16.初めての挫折
その日の夜、エリスは眠れない一夜を過ごした。
原因は、胸の奥の痛みにあった。
エリスはその痛みから逃げるように、一心不乱でチラシを作った。
翌日──この日は朝からあいにくの空模様だった。
「それじゃ、チラシ配りに行ってきますね……」
いまにも降り出しそうな天気の中、なんと100枚近くのチラシを作ってきたエリスは、ティーナとバレンシアに力無く声をかけると、とぼとぼと歩いてチラシを配りに出かけていく。
エリスがいなくなった店内で、ティーナとバレンシアは向かい合って座っていた。
エリスが出かける前に淹れてくれた紅茶を、穏やかな様子で口にするティーナ。自分を睨みつけるバレンシアの視線に気づいて口を開く。
「……なんだい、バレンシア」
「ねぇティーナ、あの子たぶん昨日の夜ほとんど寝てないよ。そうでなきゃあれだけのチラシ作れないって。目の下にクマもできてたしさ」
バレンシアの言葉に、ティーナは特に反応を示さない。
「あんたが簡単に他人に心を許さないことは知ってるよ。だけどさぁ、はっきりしないとかわいそうだよ? ダメならダメって、はっきり言ってあげなよ」
バレンシアに諭すように話しかけられても、ティーナはやはり無言のままだった。
あまりにも態度を変えない友人の様子に、とうとうバレンシアがしびれを切らした。
「あっそ! それじゃあたしは売り場に行くよ! あんたは好きにしてなっ!」
勢い良くバレンシアが立ち去ったあと、ティーナはひとり紅茶を飲んでいた。
机の上に置いていた仮面を手で弄ぶと、無表情のまま呟く。
「……言われなくてもわかってるよ。そんなこと」
ティーナの口からこぼれ落ちた独り言が、誰もいない狭い店内に響き渡った。
◇◇◇
「『魔法屋アンティーク』の魔法薬キャンペーンです! よかったらどうぞ来てください!」
今日もエリスは街中でチラシを配っていた。
状況はあいかわらず芳しくない。
どんな手もうまくいかない。
それどころか、やればやるほど悪い方向へ行ってしまっている気がする。
正直、エリスにはもう何の作戦もなかった。なにも考えられなかった。
ポツリ、エリスの頬になにかがあたった。水滴だった。
ポツ、ポツ。とうとう雨が降ってきたのだ。
徐々に本格的に降り始める雨の中、露天の人たちは慌てて商品を撤収し始めていく。
それでもエリスは通りすがる人たちにチラシを配った。
必死だった。でも……ほとんどの人たちに受け取ってもらえなかった。
「あの、これ……」
傘を差す通行人にチラシを渡したものの、受け取ってすぐにぽいっと捨てられた。
手作りのチラシが雨に打たれ字が水で滲んでいく様子を、エリスはぼーっと見ていた。
「やっぱり私、だめなのかなぁ……」
ずっと我慢してきた一言が、彼女の口からこぼれ落ちる。
その瞬間──ずっと切れそうで、それでも耐えて張りつめていたものが一気に崩れ落ちていった。
本当は、ずっと前から気づいていた。
自分は、だめなのだ。
いろいろと考え、少しうまくいったからと調子に乗って。
しかし、現実はエリスの甘い考えを簡単に打ちのめした。
それでもエリスは──事実をどうしても受け入れられなかった。
受け入れたら、すべてが崩れてしまいそうだったから。
エリスは落ちているチラシを拾おうとして──視界が滲んでいることに気づいた。
目に雨が入ったのか。
いや違う、涙だった。
エリスの瞳から涙が溢れてくる。
泣いちゃいけないと思い、ずっと我慢してた。
本当はつらかった。
ものすごくきつかった。
だけど、自分で決めた道だから弱音だけは吐きたくなかった。
あの「鍵」だけは、自力で買うと決めたのだから。
なのに……どうして。
えらそうなことを言っておいても、現実はこうだ。
自分は口だけだ。
実際は、なんのチカラもないただの病弱な小娘なのだ。
たかだかお客様も呼ぶことの出来ない、ちっぽけな存在なのだ。
エリスは自分の唇を強くぎゅっとかみしめた。
雨がどしゃぶりになってきた。
激しく降り注ぐ雨の中、エリスは手に雨でにじんだチラシを握りしめて、下を向いたままその場に立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていただろう。
ふと気がつくと、エリスは自分に雨が降りそそいでいないことに気づいた。
いつのまにか頭上に傘が差されていたのだ。
虚ろな視線の先には──自分に傘を差すティーナの姿があった。
「ティーナ……」
「こんな雨の中でチラシ配ってたら風邪引くよ?」
ティーナは雨でぼろぼろになったチラシを手に取った。
丁寧な字とともに、かわいらしいイラストまで書かれている。
おそらくティーナ、バレンシア、エリスの三人らしきキャラクターが、魔法薬をおいしそうに飲んでいる様子を描いたものだ。
昨夜、エリスが苦肉の策で考えたアイディアだった。
こんなもので、誰も引き留めることはできないことはわかっていた。
それでもなにかしなければと、必死の想いでひねり出した策だった。
もはや策ですらない、小細工だ。
エリスは自嘲気味にそう思っていた。
真剣な眼差しでチラシを見つめるティーナ。
氷のように冷たいと思っていた彼女の視線が自分のチラシに注がれている様子を見て、エリスはなぜか目頭が熱くなるのを感じた。
大きくてつぶらな瞳から涙がぼろぼろ零れ落ちる。
「ティーナ……ごめんなさい。私、なんにもできてない……」
一度涙が出てきたら止まらない。
今まで我慢していた感情が一気にあふれてくる。
エリスはぼろぼろと、涙を流し始めた。
「自分でお金を稼ぐって、自分でお客様を連れてくるって、えらそうなこと言っておいて……」
所詮自分には何の力も能力もない。
ティーナのような魔法の力も、バレンシアのようなコミュニケーション能力も。
「わ……私、やっぱりティーナの力にはなれないのかな?」
口に出して言葉にすると、もっと悲しくなった。
エリスは気づく。
自分は……本当は、この美しい少女の力になりたかったのだと。
そのとき、ふいにティーナの両手がエリスの頭をやさしく包み込んだ。
「なに言ってるんだよ。バカだなぁ」
ティーナは、エリスを抱きしめながら微笑んだ。
絶世の美少女がエリスに向けた、本当に綺麗な笑顔だった。
彼女の笑顔を見た瞬間、エリスはティーナにしがみついて大泣きした。
自分の力不足を痛感していた。
くやしかった、悲しかった。
おそらくはエリスの──初めての挫折。
エリスはいままでの人生でここまで「悔しい」という感情を抱いたことはなかった。
人前で、いや親の前でさえも大泣きしたことがなかった。
エリスは、自分が今いろいろとがんばれているのはティーナやバレンシアのおかげだと思っていた。
なのに、彼女たちのために自分が何の力にもなれていない。
その事実が、こんなにも自分を打ちのめすとは──こんなにも悲しいとは思わなかった。
ティーナは何も言わずに、泣き続けるエリスの頭を撫でていた。
いつのまにか傘が手から離れ、ティーナも雨に濡れていた。
エリスの顔に、冷たいものが何滴か落ちてくる。
それが雨なのか、それとも別の何かなのか。
エリスには──わからなかった。




