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破3

3.


 他州にまたがる場合、多くは捜査権が上部に移行されるので、アイヤとアッシュの二人は警部に報告したあとゆっくり帰っていた。

 この場合の上部とは司法省の連邦捜査局 (FBI) だろう。「だろう」という曖昧な表現は、アメリカ合衆国にはさまざまな機関があるためだ。FBIのように市民に「正義の人」だと考えられている機関もあれば、純粋に国益だけを考える中央情報局 (CIA) もある。市民に嫌われているCIA (スパイ) だが、国内では活動できない。他にも公安警察の国家保安部 (NSB) があり、アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局 (ATF) のように特定のものを取り締まる機関もある。

 これらの機関は対外だけでなく、互いが互いを監視している。言うなればギリシア神話の怪物メドゥサの髪である無数の毒蛇が蠢 (うごめ) いているようだが、それが民主主義の本質なのだろう。なお、ヒトの髪の毛はおよそ十万本ある。

 帰宅時間らしく混んでいるので裏道をゆっくり走らせた。#ラッシュアワー

 鑑定のおえたBMWをアッシュは受け取り、アイヤはグロックを返却してもらった。指紋の照合をしたが該当がないらしい。フリードリヒ・ディリクレ弁護士は生前マグショット (※) を撮られる間抜けなことはしなかったらしい。※逮捕時の人物写真。同時に指紋も登録される。

 ラウラ・フィボナッチには非行歴があった。少女のころ盗んだ麻薬で楽しくドライブして図書館の壁に接触している。

 血と緑の粘液の跡が残っていたので車内を洗うことにしたアッシュと別れ、アイヤはデスクでグロックを分解清掃しながら報告書の内容を考えていた。

 スライドに撃たれた傷があったが、見たところ歪 (ひず) んではいない。

 射撃場に移動した。

 安全用の眼鏡とイヤーマフをつけると、標的をダブルタップで撃った。

 二発が微妙にズレている。

 一発だけ撃つ。

 わずかなズレがあった。

 うなだれる。

 官給品だ。スライド交換と調整。始末書ものだ。

 弾倉を抜くと、薬室に残っていた銃弾を出してスライドをオープンな状態にした。

 取り出した・四〇S&W弾を弾倉に戻す。

 書類に必要事項を書き、提出した。

 先に分解清掃をしていたので助かったのかもしれない。衝撃を受けた銃は何かしらの歪みがでる。最悪を考えると弾詰まり (ジャム) で天国 (ジ・エンド) もありえる。

 アイヤ・ヴィヤゾフスカ警部補が初めて人を撃ったのは新人の時だ。まだ制服を着ていた。ドラッグでフラフラになった薬物中毒の男が子供の頭に銃をつきつけていた。隙をみて肩を狙ったが逆上して子供を撃とうとした。ダブルタップで二発撃っていれば、子供は助かっただろう。

 犯人射殺時の録画から無罪となったが、子供の母親に背中から撃たれた。さいわい・二二LR (ロングライフル弾) だったので、背中に鉛筆が刺さったような傷痕が残るだけで助かった。

 母親は第二級殺人に問われたが無罪となった。収監されていた父親が出所後、銃砲店に押し入り従業員に射殺されている。従業員は無罪。さらに母親は別の州で詐称して銃を購入しようとして逮捕された。もう出てきてもいいころだ。

 報告書の前に、ロッカーの私用グロック二三で再度撃った。

 ダブルタップ。センター。

 ダブルタップ。センター。

 ダブルタップ。センター。

 ホルスターに戻した。

 いつもの自分だった。

 とはいえ、報告書を書く気にはならない。どうせ必要なことは明日FBIに聞かれるだろうし、FBIが必要とする (気に入る) 内容の報告書を書かされるに決まっている。

 箇条書きに時間と場所だけを記入してラップトップPCの電源を落とした。

 壁の時計を見た。

 飲みたい気分だった。


 鑑識がどうするか知っていたアッシュは自分で清掃すると言って、受け取りのサインをした。鑑識が見落とすことはほぼないが、清潔にすることとはまた別の感覚がある。プラモデルを組み立てることは簡単だが、壊れたものを分けるのは困難だ。物であればそれもできるが、男女の仲だとそうもいかない。離婚は壊れたプラモデルを分解するのに似ている。

 自宅に戻り、ガレージに車を入れて汚れを落とした。

 作業しながら、別れるとき妻から慰謝料を請求されたことを思い出して笑ってしまった。

 大卒でも文学部では法律を知らないことが多い。女が離婚するときは男から慰謝料をもらえると真剣に考えていたらしい。

 かたくなにカウンセラーに会おうとせず、昔の男と会っていた。後日、心的外傷後ストレス障害 (PTSD) だと診断されたが、当時のアッシュには考えることさえできなかった。

 月に一度面会していた娘の膝に絆創膏があり、それを上司の中尉に言ったことでDVが発覚した。

 中尉がとても言いにくそうにしていた。「もしかしたら」だ。

 元妻の妹に確かめてもらおうと連絡したが「そんなことをするはずがない」と反論された。それはそうだ。酔っ払いを信じる訳がない。妻と同じくアッシュも心を病んで酒に溺れていた。

 それでも理由なく人を傷つけるなど考えられないことだった。ましてや人殺しの訓練を受けている。

 訓練をしていなくても、男が女を殴れば女は死ぬ。そんなものだ。男が殴って死んでいないのなら殺意がないということだ。遊んでいるのだ。自分のいいように。

 婚姻していた時から、娘はよく怪我をしていた。妻は「やんちゃ」だからと誤魔化 (ごまか) していた。

 そのくせ、娘はアッシュが帰るとべったりいっしょにいた。妻は「お父ちゃん子」だと笑っていた。

 三日後、元義妹から連絡があった。「お姉ちゃんやってた。ごめん気づけなくて」と泣いていた。「ぜったいやめさせるから、二度とさせないようにするから。お父さんもお母さんもずっと見張っているから」――そう詫びを入れられた。

 それまでの元妻の家族からのアッシュの評価は酒に溺れた憐れな人だったらしい。ダラシナイ姉には破れ鍋に綴じ蓋 (われなべにとじぶた) だと思っていたらしい。まあまともな人物だと思われるようになったが、遅い。

 次の面会日の前夜に連絡すると「もう会わないでほしい」と元妻に言われた。「わたしがどれだけ責められたかあなたは知らない。家族から信用されなくなった」

 賢い善人 (グッド) な父に相談したら「二度と会わないほうがいいのでは」という意見だった。それに「男の子なら家を継ぐのに必要だが、女の子では」という一族 (ファミリー) の論理も含まれていた。実に前時代の人間らしい言葉だった。

 元義妹にも連絡したが、あの後から元妻は精神的に落ち着かなくなったらしい。「加害者が被害者になってしまった」とのこと。DVをするような人間はそうしたことになるのだろう。元義妹も父の意見に賛成だった。

「『忘れるのも愛情だ』――確かにそうだな」

 事業資金に借りた分を引いた父の遺産――土地や有価証券は妹に渡した。もう会うこともないだろう。

 結婚前に高校時代の友人に「父に反対されている」と相談したときに「お前はお前の家族をつくればいいだろう」と後押ししてくれた。その友人も結婚して子供がいる。もう十年連絡していない。

 寒いが、汗だくになった。BMWをなでる。残ったのは車と銃だけだ。

 シャワーを浴びながら、アイヤ・ヴィヤゾフスカのスペルを思い出そうとして、映像として観ていないことに気づいた。

 アッシュ・ガウロンには識字障害 (ディスレクシア) がある。数字の認識も甘い。だからこそ、画像記憶術を後天的に取得した。

 洗い髪にタオルをのせたまま、スマートフォンで電話する。

「アイヤ? アッシュだけれど、いま時間いいかな?」

 電話口でアイヤが笑っている。

「どうしたの? 何か嬉しいことがあったのかい?」

「私がかけたのよ」

「え?」

「私が、かけたのよ」

 表示は「着信」になっていた。


 アッシュが冷蔵庫からサッポロ・プレミアムの小瓶を取り出して、栓抜きで王冠をはずして口にした。適温で泡がこぼれない。

 秘蔵のワインはトスカーナのティニャネロ。名品だ。埃をはらう。

 イタリアのこの赤には仔牛が合うが、アイヤが何の肉を買ってくるかは聞かなかった。自分が食べるのに嫌いなものは買ってこないだろう。

 キャンドルを前にデキャンタにティニャネロをうつす。ボトルの底に残る澱 (おり) 。

「まあ何とかなるだろう」

 最高級のシャトーブリアンとでも相性はいい。それだけ上等だとふつうに塩・胡椒だけで美味しく食べられる。

 ただしかし、イタリアの赤ワインと合わせるには、ソースを作りたいのが人情だ。

 オリーブオイルを入れたフライパンに、スライスした大蒜 (ニンニク) を多めに入れて火にかける。焦がさないように中火でゆっくり揚げる。

 このままパンにつけても一品になる。

 キツネ色になる前に取り出して、唐辛子を投入。香りをうつしたあとこれも取り出す。

 味醂を大さじ一杯入れて、アルコールを飛ばす。

 豆腐の発酵させた腐乳 (ふにゅう) を一欠片 (ひとかけら) 入れる。邪道だが美味しい。

 ナンプラーを少々入れたあと、米酢を少々入れて酸味で味を調整する。

 伊中泰日四か国だ。美味しくない訳がない。それに昨日の残っていたカリフォルニアの白ワインを小さじ一杯追加する。

 銀のスプーンで味見。

 四川料理になってしまった……。

 これとは別に、アンチョビ・ケイパー・オリーブ・トマトとイタリアンパセリでプッタネスカのソースを作った。このままスパゲッティーニに合わせてもいいし、さっきのソースをアイヤが気に入らなければ、追加でタバスコと米酢を入れればステーキソースになる。

 振り返った。

 静かな家だ。

 デキャンタからゆっくり香りが広がっていく。


 いったん家に帰ってシャワーを浴びたアイヤがタクシーで到着した。

 優雅なダークブルーのイブニングドレス。

 肉は牛ヒレのブロックだった。ローストが美味だ。

 フライパンで六面に焼き色をつけたあと、あたためたオーブンに入れる。

 その間にアイヤにソースを確かめてもらった。

「ちょっと塩がキツイわ……」

「ああなら大丈夫だ」

 残念そうな顔に笑顔で返した。

 前菜は、トマトとモッツァレラのカプレーゼ。塩・黒胡椒にオリーブオイル。柚子 (ゆず) を絞ったポン酢醤油で食べてもいい。

 アイヤは気に入ったようだ。

 合わせるのはチリのモンテス・スパークリング・エンジェル・ブリュット。信じられないほど安いが、味はシャンパンに匹敵する。

 プッタネスカのパスタは直径二mmのスパゲッティより細い一・六mmのスパゲッティーニだ。

 デキャンタの香りが変わった時点で、オーブンから出した肉にソースをからめた。

 ティニャネロを単体で飲めば、苦い。それが塩を多く含むソースと出会うと……マリアージュ――結婚することになる。

 口から鼻に風味が広がっていく。

 サンジョヴェーゼとカベルネ・ソーヴィニヨンの黄金比。

「もっと買ってくるんだったわ」

 すぐに胃に消えた。

「確かにコルヴィン・フィスが作らせただけのことはあるわね」

「忘れていた。昼も作ったんだ」

 不思議とメニューは重なっていない。

 後片づけもそもままに、二人が二階のベッドルームに消えた。




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