余
余
セイコーミリタリーによると早く着きすぎたらしい。とはいえカフェで一杯するほどの時間でもない。
地下鉄からナホミ・コウザイが地上に出るとまだ雨が続いていた。
「よく降るわね」
サングラスをズラして空を見た。かけなおして、コートの襟を立てて待つ。寒い。
ニコンのレンズが一〇〇パーセント紫外線をカットしている。
駅前の人の動きは気ぜわしくもあり、穏やかでもある。それは大学が近いせいだろう。
ほどなくして、ブルーグレイの二ドアのジープ・チェロキーが横づけされた。
アーシュラ・ワシントンだ。大きなサングラスで顔を隠していても喜びは伝わる。
さっと乗り込むと、すっと走り出した。
アメリカン・モーターズ・コーポレーション時代のコンパクトなジープ (XJ) なので、タクシーの横をすり抜けていく。
「悪いわね」
謝ったのはアーシェラだ。
「こうして埋め合わせしてくれてるから別にいいわ」
ここ最近体調がいい。昔の服のウエストも気にならない。一緒に食事をする機会が増えたせいだろう。アーシェラはまともな店しか行かない。
ずっと『スーパーサイズ・ミー』 (たまにダンキンドーナツ) だったので笑われた。仕事上三食きちんと摂ることもままならず、かといって自炊する技量もないナホミにはありがたかった。
一度自宅に招待しようとしたがていねいに断られた。まあ残念なことになっていることは確かだ。服は洗濯して干したまま。乾いたものから着ている。
アーシェラには家庭があるから、泊まりはないが寝相が悪いのはバレていた。奇妙な寝言も。
愛情はそうした些細なこととは無縁に存在する。
「何かついてる?」
横顔を見続けるナホミに聞いた。
「いいえ。綺麗だと」
アーシュラが照れて正面を見た。
「ありがとう」
信号待ち。ベビーカーを押す女性。雨が強くなる。
アーシェラがナホミの頭を引き寄せ、肩に乗せた。
何か安心するのだ。いっしょにいて。
別に妻を愛していないわけではなく、物足りないわけでもない。
ただ何となくいっしょにいたいと思えるからいっしょにいるだけだった。
ナホミは移り気な性格だから一時的なものだろうけれど、それが永遠だと少しでも感じていたかった。
もちろんどうしようもない恋もある。傷つけ合うことでしか愛情を確かめられない愛もある。でもそうしたものには疲れたのだ。
ままそれは言い訳だった。薬に溺れていく人間を見るのが恐くなったのだ。
この身が娘が引き裂かれるような気持ちだった。ドラッグの前に愛情は無意味だ。まず治療が必要でありそれを理解できない二人ではなかったのだが、甘かった。都合よく信じていたかったのだ。「二人の愛は永遠だ」と。
別れて心底よかった。ドラッグに溺れる父親の姿を、それに失望する母親の姿も娘に見せたくない。
治療は順調だった。お互い大切なものを失ったけれど。
そしてまたアーシェラは大切なものを失おうとしていた。
けれど、もうどうしようもない――不可抗力――とりとめのない強い何らかの作用で動かされてしまった。
「青よ」
ナホミが笑った。
(了)