50.エリスの答え
エリスはティーナの演説に、胸を強く打たれた。
言っていることは非常に厳しい。
だけどこれは、ティーナなりの不器用な思いやりだ。
前に進むことができない自分を後押しするための、叱咤激励だ。
ティーナが自分を想う気持ちが、痛いほど伝わってくる。
だからエリスは冷静に戻ることができた。
「ティーナ……」
「さぁエリス、決めてくれ」
ティーナは右手を前に差し出した。
彼女の右手には、先ほどエリスが投げつけた「ラピュラスの魔鍵」があった。
エリスは意を決すると、鍵を受け取るためにゆっくりと立ち上がり──そこで、動きが止まった。
エリスは悩んでいた。
どうしても答えが出せなかった。
ティーナは二者択一だと言った。
ひとつは、本当の両親のことや魔力を持つことなど忘れて、封印されたままでインディジュナス家の娘としてこのまま生きていく道。
もうひとつは、魔力を開放して魔法使いになる代わりに、インディジュナス家とは完全に縁を切る道。
だがティーナは、明確に前者を推奨していた。
両親のもとに居なさい、と。
過酷な──魔法使いの道には来るなと。
両親の愛。
それがどんなに貴重で、どんなに素晴らしいものか、いまのエリスにはよくわかっていた。
たとえ血の繋がりがなかったとしても関係ない。
物心ついたときから、厳格なボルトンと、優しいシャンテに育てられた。
どんなに悪いことをしても、いつも笑って許してくれた母。
どんなに悩んでいるときも、力強く後ろを押してくれた父。
血の繋がりが無いことを突如突き付けられ、動転してしまったエリスであったが、冷静になった今なら確信を持って言えた。
二人は──まぎれもない自分の大切な存在であると。
だが両親を選ぶことは、自身の持つ可能性と決別することを意味していた。
正直、自分の「血の繋がった本当の親」についてはどうでもよかった。
しかし、魔力に関しては簡単には割り切れなかった。
なにせ、潜在能力は高く──ラピュラスの魔鍵があればすぐに天使になれると言われたのだから。
少し前まで、自分は何の才能もないと思っていた。
なにか魔法のような力で、自分の平凡で定められた運命から逃れたいと、ずっと願っていた。
だからこそ、自分に魔力があると言われて──簡単に手放す判断を下すのは難しかった。
しかも、天使だ。
魔法使いが憧れる存在だ。
女神のように美しいティーナと同様、自分も天使になれるのかと思うと、エリスの心は沸き立った。
……しかし、いざそれが目の前にあると、エリスはどうしても足踏みせざるを得なかった。
なぜなら、失うものがたったひとつの温もりである「両親」なのだから。
たとえ血が繋がっていないとしても、いやだからこそわかる。
他に変えるものの無い、世界でただ一つの彼女の至宝なのだから。
雨が、滝のようにエリスの顔を打ちつけた。
自分はいま、運命の分岐点にいる。
そのことだけは、はっきりとわかっていた。
ここで後悔を残すような答えを出してはいけない。
自分で考えて、答えを出さなければならない。
「エリス、あたしたちのことは気にしないで! 自分の望む道を選んで!」
バレンシアが愛情に満ちたメッセージを伝えてくる。
「大丈夫。キミの体内の魔力が暴発しないように、ボクはこれからキミのために全力を注ぐことを──約束しよう。ボクがきっと、普通の生活が送れるようにしてみせる」
ティーナの約束。
それはたぶん、すごく重い判断だということがエリスにはわかっていた。
きっと彼女は、デイズの敵討ちなどよりも優先して、自分のために尽力してくれるだろう。
そこまでの覚悟をしたうえでの約束なのだと、エリスは気付いていた。
だからこそ──エリスは安易に答えを出すことができなかった。
大切な友達の人生を踏みにじることなんて、簡単に認めるわけにはいかなかった。
「封印を解いて、普通に生きていくことはできないの?」
エリスの問いに、ティーナは沈痛な表情を浮かべて首を横に振った。
「それは……できない。キミの力は強すぎる。バレたらそれでおしまいだ」
「そう……そうだよね。元には戻れないんだよね」
エリスは両親を見つめた。
暖かく、優しい瞳で自分を見つめている。
失いたくない、存在。
私は、ずっとなにを求めていたんだろう。
私は、ずっとなにになりたかったんだろう。
エリスは、もう一度自分に問いかける。
これまでの不満や不安、これまでの生きてきたすべてを思い出した。
続けて、これからのことを思った。
自分が生きていく道を。
ティーナと出会う前だったら、ここまで悩むことはなかったかもしれない。
だが、今は違う。
素敵な出会いがあった。
数々の新たな発見があった。
望ましくない世界も垣間見た。
ずっと見失っていたことにも気付いた。
エリスは──この一ヶ月の出来事が、どれだけ自分に大きな影響を与えたのかということに改めて気付いた。
それは、どんなものにも変えがたい、貴重な──本当に大切な「宝物」だった。
エリスはこれまで手にきてきたすべてを賭けて、答えを出さなければならなかった。
中途半端な気持ちは、自分を愛してくれるすべての人々に迷惑をかけるだけだと分かっていたから。
(私は──なにを望んでいる?)
エリスは大きく息を吸った。
目の前に立ちはだかる『運命』という名の分かれ道を前にして、もう一度改めて自分の心に問いかけようとした。
そのとき──ふいに、エリスの心にひっかかるものがあった。
(……運命? 運命って、なんだろう)
運命という単語とともに浮かんできたのは、エリスの価値観を変えたあの言葉。
それは、かつてティーナがエリスに対して言い放った一言だった。
『限界がなんだよ。運命がなんだ。そんなものはくそくらえだ』
その刹那。
エリスの脳裏に──なにかが閃光のように走り抜けた。
それはきっと、今までの彼女であれば決して思いつかなかったであろう「考え」。
ティーナやバレンシアと過ごしてきた日々が導いてくれた、新しい「道」。
「そうか、そうだったんだ……」
そう、答えは簡単だった。
答えは、いつも目の前に──己の心の中にあったのだ。
天空から流れ落ちる雨の中で、エリスはついに自分の「答え」を導き出した。
見つけてしまえば、もうなにも怖いものは無かった。
エリスは自分の心にもう一度だけ問いかけた。
(……もう、迷わないよね?)
エリスは大きく息を吐いた。
己の問いに、心の中で頷く。
改めて、自分を見つめる四人に向き直った。
◇
エリスはゆっくりと顔を上げた。
彼女の顔に、もう迷いの色は無い。
「ティーナ、あなたはさっき二者択一と言ったよね? それが私の運命だって言ったよね?」
「あ、ああ。そう言ったけど」
少しうろたえた様子で答えるティーナに、エリスは指をびしっと突き出す。
「ティーナ、あなたは自分が言ったことを忘れてしまったの? あなたは以前、私に言ったよね?」
「……」
ティーナがエリスを見つめる。
エリスは誇らしげに微笑むと、胸を反らして言い放った。
「忘れたなら代わりに私が言ってあげる。あなたはこう言ったんだよ! 『運命なんて、くそくらえだ!』ってね!」
ぶっとバレンシアが噴き出した。
その様子を横目で見ながら、エリスは言葉を続ける。
「そしてこうも言ったよね? 『運命を変えるのは、持って生まれた才能や力なんかじゃない。最初の一歩を踏み出す勇気なんだ』って。だから、私は最初の一歩を踏み出す。私の──運命を変えるために!」
エリスはゆっくりとその足を前に踏み出した。
一歩、二歩。
豪雨でできた水溜りに、雨の雫とエリスの足が小さな波紋を広げていく。
その歩みは決して迷うことなく、ひとつの方向に向かっていた。
エリスが歩を進める先には、彼女をずっと見守ってくれていた最愛の両親──ボルトンとシャンテの姿があった。
「エリス……」
ボルトンは目に涙を浮かべながら、震える手をエリスに差し出す。
しかし、エリスがその手を握り締めることはなかった。
「お父さん、お母さん」
「……エリス?」
エリスの顔に、もう苦悩の色はなかった。
そこにあるのは、晴れ晴れとした笑顔だけだった。
「私、お父さんとお母さんの娘で幸せでした。血の繋がらない私を、こんなにもたくさんの愛情で育ててくれて、感謝の気持ちしか浮かんでこない。今まで生きてきた十四年──もうすぐ十五年だけど、本当に二人の娘で良かったと思っています。そして、それはこれからもずっと変わらない。これが、私の心からの素直な気持ちです」
エリスは一度だけ下を向いた。
涙が零れて止まらなくなってしまったからだ。
大粒の雨が涙をいっしょに洗い流して、大地にゆっくりと溶けこんでいった。
「だけど、私は自分の可能性を知りたい! 自分がどこまでいけるのかを、確かめたい! 一度だけしかない人生を、あきらめたくない。だから──」
エリスは涙をぬぐった。
そして、もう一度取り戻した精一杯の笑顔で両親に宣言する。
「だから私、『魔法使い』になります!!」
エリスの強い意志を込めた言葉に──。
ボルトンは震えた。
シャンテは口元を抑えた。
バレンシアは驚きのあまり口を大きく開けた。
そしてなりより、一番動揺していたのは──ティーナだった。
「ば、ばかエリス!なにを言って──」
必死に制しようとするティーナを、エリスは首を振ることで遮った。
「私は──『魔法使い』になる! その結果、私はインディジュナス家を出る必要があるんだよね? だけど、私が二人の娘であった事実は変わるの? ううん、変わらないよ! たとえ血がつながってなかったとしても、私の両親はこのふたり以外にありえないんだからっ!」
迷いなく言い放つエリスの言葉は、激しい雨の中でも打ち消されることはない。
「だから私は択ぶ。第三の道をね! 私は魔法使いになる。家名も捨てることになるかもしれない。だけどね、私の心は自由だよ! だから私は、心の中でふたりをずっと両親として想い続ける!」
たとえ雷鳴が鳴り轟いても、エリスの想いは微塵も揺らぐことはない。
「血のつながり? 家名を捨てる? そんなもの関係ない! 私は乗り越えてみせる! そんな──どちらか一方しか選べない運命なんて、くそくらえだーっ!!」
雨降りしきる中庭に、エリスの声が響き渡った。
それが、エリスが出した答えだった。
「お父さん、お母さん、いままで私を育ててくれて本当にありがとう。例えあなたがたを親と呼べなくなったとしても、他に本当の親がいたとしても、ふたりが私にとって唯一の──本当の『両親』です。それはこれからも、ずっと変わりません」
「エリス……!」
シャンテが堪えきれなくなって大粒の涙を零した。
ボルトンがその肩をやさしく抱きしめ、妻に代わり言葉を続けた。
「エリス、お前が決めたのならわしらはもう反対しない。それに、お前がそう答えることはなんとなく分かっていたような気がするよ。なにせ、お前はわしらの本当の『娘』だからな」
「……お父さん! お母さん!」
エリスは堪らなくなって二人に抱きついた。
決して親子として過ごしてきた日々が無くなるわけではない。
エリスの言うとおり、名目上の親子としての関係が終わるだけだとしても、どうしても離れたくはなかった。
エリスにとって、幸せがいっぱい詰まったぬくもりだったから。
「ごめんなさい、親不孝で。ごめんなさい、家から離れることになってしまって。インディジュナス家も、私のせいで……」
「そんなことはどうでもいいんだよ。お前のためだったら、こんな家名惜しくない。それよりもわしらは、お前が健康になることのほうが嬉しいよ。なぁ、シャンテ?」
「はい。私たちは、ずっと願っていたのよ。あなたの病気が良くなるようにってね。だからもう気にしないで。これは私たちの望みでもあるのだから」
「ありがとう。本当に、ありがとう……」
血の繋がらない親と子が、本当の親子以上に固い絆に結ばれてゆく場面を、ティーナとバレンシアは雨に打たれながらずっと見続けていた。
バレンシアはぼろぼろと涙を流していた。
ティーナは目の前の光景を目に焼き付けるかのように、じっと見つめていた。
やがてティーナはぽつりと独り言をつぶやく。
「運命に振り回されていたのは、ボクのほうだったかもしれないね。エリス、ボクはキミの決断を──心の底から尊敬するよ」
しばらくして、エリスはゆっくりと両親から離れると、ティーナの前に歩み寄ってくる。
「本当にいいんだね?」
ティーナの問いに、エリスははっきりとした声で答えた。
「うん。もう──後悔はしない」
「決して戻れない道だよ? ボクを見てて分かると思うけど、楽な道じゃないよ?」
「わかってる。でも私、決めたんだ。可能性があるなら前に進みたい。本当の自分がなにものなのか、自分がどこまでできるのかを──知りたいんだ」
そこにはもう、幼い貴族の娘の面影はどこにもなかった。
自分の足で歩み出そうとする、一人の大人の女性の姿が在るだけだった。
ティーナはエリスの表情を見て覚悟を決めると、ゆっくりと頷いた。
「わかった。ボクも全力を尽くすよ」
ティーナが「ラピュラスの魔鍵」を、再度目の前に掲げた。
エリスはそれを受け取ると、ゆっくりと首から下げた。
「さぁ、いくよ! これから大仕事だ!」
ティーナが様々な思いを吹き飛ばすかのように、勢いよく大声を上げた。




