25.グラスドラゴン
魔力は人間しか持たないと思われがちだが、この世界には人間以外にも魔力を持つ生物は存在している。
魔力を持つ生き物は──魔獣と呼ばれていた。
魔獣は、一概に大きくて強かった。
普通の人の手には負えないレベルで、だ。
もはや伝説となった『龍』を筆頭に、数は少ないものの──何十種類かの魔獣が今でもこの世界に存在していた。
強大な力を持ち、国を滅ぼした伝説さえあるほどの魔獣であるが、その多くは自身の領域を侵されることさえなければ、進んで人間に危害を加えることはなかった。
そのため、魔獣の存在を恐れた近所の住人たちが、魔獣が生息している地域を『神域』と定めて隔離し、人の立ち入りを制限することで共存を図るケースなどもあった。
現在エリスたちのいる『妖魔の森』が、まさにそのケースといえた。
人々は、時には恐れ、あるいは敬いながら、かろうじて魔獣たちと共存していた。
これら魔獣のなかでも、中位の存在と言われているのが──バレンシアの父の武勇伝にも出てきた「翼竜」であり「草食竜」であった。
草原に出てきて少しキョロキョロしていた草食竜が、エリスたちのほうに顔を向けた瞬間、三人に向かって突撃してくる。
どすんどすんと腹に響く音。まるで地が揺れているかのようだ。
「ちょ、ちょっと!? あいつこっちに向かってきてない!? ヤバくない!?」
「そんなのボクに聞かれたってわかんないよ! とにかく逃げよう、あんなのまともに相手したら命がいくつあっても足りないよ」
「でも、ちょっとまずいよ! この距離だと逃げ切れないかもっ?!」
バレンシアが言う通り、草食竜は猛烈なスピードでエリスたちのすぐ近くまで迫ってきていた。
「目くらましするから、目を背けるんだ!」
ティーナがウエストバッグから何かを取り出した。
コンパクト型の火打ち石と、一枚の紙切れだ。
ティーナは紙切れを宙に放り投げると、素早く魔法式を空中に描いた。
「炸裂しろっ!『火球』!」
紙切れを触媒として、ティーナが魔法を発動させようと火打ち石を点火する。
次の瞬間、エリスの目の前にぶわっと大きな炎が広がった。
目の前が真っ白になるくらいの、強烈な熱気と光。
出来上がったのは、ごうごうと燃えさかる炎の壁だった。
「ど、どこがめくらましですか!?」
「……んー、ちょっと魔力を注ぎすぎたかな?」
「あっつい!! 前髪とまつ毛が焦げそう!」
なにげにこれが、エリスが初めて見るティーナの「魔法らしい魔法」。
威力だけ見ると、街中で披露されたら大惨事になるレベルのものだった。
「こらティーナ! あんたまた魔法失敗したでしょ! 山火事になったらどうするのよ!」
「こ、これでも失敗なんですか?」
「いや、なんというか、力加減を間違えちゃってね……」
「これが力加減を間違えたレベルですか!?」
そのまま魔獣を倒してもおかしくないと思うエリスであったが、炎の柱の向こう側からは、獣の怒り狂ったかのような唸り声が聞こえてくる。
「チッ、やっぱり魔獣にはあんまり魔法が効かないか。目くらましが良いところだな」
ティーナが舌打ちする。
「こんなのにかまってられないや、逃げよう。こっちだ、ついてきて!」
「ほらっエリス。ぼーっとしないで! 今のうちに逃げるよ!」
バレンシアが巨大な炎の柱の前で立ち尽くしているエリスの手を引くと、先に駆けだしたティーナに導かれるように──木々の生い茂った森の中に踏み込んでいった。
◇
はぁ……はぁ……はぁ……。
自分の吐き出す荒い息だけが、エリスの耳に聞こえてくる。
もうどれくらい走っただろうか。
しばらくして、先導するティーナがようやく足を止めた。
すぐ後ろに立ち止まって、ひざに手をついて荒い呼吸を整えるエリス。額に吹き出す汗をハンカチで拭う。
「着いたよ」
ティーナに言われて顔を上げると、目の前に小さな小屋があった。
ティーナが小屋のカギを開けて中に入ると、エリスたちもそのあとに続く。
「とりあえず、ここでしばらくやりすごそう」
「ハァ……ハァ……そうだね、そうしよう」
バレンシアはティーナの提案に一も二もなく頷いた。
小屋の中に入って扉を閉めた瞬間、エリスは安堵のあまりその場にぺたんと座り込んでしまう。
「もう限界です。こんなに走ったのは生まれて初めて……」
「エリス大丈夫? しかし、なんでこんなところに魔獣がいるんだよ」
「バレンシアにも想定外だったんですか?」
「そりゃそうさ! あんなのが出ると分かってたら、あんなところでのんびり昼寝とかしないよ」
確かに彼女の言う通りだとエリスは納得する。
ということは、やはり予想外の出現だったのだろう。
「でも私、魔獣なんて初めて見ました。追いつかれたら絶対に命は無いって思いましたよ」
「本当だよね、あれはあたしにも無理だわ」
「バレンシアのお父様はよく魔獣を倒せましたね」
「実物を見たら、親父が翼竜を倒したとかホラ話じゃないかって思っちゃうよ」
バレンシアの言葉に、エリスも頷く。
あれは、人の手には負えない。
災厄そのものが具現化したような姿に、今思い出しても身の毛がよだつ。
いくら草食とはいえ、あんな巨体に襲いかかられてはひとたまりもないだろう。
しかしなぜ──魔獣の中では比較的温厚と言われる草食竜が、あんなに暴れていたのか。
いずれにせよ、草食竜がどこかに退散するまでは、この小屋から出ない方が良いだろう。
人心地ついたエリスは、いま自分達が避難している小屋の様子を観察する。
長い間放置されていたのだろう。小屋に人の生活の気配を感じることはできない。
床の一部からは草まで生えているので、人の出入りもなかったようだ。
小屋の鍵をティーナが持っていたことから、ここはティーナの持ち物なのかもしれない。
そういえば、さきほどからティーナが大人しい。
一言もしゃべらず、ずっと二人に背を向けたままだ。
ティーナの異変に気づいたバレンシアが、気遣わし気に声をかける。
「ティーナ、あんた、この小屋は……」
「うん、わかってるよ……。でも背に腹は変えられないだろう?」
「そりゃそうだけど……あんた、大丈夫なの?」
バレンシアが心配そうに添えた手を、ティーナは拒絶するかのように振り払う。
バレンシアの顔に、一瞬悲しそうな表情が浮かんで消えた。
さすがに気になったエリスは、恐る恐るバレンシアに尋ねてみる。
「バレンシア、この場所は?」
「ここはね、一年前にデイズおばあさんが亡くなった場所なんだよ」
バレンシアの発言に、エリスは言葉を失う。
妖魔の森の中にある放棄されたこの小屋は──ティーナが最愛の人を失った場所だったのだ。
おそらくティーナは、祖母が亡くなってから一度もここに足を踏み入れなかったのだろう。
来れば辛く悲しい気持ちになるのがわかっていたからに違いない。
数多くの楽しかったであろう思い出と、たった一つの悲しい思い出を秘めたこの場所に、ティーナはいったいどんな思いで自分達を連れてきたのだろうか。
ティーナの気持ちを想い、エリスは胸が苦しくなる。
同時に、そんな辛い記憶がある場所に、自分の複雑な気持ちを押し殺してでも連れてきて──エリス達を守ろうとしてくれたティーナの優しさも、痛いほど伝わってきた。
「ティーナ……」
だがエリスは、ティーナにかける言葉を何一つ持ちあわせていなかった。
そんな自分に、また力の無さを痛感するエリスであった。
◇
エリスたちはしばらくの間、小屋の中で待機して様子を見ていた。
バレンシアとの会話で気を取り直したのか、ティーナはもう元の調子に戻っていた。
バレンシアも気にした風もなく会話に応じている。
こういう時の二人の関係ってすごいなとエリスは感心した。
「おかしいな、草食竜は自分の領域からめったに出てこないはずなんだけどなぁ」
「そうだよね。あたしはオヤジから、魔獣は人間が危害を加えたり不用意に領域に入らない限りは安全だと習ったんだけどねぇ」
「そうなんだよ。あんなに怒り狂った草食竜は異常だ。なにかあったとしか思えない」
ティーナが首をひねりながらあごに手を当てていろいろと考え始めた──そのとき。
ずぅぅんと大地が大きく揺れるような音が鳴り響き、小さな小屋を揺らした。
しかも、先ほどと同じような木々を打ち砕く音が徐々に近づいてくる。
「まずいっ! あの草食竜こっちに向かってきてるよ!」
小屋の窓から外を確認していたバレンシアが2人に警告を発する。
「そんなバカな、『草食竜』にそんな習性はないぞ!」
ティーナが大慌てで外に飛び出し、バレンシアとエリスが続く。
小屋の目の前には、目に狂気の色を携えた『草食竜』が佇んでいた。
「なんでうちらを追っかけてくるのよ……」
バレンシアの剣を持つ手が、小さく震えた。




