れした美貌ではないのだけれど、ばっちり長いまつげでウインクする様は同性のエリスでさえ思わずどきりとした。
もっとも、真横で手当たり次第に食べ物を食い散らかす女性に、大人の魅力を感じろと言うほうが難しいのかもしれないが。
「バレンシアさん、こんばんわ。はい、エリスでかまいません。それよりもごめんなさい、急にお邪魔してしまって……」
「あぁ、いいのよ気にしないで。それとあたしのことはバレンシアでいいよ。ちなみにご飯を食べているときのティーナはほっといていいからね、どうせ何言ったって聞こえてやしないんだから」
バレンシアはくすくすと笑うと、手に持ったビールのジョッキを一気に傾けた。ティーナはまったく二人の話を聞いてないらしく、いまだに一心不乱に食事を続けている。
「ところで、エリスはどうしてまたティーナとここに来たの? この子、こう見えても友達ぜんぜんいないのよ。だから、あなたみたいなお嬢様っぽい子が一緒にいるってことが、あたしは不思議でさ」
「ぢょっど!だれがどもだぢいないだよ!!ぞれよりもぎいでよばでんじあ……むぐむぐ」
「ちょ、汚い!あんたは食い終わってから喋りなさい!」
ティーナは口の中のものを飲み物と一緒に一気に胃の中に流し込むと、大笑いしながらバレンシアにこれまでの事情を説明し始めた。
はじめは神妙に聞いていたバレンシアだったが、次第に呆れ、困った顔になり、最後には大笑いしてしまった。
(改めて言葉にして自分の今日の行動を聞くと、なんだかものすごく恥ずかしい……)
ほんとうにバカな行動をしたものだと、恥ずかしさのあまりバレンシアの顔を見ることができず、エリスは下を向いてしまう。
「エリス、あんたちょっとやばいよ!いくら欲しいものがあったからって、そりゃないんじゃないの?」
「だろう?だからあまりに可笑しくてさ、ついここに連れてきちゃったんだよ」
ティーナも、バレンシアから手渡されたビールをぐびぐびと飲んでいる。ちなみにバレンシアが五杯目、ティーナが三杯目だ。
(もう私のことはほっといてください……)
二人の酔っ払いに絡まれながら、エリスはほとほと困り果てていた。
「しかも、よりによってあんたのお店で仕事だなんて……それだったらうちでウェイトレスしたほうがはるかにマシだわ」
「何言ってんだか。こんな寂れた場末の酒場で働いたら、キミみたいに色気だけしか残らなくなるだろう?」
「なぁんですって?」
「あ……あのぉ……」
エリスは恐る恐る二人に声をかけた。酒に酔った二人の視線が、エリスにぶつかる。
「「なぁに?エリス!」」
「うっ……あの、えっと、私そろそろ家に帰らないと、その……たぶん両親も心配しているので」
「あ、そっか、あなた貴族のお嬢様だものね」
「あの、それで……私は明日からどうすればいいのでしょうか?」
「え? ……あぁ、アルバイトの話ね」
(この人、ぜったいアルバイトのこと忘れてたな……)
ティーナのとぼけた様子に、エリスは冷たい目線を向ける。
「ねぇティーナ、あんた本当に雇う気なの?」
「うーん、まぁそのつもりだけど?」
「あんたねぇ……適当なことを言って無責任なことしちゃダメだからね」
あきれるバレンシアを無視して、ティーナはエリスを見つめた。
酔っているからか、少し赤みがさしているものの圧倒的な美貌と神秘的な瞳に見つめられ、エリスはちょっとどきどきしてしまう。
「それじゃあエリス。とりあえず七日間キミの様子を見ることにする。それでキミが十分働けると思ったら、ボクはキミを雇おう。この条件でどう?」
「は、はい! それで良いです! よろしくおねがいします!」
エリスは勢いそのままに立ち上がると、大げさに頭を下げた。
「エリスちゃぁーん、がんばれぇ!もうお姉さん応援しちゃうからねーっ!」
「うわあ!」
バレンシアが感極まったかのようにエリスに抱きついてきた。大きな胸に抱きしめられ、驚くと同時に戸惑ってしまう。
「あ、あの、ちょっとバレンシア……!?(というか、胸に押し潰されて息苦しいんですけど!?)」
「あーあ、バレンシアは酒乱でね、酔うとすぐに抱きつくんだよ。とりあえずがんばってくれ」
「え、ええっ?そんな……。(てか、二人とも酒臭っ!)」
「エリスちゃーん、がんばれよぉお!」
思いっきり酔っ払いの女性に抱きつかれる。
これが、エリスにとっていろいろなことが山ほど起こった今日という日の、最後の「生まれてはじめて」の出来事だった。
エリスはようやくバレンシアを引き離し、ティーナに別れの挨拶を済ますと、家路へと急いでいった。
外は既に真っ暗になっていたが、エリスの心は──明日から始まる、今まで想像もつかなかった生活を思い描いて、春の日差しよりも晴れやかになっていた。
ここまでが第一章となります!