破4
4.
アッシュがトイレからベッドルームに戻る途中、一階のダイニングルームから光がもれているのに気づいた。
階段横の書架から、SIG SAUER P二二九・四〇S&W弾を取り出した。車のグローブボックスの銃とは別に備えている。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『人間の土地』という本が落ちそうになり、掴んだ。肋骨を押さえる。
堀口大學が訳した日本の文庫だ。宮崎駿が表紙を描いている。
静かに書架に戻す。
確かめるまでもなく初弾は薬室に入っている。
静かに降りるがどうしても音が出てしまう。
気配はあるが、動きはないようだ。
ダイニングテーブルにFNブローニングGP (※) があった。Mk・Ⅲ。いわゆる軍用銃で実用性が高い。※HP (ハイパワー) の仏語読み。
それを左手で持つのは、白手袋をした淡い紫のスーツのプラチナブロンドの美女だった。
撃つ気はないようだ。安全装置が解除されていない。
眼鏡をかけたその女性は右目がブラウン、左目がグリーンのオッドアイだった。
顔の右半分に薔薇状の感電痕があった。たぶん全身がそうなのだろう。それで白手袋をしているらしい。
無表情な不気味の谷に落ちたような恐怖感があった。
銃をふって、席につくよう促した。
アッシュが不敵な来訪者を撃たなかった理由はたった一つだった。
勝てないからだ。
不要な争いはするべきではない。
何か用なのだろうが、それが何かはこちらが分かる訳がない。
とりあえず席についた。
美女が銃をテーブルにある青い表紙のファイルの上に置いた。
アッシュもそれにならう。
「私は、OTANのフランボワーズ・S・ブレル少佐だ」
OTANは北大西洋条約機構 (NATO) のフランス語だ。
「フランス人……ですか?」
「私はベルギー陸上構成部隊に所属している」
旧ベルギー陸軍だ。なお、ベルギー語というものは存在しない。ベルギー王国ではフランス語とオランダ語とドイツ語が話されている。
「OTANの将校が、何の用でしょうか?」
アッシュが敬語で話した。
「アーリントン国立墓地で何を調べた?」
英語ではなく日本語で〈アーリントン国立墓地〉と話したので、さきほどからフランボワーズ少佐がきれいな日本語を話していることにアッシュが気づいた。
「セプテンバー――セプテンバー・イレブンを調べていました。――何かの間違いでは?」
そうであってくれ。
「それを判断するのは君ではない、アッシュ・ガウロン准尉」
軍において少佐とは、一つの作戦を任せられる階級であり、大尉までの現場指揮官とは雲泥の差がある。
「元准尉です、少佐。わたくしは退役しております」
美しい女性が左手で銃をとり、ファイルをひっくり返した。
ふつう軍人が左手で銃を扱うことはない。左利きであっても右手で扱うように訓練される。それが軍隊だ。つまり少佐の右手は負傷している可能性が高い。しかし、今さらそれを確かめるようなバカなことをアッシュはしなかった。
ファイルは海軍情報局 (ONI) の命令書だった。
広げる。
一行だけ。「閲覧時刻をもって、アッシュ・ガウロン准尉はベルギー陸上構成部隊フランボワーズ・S・ブレル少佐に従え」とだけあった。
署名は、海軍作戦部長だった。合衆国海軍における最先任の士官で、この上はもう大統領や国防長官など政治家しかいない。
バージニア州のアーリントンにあるアメリカ国防総省 (ペンタゴン) からマサチューセッツ州のボストンまで飛行機で一時間二十分。
現在二十三時十五分。夕方に事を知って、命令書を出して届けるとしても時間が足りない。よほど準備されていなければ、不可能な時間だ。
「何年準備していたんですか?」
「河岸 (かし) を変える」
ここでは話ができないらしい。
「一つ質問が」
ブローニングをスナワチのブルバッグに入れながら、白手袋でどうぞと合図した。
「どうやって家のセキュリティを突破したんですか?」
「女の趣味が悪い」
少佐が左手の親指と中指で回転させたのは、ナホミ・コウザイに渡したままの自宅のセキュリティカードだった。
新しい恋は人を魅了する。浮かれて解除していない。
「彼女も関係者なんですか?」
「質問は一つだ」
「イエス・マム」
返却されたカードは食卓に置いた。
気になって、アルコールで消毒する。〝プレイ〟で使われていないことを祈るアッシュだった。
トイレに行くだけだったのでスラックスにシャツを肩にかけただけの姿だったが、そのままフランボワーズの後ろに続いた。何かが必要になるとしても装備は整っているだろう。あれだけ周到なのだ。
裏口近くの書架にあった車のキーをフランボワーズが視線も変えず左手でつまみながらドアを開け、ガレージに入った。
投げられたキーを受け取り、アッシュがM五の運転席に乗る。
エンジンスタート。BMWストレート六。
小物入れにあったエアコンのリモコンで、ガレージを換気する。でないと一酸化炭素中毒になる。
「仮説を述べよ」
助手席に座ったフランボワーズが正面を見ながら催促した。
本当に美しい横顔だった。
グリーンの瞳。こちら側からは傷痕は見えない。
誠実な、それでいて強い意志のラテン系の優美な身体をした魅力ある女性だった。三十代前半だろう。まだ若い。
アッシュが『人間の土地』の一節を思い出した……。
――経験は教えてくれます。愛するということは互いを見つめることではなく、
いっしょに同じ方向を見ることだと。――
風が凪 (な) いで、朝露に草花がほほえんだ。緑の丘。ベルギー。ワロン地方だ。美しい森や川がある。風光明媚。豊かな自然。あたたかい食卓。ロースクールに入るころのフランボワーズがスープを飲んでいる。カップに黒い影。見上げる。閃光。ホワイトアウトしたあと、月明かりにヘリコプターの爆音。無敵の攻撃ヘリ――ハインドが七機。強い拒絶。硝煙。硝煙。硝煙。ブローニングGPの照準。髪をアップしたフランボワーズが撃っている。何発も何発も何発も。
一瞬、無意識にフランボワーズの心を読んでいたアッシュが自己嫌悪した。
深くうなだれながら、頭の中で整理する。
記憶映像の逆再生。
フィルム映像のように一枚一枚がゆっくり逆再生する。
連続した映像になる。
――SIG SAUER P二二九・四〇S&W弾を書架に戻す。
持っていたサン=テグジュペリの文庫も戻す。
美しく揃えられた書籍。
何故? 文庫を戻す。敵が銃の初弾を抜いていた? #ホワイダニット
誰が? フランボワーズ少佐だ。#フーダニット
違う、その部下だ。少佐なら独立大隊を動かしていても不思議はない。
ということは部下が今観察している?
シーツを押しやると、アイヤの背中の銃痕が見える……。
REW (早戻し) ――。
アイヤの髪を寝顔にかける……。
REW――。
アイヤの美しい身体……。
REW――。
アイヤの涙を頬に戻していく……。
REW――。
キス……。
REW――。
料理……。
REW――。
BMW……。
REW――。
カナエ・シンジョウの質問……。
エステバンの泣き声……。
エステバンの母親がドーナツをゴミ箱から手に戻す……。
エステバンの笑顔……。
セニョール・イ=イリヤが腹をさする……。
ディリクレ弁護士が向こうを見る……。
フリードリヒ・ディリクレ弁護士の胸に血が戻っていく……。
ガエターナ・フィボナッチが銃を捨てる……。
アイヤ・ヴィヤゾフスカ警部補が手錠をはずす……。
タマコ・サ=イズミが車に招き入れる……。
レイス医師が歩き去る……。
ブラウンの瞳……。
ギネスの泡が増えていく……。
アルナ・ワシントンが世界の果てに飛んでいく……。
エセル・チューリング地方検事が口をへの字にする……。
サブロウ・トサ警部が着流しの帯に手をかける……。
オシリス・レイス医師がダンスをしながらエレベータから向こうに走っていく……。
コルヴィン・ペールの古写真……。
ヴァシーリのキューカンバーサンドイッチ……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コルヴィナが顔を遠ざける……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナが笑っていたのに無表情になる……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナが鞭 (むち) を棚に戻す……。
シーツを押すと、ソフィア・ヴァシーリエヴナの胸の傷痕が見える……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナの髪を寝顔にかける……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナの美しい身体……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナの涙を頬に戻していく……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナ……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナ……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナ……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナ……。
ソフィア・ヴァシーリエヴナ……。
マリオ・フィボナッチの銃……。
アッシュ・ガウロンの銃……。
アーシュラ・ワシントン検視官が頭に被せていた布を取ってくれる……。
ミランダ警告を逆に宣言する……。
ナホミ・コウザイ警部補が手錠をはずす……。
シーツ、ナホミの右の下腹に盲腸の傷痕が見える……。
ナホミの髪を寝顔にかける……。
ナホミの美しい身体……。
ナホミが指にマヨネーズをつける……。
ラウラ・フィボナッチの胸に心臓が戻っていく……。
銃声……。――
白昼夢のような感覚から戻る。
「巫山戯 (ふざけ) ている……」
犯人が写っていた。
倒叙 (とうじょ) だ。
犯人が罪を犯したことが明らかになった。
虚構の『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』では、最初に犯人が愚かにも人を殺める。動機も、犯行方法もはっきり映像になっている。でないと、主演をみただけで、また石野真子が犯人だとバレてしまうからだ。なお、アッシュは石野真子を不幸にしたチンピラを恨んでいるし、胸に反応炉が内蔵されている美女の回し蹴りでチンピラは失神している。#blackjoke
右の助手席をみた。
フランボワーズ・S・ブレル少佐の姿がぼんやりしていく。
SIG SAUER P二二九を向ける。
輪郭がゆるやかになった少佐を銃で撃った。
心臓に二発。ダブルタップ。
反動ではっきりとした少佐には心臓がなかった。
ダブルタップ。
ゆらぐ胸の奥に闇に・四〇S&W弾が吸い込まれていく。
ダブルタップ。
消えたはずの銃弾二発が、スネーク・アイズ (※) のように赤く光った。※サイコロゲームのクラップスでは一のゾロ目であるスネーク・アイズ (蛇の両眼) は振り手の「負け」になる。
〈セイレーン〉だ。
アッシュが「なるほど」と理解した。
「それはすまなかったな」
謝罪すると自分の胸に銃口を向け、もはやそこに存在しない、呪われた心 (ハート) があったであろう空間に撃った。
ブラックアウト。




