3.運命の鍵
──どれくらい時が経っただろうか。
それまで魔術書に没頭していたカウンターの少女は、ようやくエリスの異変に気づいく。
かけていた眼鏡を外し、エリスの様子をじっくりと確認する。
「お客さん、どうしたんだい?」
だがエリスには彼女の声がまったく聞こえていないようであった。何かを手に持ったまま、空ろな表情でじっと遠くを見つめている。
さすがに心配になったのか、少女はエリスの傍に立つと、手に握っているものをひょいと覗き込んだ。
エリスが手に握りしめていたのは、ひとつの「鍵」だった。
鍵を持つ部分に安物に見える宝石が一つついている以外には、なんて変哲も無いただの鍵である。
だが少女は、エリスが手に持っているものを確認すると急に目つきが鋭くなった。
さっきまでの冷たい表情はどこかに吹き飛び、真剣なまなざしをエリスに向ける。
しかしそれもほんの一瞬だけのことで、すぐに元の無表情に戻ると、今度はエリスの肩にゆっくりと手を乗せた。
「お客さん、大丈夫かい?」
「……え? あ、ごめんなさい。私……ぼーっとしてました?」
「古ぼけた鍵を手に持ったまま茫然自失するなんて、変わったお客さんだね」
美少女に笑われ、エリスは急に恥ずかしさを覚えた。
(そうだよね、私ってばどうしちゃったんだろう?)
こんな古ぼけた鍵なんかに心を奪わるなんてどうかしてる。エリスは少し顔を赤らめると、すぐに鍵を元あった場所に戻そうとする。
だが──エリスはどうしても、手に持った鍵を手放すことができなかった。
手放そうにも、指が開いてくれないのだ。
まるで身体が鍵から離れることを拒絶しているかのようだった。
しかしすぐに気づく。この鍵を手放したくないと思っているのはエリス自身だということに。
理由は分からない。いや、理由などない。
エリスはこの正体不明の鍵に、完全に心を奪われてしまっていたのだ。
「あの……すみません。この鍵はどういうものなんですか?もしかして魔道具かなにかですか?」
「さぁ? どこかの家の鍵じゃないかな。あるいは宝箱の鍵かもしれない。だけど……いずれにせよ鍵は鍵さ。キミはそんな変なものが欲しいのかい?」
冷たい目をしたままの美少女にくすりと笑われ、エリスは整った眉毛をへの字に曲げる。
「そう……ですよね」
(そりゃあこんな変な鍵について聞かれたら、誰だって困るよね)
彼女の話に改めて自問自答したエリスは、手に持った鍵を元の場所に戻そうとする。
鍵は転用ができない。鍵とは特定の何かを開けるためのものであり、それ以外に使い道がない。
逆に言えば、開けるべきものがわからない鍵など、利用価値はないただのゴミだ。
(やっぱり、こんな鍵を欲しくなるなんて変だよね?)
そもそも、鍵に心を奪われるなんてどうかしている。
気の迷いに違いないとエリスは自分に言い聞かせる。
それでも──。
(……だけど、やっぱり欲しい! 手放したくなんてない!!)
エリスはなんとかしてこの鍵を手に入れたいという気持ちを、どうしても抑えることができなかった。
(もしかしたらこの『鍵』は、私を新しい人生の道へ導いてくれる『運命の鍵』なんじゃないかな?)
エリスはここに来るまで、自分の人生に疑問を抱いていた。道を外れて、どこかへ飛び出したいと願っていた。
そんなとき、この鍵に出会った。
他人の目から見てどんなガラクタであったとしても、本人にとっては心から大切な宝物になることだってある。
この鍵がまさに、自分にとってのそういうもののように思えた。
次の瞬間には、エリスはこの鍵を買う決心を固めていた。
同じように無造作に置かれた他の鍵ではなく、この古ぼけた鍵がどうしても欲しかったのだ。
「あの……すみません、これ、いくらですか?」
エリスの問いかけに、少女は驚いたような表情を浮かべる。
「……どうしてそんなモノが欲しいんだい?」
「それが、よくわからないんです。強いて言えば、どうしても欲しくなったというか、なんと言うか……」
「面白いことを言うんだね、キミは」
少女はエリスの手から鍵を取り返すと、宙に放り投げた。鍵は何回か回転して、再び少女の手の中に収まる。
「これ、すごく高いよ?」
「えっ?」
不思議なことに、他の商品にはほとんど値札がついているにもかかわらず、この「鍵」には値札がついていなかった。そのことをエリスは不思議には思っていたが、まさか真正面から高いと言われるとは思ってもいなかった。
少女に揶揄われているのだろうか。エリスの脳裏に一瞬不安がよぎる。
念のため財布の中身を確認してみると、現在3万エルほど持っていた。これまでのお小遣いを貯めたなけなしの所持金である。
それなりの所持金に後押しされ、エリスは恐る恐る金額を尋ねてみる。
「これ……おいくらですか?」
「そうだねぇ、100万エルってところかな?」
「はぁ、そうですか……って、ええええええええぇっ!100万エル?!」
100万エルとはとんでもない大金である。
もちろんエリスは持ち合わせてはいなかったし、たとえ持っていたとしても簡単に買える金額ではなかった。実際、この店にあるどの商品より高価だ。
なにより、そんな高価なものが他のガラクタと一緒に無造作に置かれていることが、エリスには信じられなかった。
(もしかして、ふっかけられてるのかな?)
不安に思ったエリスは、とりあえず確認を取る。
「えーっと、それって、冗談……ですよね?」
だが少女はやんわりと首を横に振る。どうやら本気であるらしい。
「それで、どうするの? 買っていく? それとも諦めて帰る?」
もしかして彼女は、自分のような貴族を嫌っていて嫌がらせをしているのだろうか。
ありえない金額をふっかけて、困らせて、けんもほろろに追い返す。実にありそうだ。
だがエリスはすぐに思い直す。
もし自分なら、払えそうな額をふっかけて頭の軽そうな貴族のお嬢さんのお小遣いを巻き上げようとするだろう。
そもそもエリスには、この美少女が嘘をついているようには感じられなかった。
なによりエリスは、この「鍵」に魅せられていた。
今の自分を解放するための「象徴」とも言うべき「鍵」を、心の底から欲しいと思っていた。
たとえどんなことをしてでも、手に入れなければいけないと感じていた。
だからエリスは──自分でも信じられないような行動に出てしまう。
「これ……私に、ください!」
「えっ!?」
今度は、目の前の美少女が驚く番だった。
「……キ、キミは正気かい?」
魔法屋の少女はそう呟くと、あっけにとられたかのように口をあんぐりと開けていた。一方、言ってしまったエリスはエリスで、完全にテンパってしまっていた。
(どうしよう、買うって言っちゃった!)
我ながら正気の沙汰とは思えない。エリスは完全に己の行動を持て余していた。
だが、それでも欲しかった。なにがなんでもあの鍵を欲しいと思っていた。
彼女の人生の中で、こんなにもなにかを熱烈に求めたことはなかった。
「……それで、今すぐ100万エル支払ってくれるわけ?」
おもむろに両手が前に差し出され、エリスはうっと呻きながら一歩身を引いてしまう。
「ご、ごめんなさい……今は、持っていません」
「へぇ、じゃあおうちに帰ってお父さんお母さんに出してもらうのかな?」
少女の声の温度が急激に下がるのをエリスは感じた。
金持ちの道楽とでも思われたのだろうか。だがエリスは、一歩も引かない。
「いえ。たとえ家に帰ってもそんなお金はありませんし、なにより親に頼る気は……ありません」
エリスは、この鍵だけはどうしても自分の力で手に入れたいと思っていた。理屈では説明できない何かが、エリスを心強く後押しする。
(どうしよう。なにか良い手はないかな? 良い方法……今持ってないなら……稼げばいい?)
そのとき、エリスの脳裏に──まるで天啓のようにあるアイディアが閃いた。
エリスが考えたその解決策は、普段のエリスではけっして思いつかないようなもの。
だが現金も何も持たない今の彼女には、唯一無二の解決策のように思えた。
「じゃあどうやってお金を払うつもり?」
呆れたように言う美少女に、エリスは決意のまなざしを向けた。
「働いて……払います」
「はあ?」
美少女は、びっくりした表情を浮かべてエリスをまじまじと見つめる。
「キミみたいな貴族のお嬢さんが、どこでどうやって働くって言うの?」
少女の瞳からは蔑みの色が消え、変わって好奇の色が表に出てくる。どうやら次にエリスがどんな反応を示すか興味が湧いてきたようだ。
だが続くエリスの言葉は、この少女の想像を遥かに飛び越えていた。
「あのー、私を……ここで働かせてもらえませんか?」
「…………えっ?」
ちりーん。
魔法屋の少女は、手にした「100万エルの鍵」を思わず床に落としてしまう。
「……キミ、本当に正気なのかい?」
「はい、アルバイトさせてください!!一生懸命働きますから!!」
もはやエリスに他の手立てはなかった。何がなんでも受け入れてもらう必要があった。
だから必死に頼み込んだ。
両手を胸の前で組み、まるで祈るかのような姿勢を彼女に見せると、全身全霊をもってお願いする。
「お願いします! なんでもしますから雇ってください!」
(毒キノコみたいとか思ってごめんなさい。汚すぎて引いたりしてごめんなさい! でもこの「鍵」がどうしても欲しいんです! だから──)
エリスの一気呵成のアピールに、気が付くと美少女は下を向きぷるぷると震えている。
やがて緊張の糸が切れてしまったのか、美少女は大笑いをしはじめた。
どうやらエリスの言動は、完全にこの美少女のつぼにはまったらしい。
彼女の笑いはしばらく収まることなく、しまいには涙まで流して笑っていた。
「ちょ……ちょっと! 私、真剣にお願いしてるんですけどっ!」
さすがに恥ずかしくなって真っ赤になって文句を言うと、魔法屋の美少女は腹を抱えながら「ゴメンゴメン」と言うと、床に落ちた鍵を拾い上げてエリスに向き直る。
「ボクはてっきり、『身体で払います!』とか言ってくるのかと思ってたよ」
「そ、そんなことしませんからっ!!」
顔を真っ赤にして反論するエリスに、少女は「あはは」と笑いながら肩を叩く。
「キミ、本当に面白いね。わかったわかった、とりあえず話をしようじゃないか」
「は、はぁ……」
「ボクの名前はティーナ・カリスマティック。一応ここ『アンティーク』の店長だ。もっとも、店長と言っても店にはボクしかいないけどね。それで、キミの名前は?」
「あ、エリスです。エリス・パルメキア・インディジュナスと言います。ティーナさん?」
「ティーナでいいさ。そのかわりボクもエリスって呼ぶよ?」
ティーナはこれまで瞳に湛えていた冷たい光をどこかに追いやると、にこやかな笑みを浮かべてエリスに右手を差し出してきた。
まるで雲間から差し込む光のような眩しさを覚え、エリスは思わず目を細めてしまう。
(あぁ、なんて綺麗な笑顔なんだろう)
ティーナと名乗った美少女の笑顔に見惚れながら、恐る恐る右手を握り締める。
「は、はい。よろしくお願いします、ティーナ」
握りしめた手に伝わってくるティーナの肌の感触は、見た目以上にきめ細やかでスベスベだった。
エリスは──自分の運命の歯車が音を立てて動き出したのを感じたのだった。