序2
2.
ボストンで夜景を観るのであれば〈コーサウェイ ボストン〉のホテル最上階レストラン〈セマルグル〉が最高だ。入念なボディチェックはあるが、会員でなくとも利用することができる。
夜であれば、最高なのだろう。
アッシュ・ガウロンが一瞬下を見た。地上の人間からすればゴミだろう。
トヨタ、GM、クライスラー、ホンダ。車が蟻 (アリ) のようだ。
〈セマルグル〉はスラヴ神話の「聖なる鳥」を意味するらしい。
今ほど自分に羽根がないことを感じる機会はなかった。
清掃用のドアから硬化テクタイトの厚い板ガラスが十メートルほど伸ばされ、その先に椅子があった。
両手両足を固定されているが、それがなければ突風で飛んでいくだろう。塵 (アッシュ) の名のように。
「商談だと聞いてきたんだが……」
アシダ音響のヘッドセットだから、こちらの音声は精確に聞こえているはずだが一向に連絡がなかった。
寒い。
ナホミはというと〈コーサウェイ ボストン〉の地下駐車場のパトカーの運転席で、サンドイッチのキュウリを取り除いていた。
マヨネーズのついた指をなめると、頬張った。
「キュウリを食べないのか? もったいない」
助手席から声をかけたのは、ソフィアの兄のヴァシーリ・ヴァシーリエヴィチ・コルヴィンだった。妹と同じ顔をしているが双生児ではない。
ブロンドの髪に琥珀 (こはく) の瞳のハンサムだ。ソフィアが男装していると言っても誰も不思議に思わないだろう。美しい。
「富の象徴だ」
新鮮なキュウリ (キューカンバー) サンドイッチを客人にふるまうことが、またそれを食べることが、英国の貴族のかつてのステイタスだった。
産業革命は都市部ではなく地方の農地が工場になったことによる。つまり、農地が少なくなったために、新鮮な野菜は貴重になった。くわえて英国はキュウリの栽培に適していない。キュウリを育てられるほどの裕福さが貴族の象徴になったという訳だ。一方でアイルランドではジャガイモ飢饉で人口の二十パーセントが餓死している。
「だったら食べます?」
「ふつうはバターなんだ。――最近ではバターロールにまでマーガリンが入っている。気が狂っているとしか思えない」
「そんなことを言うために、私と会っている訳じゃあないのでしょう?」
「美女が不作法に食べているのを観察するのが趣味でね」
金持ちは変人が多い。いやそうではなく、目立つのだろう。貧乏であればそうしたことをしたくても許されない。
「もちろんブラックジョークだよ」
オメガ コンステレーションで時刻を確かめた。待っているらしい。
誰が待たせているのか、ナホミにも分かる。
ヴァシーリのスマートフォンが振動した。
「……ではそのように。――来るかい?」
「いいえ。美味しいものを食べると、いつもの料理が食べられなくなる。舌を肥やしても、豊かにはならない」
「それは心が豊かではないからだよ」
「庶民には庶民の暮らしがある。富める者 (ブルジョワ) が富をひけらかすな。使え。浪費しろ。それがお前たちの責務だ」
護衛がドアを開き、笑うヴァシーリが無表情になった。
十センチまでドアを近づけ、それから閉めた。教育が行き届いたスタッフだ。
南十字星のように四人がヴァシーリに従っている。
残りを食べたナホミがアイスコーヒーを飲み干して、袋につめこんだ。
スマートフォンをスクロールさせながら、ヴァシーリが奥の会員専用エレベータに近づいた。撃たれないように正面からではなく斜め横に位置している。
護衛が上ボタンを押して、監視カメラに視線をやった。ずっと止まっていたらしくすぐに開いた。
長年いっしょにいるのか、まったく会話せずに護衛が先に行動している。
「様子は?」
ようやく口を開いたのは、エレベータで会員フロアをすぎてからだった。
『意識はまだあります』
スピーカから女性の電子音声が答えた。
「プランAを。キューカンバーサンドイッチも」
『スコーンやケーキはどうなさいますか?』
「それではアフタヌーンティーのセットになってしまう。中華にしよう」
『失礼ですが〈アマランス〉の村中 (ムラナカ) シェフは本日お休みをいただいています』
「問題ない。本人がつくる」
到着。
上海料理〈アマランス〉は〈コーサウェイ ボストン〉の十二階にある。
椅子のまま厨房に運ばれたアッシュが毛布にくるまり足湯をしていた。
たった十五分の〈バビロンの空中庭園〉だったが、身体の芯まで冷やすには十分だった。
「では、食事をしながら商談にしよう」
椅子で対峙したヴァシーリがキューカンバーサンドイッチを食べたあと、ナプキンで口を拭いた。
「今日は定休日では?」
アッシュがタオルで足を拭いた。手首に手錠の痕 (あと) がある。
「君がつくるんだ。そのほうが安心だろう?」
イタリアのボルジア家には秘伝の毒があった。
あわせるシャンパンは、ルイ・ロデレール クリスタル・ロゼだった。
アッシュがジャケットを脱いで護衛に渡すと、シャツの袖をまくり肘までていねいに洗った。
「酒と車と女の趣味は似るらしい」
ヴァシーリが先に飲みナプキンでグラスの縁を拭いたあと、アッシュに渡した。
ルイ・ロデレールの創業は一七七六年。ロシア皇帝アレクサンドル二世がこよなく愛したことで知られる。
「いい趣味だ」
シャルドネとピノ・ノワール。いい配分だ。
「それにしても君の、女の趣味はどうかと思うぞ」
下を指さした。ナホミがくしゃみをしているに違いない。
「――おっとソフィアには内緒だ。……あんな女に仕上げたのはペールだよ。私も正直困っている。……君について解 (わか) らないことが二点ある。一つは名前だ。どうして灰 (アッシュ) なんだ? ガウロンは九龍 (カウルーン) だろう? どうして香港の名前なんだ?」
「ソフィアが――妹さんが発音できなかったんだ。日本の名前を。それに、ガウロンを日本だとカン違いしていた。――ああ違うな。広東料理店で働いていたからか。どちらにせよ今はそう呼ばれている」
「どうしてアフガニスタンに?」
「子供の養育費とグリーンカードをバーター (※) で。戦場では有能だったからね」※物物交換制。
ブルーのファイルによると、狙撃兵。上等兵曹 (E−七) の時に右顔に被弾。准尉 (W−一) として除隊。
「彼女……本当にROCの代表になったのか」
「そのようだね。私は実業家だ。ホテル経営が似合っている」
他に不動産や金融も扱っていた。
「報酬は?」
護衛が金額を見せた。魅力的だった。
「前金で、君を〈アマランス〉の休日の料理長として雇う。もし、病気や怪我になったとしても返金しなくていい」
つまり「今日だけ料理をつくれ」という訳だ。
「一つ聞いていいか?」
「質問はなしだ」
二〇二二年二月二四日まではロシア連邦に拒否権があった。
「サインしろ」
ロシア人のやり方は変わらない。白紙だ。
エス・テー・デュポンの万年筆は書きやすい。
ナホミが微睡 (まどろ) んでいた。#白川夜船
助手席の窓をノックする音。
ロックを解除した。
「どうだった? 最悪?」
「『もっと最悪になるね、これは。「最悪だ」なんて言えてるうちは最悪じゃあない』」
右手首に手錠でつながれたグローブ・トロッターのアタッシェケースを床におきながら、アッシュが『リア王』を引用した。ていねいにドアを閉める。
「それで? 私にも関係するんでしょう?」
でなければ、ヴァシーリがナホミに連れて来させる訳がない。
「あなた、麻薬を横流ししているのか? 妖しい壺とか?」
笑えない。
「え? どうして?」
じっとアッシュを見た。
「どうしてそんな嘘を?」
「やってないのかよ」
「やってる訳ないじゃあない。どうしてそんな嘘を言うのよ」
「最近、物 (ぶつ) の横流しが横行しているらしい」
「馬から落馬しているわよ。首の骨を骨折したの? それに、コルヴィン・フィスは組織を抜けたんでしょう? 関係がないのにどうして?」
「公共の利益だよ。犯罪は『儲からない』とソフィアに理解させるためだそうだ」
「他にもあるんでしょう?」
アタッシェを指さした。
「私は見ないわよ。私は見ない私は見ない」
「とりあえず、現場に」
「絶対に私は絶対に見ませんからね!」




