ハンカチは一口ではいけない
ベルと青年。向かい合った二人の中に絶妙な温かな沈黙が流れている。
「あ!あの、重ね重ねですが、さっきはありがとうございました!……あれ、どうしました……?」
感謝を述べるベルをよそに、青年は頬に貼られたガーゼを搔いて剥がした。そして、それを寸分の迷いもなく口の中に放り込んだ。
「……ッ!何してるんですか!吐き出してください!ペッ!ペッ!」
慌ててベルは青年の肩を掴みユッサユサと揺さぶるが、その意に反し、彼は幾度かの咀嚼のあと、喉をごくりと鳴らし、口内のものをすっかり飲み込んでしまった。その証左を見せるように、青年は口の中をベルに見せる。血流の良い真ピンクでぷっくりとした舌の上には何も乗っていない。
「あっ、あ〜〜!」
突然の珍妙な行動に呆気にとられていたベルであったが、ひとしきり驚いたあと、驚きの発生に押し出され何もなかった感情の入れ物に笑いが注がれていった。
「フフッ、アッハハハハハ!……ふぅ」
ひとしきり笑ったあと、目尻に溜まった涙を指で拭きながら、何故笑っているのかわからないという顔をしている青年に話しかけ始める。
「あ、失礼しました。えっと……ボクはベルって言います。13歳です。あと、男です。……一応。あの、あなたの名前はなんですか……?」
しかし、青年は何も喋らない。ベルは困惑してもう名前を聞き直す。
「……」
なおも青年は無言を貫いたままである。三度名を訊こうとして、ベルの頭にある仮説が浮かんだ。
もしかして、呪いの代償?
呪いは人間に強力な恩恵を与えるが、それが重ければ重いほどその器は大きく軋む。人間一人を片手一本で軽々と吹き飛ばすほどの呪い、器が粉々に砕けてしまっていてもおかしくないのである。
「あの、ボクの言ってること、わかりますか?」
だからベルは質問を変えた。だが回答者にはなんの反応も見られなかった。眉一本も動かなかった。しかし、なぜか、ベルには青年が反応したかのように感じられた。彼の瞳の中に、彼だけの軸、彼だけのあり方、彼だけの記憶を感じられた。ただ今はそれを取り出せていないだけなのだ。言葉を持たない赤ん坊のように。
いや、泣くことを知らないとすればそれ以下なのかもしれない。
とにかく、ベルは青年がしっかりと意識を持っていると、知性があると確信していたのである。
「うーん、でも名前がわからないとなぁ。なにかヒントになりそうなものがあれば……」
と体を見回すベルの視界に、あるものが飛び込んできた。
「ハンカチ……?」
言われて青年はズボンのポケットからはみ出した布を引っ張り出した。両手で端を持って広げる。下の隅に赤い糸の刺繍が見えた。ベルがそれに気づき、解読を試みようとした瞬間、それは口の中に放り込まれてしまった。
「!!」
ベルは急いで唇からちろりと除くハンカチを掴み引っ張った。踏ん張るために胸板に右足をかけたが、城壁を押してるときのような不動感があった。
「今!度!のは!ほんっとに!駄目なんですって!ば!」
するりとハンカチが抜けた反動で、ベルの体はごろりと後ろに一回転した。もう一度食べられないように体勢を整えて青年に背中を向けてハンカチを広げた。唾液を吸って少しだけねっちょりしている。赤い糸で
A.Kと縫われていた。
「これって、塔文字……?」
ベルが唯一塔でしか見られない謎の文字群を見つけ、青年が現れたときのことを思い出しながら、やはり彼は唯一塔の上層から落ちてきたのだろかと思い始めたとき、ベルの背後でぼやっとしてた青年は何を思い立ったのかベルの肩まで伸びた艷やかな髪を手に取り始めた。
「え?!何やってるんですか?!」
そして、二度あることは三度あるというのだろうか、案の定、彼はそれを、食べた。
「んひぃいいい!!?!??!」
髪の毛の細部までに神経が通っているのだろうか、ベルは背中に悪寒を感じ、ゾワゾワという質を持った感触が脳みそを走った。
「や、やめてください!」
驚いたベルは頭を降って捕食行為を払い、非難の気持ちも込めて振り返った。しかしベルはもう一度、別の意味で驚くことになる。
「ス…………ズ……?」
「!」
青年が、喋った。辿々しくではあるが。
「スズ……?あなたの名前……?いや、塔文字の発音的にあなたの名前ではない……」
この人はボクを見てスズと言った。問うたようなニュアンスさえも感じた。彼はボクにボクに似た誰かを重ねたんだ……ならその人は誰……?
「……お母さん?」
ベルの中で、何かがカチン、とハマった音がした。
そうだ、これはお母さんの名前だ。ボクは5歳までの朧げな記憶でしかお母さんのことを捉えることができないが、それでもハッキリとこの感覚を信じることができる。そして、今は取り出せないが、塔を登って帰らなくなったお母さんのことを、目の前の彼は知っている。こんな感覚が稲妻のようにベルの身体を走り、隅々まで根を張るような実感を伴い、そして実が落ちるように言葉が現実世界に落ちた。
「あの!ボクの母を探すの、手伝ってもらえませんか!」
本人も気づかぬうちに、ベルは頭を下げ、その右手を握手してもらうために差し出していた。やや間があって、その右手を熱が包んだ。
見ると、その右手はがっちりとした大人の若者の手によって握り返されていた。青年の口角が少し上がったように見えた。
「〜〜ッ!ありがとうございます!」
言い終わりを狙っていたかのように、青年はベルを抱き上げ、背中におぶった。
「え?!何?!連れて行ってくれるんですか!……はい。ありがとうございます。じゃあ、あっちの方角の、塔の入口までお願いします」
青年はゆっくりとベルのことを労るかのように歩き出した。背中にこもった熱が、ベルにとって心地よいものだった。
「あの、あなたの名前、便宜上で仮のですけど、ボクがつけてもいいですか?」
塔文字は一応各文字に対応する発音が推測されている。ベルは少し考えたあと、
「アルスア・キング……ってどうですか……?」
青年、いやアルスアは、満更でもなさそうな雰囲気だった。
「じゃあ、アルスアさん。今後ともよろしくお願いします。えっと、早速ですけど、多分ボクのことを気遣ってるのかもしれないんですけど、もう少し、速く走っても大丈夫ですよ……?」
それを聞いたアルスアは、腰をぐっと下げ、引いた右足に力を込め始めた。
「あ、やっぱさっきまでの速さで良かったかも……」
言い終わらないうちに、アルスアはためていた力を開放し、矢のように風を切り音を切り駆け出した。
平原には、まだ声変わりのしていない高い悲鳴が響き渡った。
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