27.天使の歌
「さて、と。どう料理しようかな?」
白金色に輝く天使ティーナが、余裕の笑みを浮かべて草食竜に語りかける。
神々しいまでの彼女の姿は、エリスがこれまで夢にまで見た天使の姿そのものだった。
ティーナが右手を軽く空に上げると、白銀色の羽が舞い散った。
同時に強烈な風が吹きつけ、草食竜の巨体を揺らす。
たったそれだけのことで、魔獣は身動きが取れなくなってしまった。
魔獣は怒りの咆哮を上げ、その鋭い爪をティーナに叩きつけようとする。ティーナは翼をはためかせ、空中に飛び上がることで回避した。
ふわりと宙に浮かぶティーナは、まるで空という名の舞台で舞っているかのようだった。
天使ティーナによる異次元の戦いの様子を、エリスは食い入るように見入っていた。
本当に、自分の目の前の光景が信じられなかった。
夢の中にいるようで、それでいて音や衝撃はリアルに伝わってくる。
目の前で行われていることは、間違いなく現実だった。
「す、すごい……」
エリスは、ただそれだけを呟いた。
彼女の反応に気を良くしたのか、ティーナはゆっくりと舞い降りてきながら話しかける。
「エリス、せっかくだから教えてあげよう。『天使』にはその個性とも言える『固有能力』が存在するっていうのは、この前教えたよね?」
ティーナのよく通る声に、エリスは頷くことで返事を返す。
「デイズおばあちゃんは『ホウキ』を具現化して空を飛ぶ力を持っていた。さて、ボクはどんな力を持っていると思う?」
今度はエリスは首を横にひねることしかできなかった。
ティーナは不敵に笑うと、両手を草食竜に向かって差し出した。
「じゃあ、見せてあげよう。答えは──これだよ!」
ティーナは目を瞑ると、続けて両手を上に掲げた。
一つ息を吸い込んだあと、声高らかに歌を歌い始める。
ティーナの翼が大きく拡がり、白銀色の羽が宙を舞った。
「『私は願う、全ての心が開かれんことを。私は望む、その扉が現れんことを──』」
「もしかして、『天使の歌』!?」
ティーナが歌い出したのは、天使だけが使うことが許された魔法、『天使の歌』だ。
この魔法は──天使となった存在が文字通り「歌う」ことで発動し、他に類を見ない固有能力として具現化され、力を発揮する。
その様子は人々に語り継がれるほど神秘的で、数多くの演劇やオペラで歌う様子が再現されるほどである。
ティーナの歌声は、本当に美しかった。
エリスがこれまで聴いてきたどんな声よりも、透き通って綺麗だった。
心が綺麗に洗われるような美しいティーナの「歌声」に、我を忘れて耳を傾ける。
「今は閉ざされし神秘なる『扉』よ。我の前に姿をあらわし、その姿を形作る時が来た」
ティーナは両手をゆっくりと振り下ろし、空中に大きな四角を描いた。
手の軌跡を辿るように残った光の残滓が、まるで大きな「扉」のような形をその場に留める。
魔法を発動させるティーナに隙ありと見たのか、草食竜が一気に駆け出した。
「ティーナ!」
大声で吠えながらティーナに迫る魔獣の姿に、エリスは思わず悲鳴に近い声を上げる。
だがティーナは唇の端をつりあげてニヤリと笑うと、今度は再度両手を草食竜に向かって突き出した。
目の前に出現した『光の扉』が草食竜に向かって飛んでいき──その巨体の目の前で止まる。
「それは天界へ導く道。今ここに現れ、そしてその扉を開け放て! 悪しき心を浄化するために!」
前に突き出した両手を一気に左右に広げた。
次の瞬間、草食竜の目の前にあった「光の扉」が具現化し──本当の「扉」となった。
現れたのは、大理石で造られたような荘厳な白い扉だった。
古代の名工の手によるもののような彫刻が施された扉は、まるで草食竜を受け入れるかのようにゆっくりと左右に開きはじめる。
「──発動せよ! 『天国への扉』!」
魔法の発動と同時に、草食竜の巨体が──目が眩むような強烈な光を発する「扉」の中に、勢いそのままに吸い込まれた。
全てを吸収したあと、白い大理石の扉は勢いよくバタンと閉じられる。
あの草食竜の巨体が、突如現れた扉に一瞬で吸い込まれてしまった。
驚くエリスの前で続けて繰り広げられたのは、さらに信じられないような光景だった。
一瞬の空白のあと、なんと──扉の反対側からぽんっと勢いよ草食竜飛び出してきたのだ。
だが一見したところ、草食竜にはなんの変化もない。
「え……失敗?」
エリスは思わず魔法の効果を疑ってしまう。
だがティーナは何ら警戒する様子もなく、無造作に草食竜へと近づいていく。
魔獣の巨体の前に立つティーナ。草食竜がその長い首を持ち上げる。
このままでは噛まれてしまう!?
恐ろしい状況を予想して、エリスが思わず目を瞑りそうになる。
だが目の前で繰り広げられたのは──予想に反する信じ難い光景だった。
なんとティーナは──草食竜の首筋を撫でたのだ。
優しげに、愛おしむように。
一方されている側の草食竜も大人しいもので──両目には既に狂気の色は無く、野生を生きる王者の光だけが宿っていた。
「信じられない……」
呆然とつぶやくエリスに、バレンシアが安心させるように肩を撫でてきた。
「ティーナの固有魔法『天国への扉』はね、精神を浄化させる作用を持つ強力な『天使の歌』なんだ。あたしも何度か見たことはあるけど、こんな強大な魔獣に効くとは思わなかったわ」
「ヘヴンズ……ドアー? 天国への扉、ですか?」
「そう。文字通り悪の心を天国へと昇華させる、ティーナらしい『天使の歌』だよ」
2人が会話している間にも、ティーナと草食竜の様子に変化が現れた。
「草食竜。キミはボクの『歌』によって魔獣としての誇りを取り戻した。だからお帰り、自分が居るべき処へ」
ティーナがやさしく草食竜の鼻先をなでると、草食竜はくるるるるっ! と咆哮した。
その声には、もはや──先ほどまでの狂ったような感情は感じられない。
草食竜は身を大きく翻すと、まるで感謝の意を表すかのように一度だけ尻尾を回転させ、そのまま自分が来た方角へと帰っていった。
ティーナはその姿を静かに見つめていた。
見えなくなるまで──ずっと。
草食竜の姿が完全に見えなくなると、ティーナはふぅと息を吐いてエリスに語りかけた。
「……ということで、正解は『扉』でした。わかったかな?」
エリスの目の前に立つティーナは、白銀色の片翼をはためかせ、まるで天から降りてきた女神のようだった。
あまりの美しさに動転しているエリスの身体を、ティーナの片翼がやさしく包み込む。
「えーっと。さっきも言ったけど、このことはナイショだからね?」
こくこくと壊れたオモチャのように頷くエリスを見て、ティーナは軽くウインクすると、右手の指輪を取り外した。
次の瞬間、ティーナの背中に具現化していた『天使の翼』が小さな光の結晶となり、ぽんっとはじけた。
辺り一面に、美しい白金色の羽根が舞い踊る。
光の粒子を放つ羽根は、ひとしきり宙を舞ったあと──やがて大気に染み込むように溶けて消えていった。
あとには──元通りの姿になったティーナと、静寂だけが残されていた。
「終わったね、ティーナ」
「うん、なんだかお腹が空いたね」
そこにいるのは、いつもどおりのティーナだった。
バレンシアは安心したようにそっとティーナの肩に手を添えた。
「あれだけ動き回ったからね。それじゃあ帰ってうちにおいでよ。超大盛りのご飯をサービスするからさ!」
「お、言ったね。それじゃあ今日は情け容赦なくご馳走になるよ」
「なーに言ってるのよ、いつも関係なく食べまくってるくせに!」
ティーナはけらけらと笑った。
だがそれもほんのすこしの間だけで、すぐに笑いを収めるとエリスのほうに向き直った。
エリスはぼけーっとした顔のまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「エリス……?」
「あ。ティーナ、ごめんなさい。私、あまりのすごさに圧倒されてしまって。ティーナって、まるで女神様の化身みたいでしたね」
エリスの言葉にブッとバレンシアが吹き出した。
「ちょっとあんた、女神様の化身だってよ……ぷぷぷ」
「う、うるさいなぁ。そんなことよりとっとと帰るよ!早くしないと日が暮れるし」
照れ隠しのためか、ティーナがわざとらしく大きな声で帰宅を宣言した。
バレンシアはそんなわざとらしい態度に忍び笑いを漏らす。
自然な態度の2人を見て、エリスはやっと夢から覚めたかのように正気を取り戻すと、あわてて2人のあとを追いかけた。
「あ、待ってください!こんなところに置いていかないで!」
こうして、三人のはじめての大冒険は、無事幕を下ろしたのだった。




