急5
5.
〈コーサウェイ ボストン〉の上海料理〈アマランス〉の本日のホストはヴァシーリ・ヴァシーリエヴィチ・コルヴィンだった。来賓は一名――タマコ・サ=イズミのみ。
クリュッグのマグナムが二本冷やされていた。
「一日一本しか飲まないわ」
ウィンストン・チャーチルは毎日一本しか煙草を吸わなかったそうだ。葉巻だったが。
「まだあんな遊びをしているのね」
乾杯ののちに社交辞令を言った。
「ソフィアが声フェチでね」
「得心したわ。あなたの趣味ではなかったのね」
「――失礼します。こちらが前菜です。時計回りにトマトと香味野菜の黒酢あえ、蒸 (む) し鶏 (どり) 、花くらげのあえものでございます」
トマトと香味野菜の黒酢の彩が美しい。蒸し鶏のタレは、葱と生姜とピーナッツ油に三滴醤油がさしてあった。塩が効いている。花くらげにはキュウリが添えられ甘酸っぱい。
「お口に合ったようですね」
「ええ。あなた、アッシュの料理を食べたんですって?」
「仰るとおり、絶品でしたよ。もう味わえなくなるのは残念です」
「そうね……彼の弟弟子にベルギー人がいるわ。今度ご招待するわ」
「それは光栄です。――ところで仕事の話をしてもよろしいですか?」
「どうぞ」
「例の壺はやはりあの警官が関与しているようです。詳細はこちらで調べましょうか?」
「お任せするわ。うちの家宝だったの。どうやって封印を解 (と) いたのかしら」
「他にも〝家宝〟はあるのですか?」
「ええ。世界が滅ぶほど」
ヴァシーリの問いにタマコが微笑んだ。
「――失礼します。フカヒレのスープでございます」
「『美味しい』とムラナカ シェフに伝えてくれるかしら」
ナホミが目覚めると、前と同じフラクタル意匠 (デザイン) の天井があった。
デジャヴュではない。
「気分は?」
アイヤが顔を覗 (のぞ) き込んだ。
「お見舞い? ありがとう。――最低よ。記憶が斑 (まだら) になってる。夢と現実が、過去と現在がごちゃごちゃ。頭がいいほうじゃあないとしてもあんまりだわ。頭が痛い。顔が痛い。だるい。物が二重に見える」
「頬骨を骨折したのよ」
手鏡を手渡した。受け取るのに片目をつむる。
二重に見えるのはかなり厄介だ。
「『スカーフェイス』ね」#アル・パチーノ
左の眉の外側と下瞼 (したまぶた) の皮膚 (ひふ) と口腔 (こうくう) の粘膜を切開して、三方向から転位した頬骨の位置を戻してプレートで固定している。
「口の中も切った?」
舌を転がした。
「そうね。こことここと、ここをプレートで止めてるわ。プレートは溶 (と) けて吸収されるから再手術は不要よ」
「あの女……」
「許したのでしょう? あなたも許されたのだから」
「記憶がない」
「あれから二日経っているわ」
「顔を殴られた記憶がない」
「それはそうよ。地面とキスしたんだから」
ウィリアム・シェイクスピアの『マクベス』の台詞にある。
「考えたんだけど」
手鏡を返しながら、ナホミが言った。
「アイヤ、アッシュと付き合ったら? 二人とも頭いいし。おんなじ境遇だし」
「……そうね。考えてみるわ」
ナホミがスマートフォンを操作して、アイヤに連絡先を転送するとデータを削除した。再確認、削除。
「鎮痛剤入れて欲しいんだけど」
「どこに?」
「お尻の穴 (アス・ホール) 」
「ナースを呼ぶわ。新しい〝プレイ〟をここでしないでね」
アイヤが席を立った。
「はいはい。――夢を見ていたわ」
「覚えているの?」
振り返る。
「甘い夢よ。もう二度と会えない人との甘い夢」
ナホミが瞬 (まばた) きした。
「今も夢の中かもよ」
手を振りながらアイヤが退室した。
「そうね。手術費用を考えると正直悪夢だわ」
フリードリヒ・ディリクレ弁護士が同名の義父が生きていると聞いたとき、それほど驚かなかった。またいつものブラックジョークだろうと考えていたからだ。そもそも幽霊話は幼いころからさんざん聞かされている。特に北東部の六州のニューイングランド地方は、米国でも最も古い地域だからこそそうした御伽話 (おとぎばなし) も多い。
現実でもセイラム魔女裁判があったセイラム村はマサチューセッツ州の北東にあるエセックス郡ダンバースだし、ダンバース精神病院では当時最先端の脳神経外科学の手術がなされていた。
物語では『スリーピー・ホロウの伝説』が有名だが、あの話はニューヨーク近郊が舞台だ。米国では一七七六年のアメリカ独立革命から第二次世界大戦までが近代とされているが、その近代が始まるころ、近世が終わりをつげるころの話は幻想的だ。米国人ならナイーブになる部分だろう。現実にあった歪 (ひず) んだ歴史と、虚構の憐 (あわ) れな物語が同時に存在しているのだ。
スリーピー・ホロウという渓谷はオランダ人の入植者であり、首なし騎士はドイツ人だからフリードリヒからすると驚かせる側だ。
アイルランドでは〈デュラハン〉と呼ばれる首なし騎士 (ヘッドレス・ホースマン) だが、その伝説は欧州北部に多く残されていて、同じ首なし騎士ならドイツの〈野生の狩人〉のほうが有名なくらいだ。
ドイツの森は深く、通り抜けるには一つ一つの町がその中継点になる。黒い森が身近にあれば誰でも恐怖を想像するだろう。
義母のヘンリエッテはそうした恐怖に耐性がない女性だった。あるとき娘のオッティリーが本当に恐がらせてしまい、自らを殺めた。幼いオッティリーにその記憶はないが、母の死というものに彼女もまた恐怖に脅えるようになってしまった。
貴族の家では憐れみから孤児を養子として育てる風習がある。「助けてやろう」という上からの視線だが、助けられるのであればどうとでもなれというのが貧しい人間の考えだろう。
本家が没落したあと残された孤児が聡明なフリードリヒだった。
幼い娘を隣で支える存在としては十分だった。
すでに亡くなっていた義母の死因を知ったとき、フリードリヒは人間として成長した。賢い悪人 (バッド) として。
またそれは義父が望んでいたことでもあった。
賢い悪人 (バッド) と賢い悪人 (バッド) は利害関係がはっきりすれば強い絆になる。愚かな善人 (グッド) はそうした者に従う。
天国と地獄が裁判をしたら、地獄が勝つに決まっている。なにしろ弁護士はすべて地獄にいるのだから。
フリードリヒが自宅に戻ると、寝室のオッティリーを見舞った。シーツをかけなおし、鎮静剤の量を確かめた。ふだんより多いが、問題はない。
書斎で上着を脱ぎながら、テーブルのシュナップスをグラスに入れ一息した。アルコールが喉を刺激してくれる。
「生き返るなど……」
失笑した。むせる。
「あの……」
背中から声をかけたのは家令のアーデルハイトだ。
「どうした?」
振り返ると、アーデルハイトの胸に心臓がなかった。
その後ろから義父のフリードリヒ・ディリクレが飛び出した。
緑の糸が床を壁を窓を走り、フリードリヒの心臓に絡 (から) みついた。
米国は海軍特殊戦開発グループ (デベロップメントグループ) を投入した。特殊部隊であるネイビーシールズから独立した精鋭中の精鋭、対テロ特殊部隊だ。
翌日、ベルギーの公共放送局RTBF (ラジオ&テレビ・ベルギー・フランス語放送) で「米国弁護士一族テロ事件」が報道された。
「入植以来二〇〇年以上の歴史ある弁護士一族 (ファミリー) がテロの犠牲となりました。――ご覧ください。新種の病原菌が使われた可能性があるため、都市区画ごと焼却されています。なお、午後の発表では空気感染するおそれはなく、米軍の行動が過敏ではないかという意見も下院議員から――」
トオ・イバラキ女司祭 (プリーステス) がサ=イズミ記念病院から聖ルチア大学までホンダ アスコットでゆっくり流していた。
隣はルイ・ササキ伍長だが、顔がこわばっている。
「何か違和感ありますね」
右側通行で、本来運転席がある左席に座るとかなり恐い。
米国の場合、新車は必ず左ハンドル車でしか登録できないのだが、製造後二十五年を過ぎた車両の登録が自由になったためにこうしたこともおこる。
関税や排ガス規制もない。クラシックカー好きにはたまらない制度だ。
だが、トオが乗っているのは一九九〇年式の深緑色のホンダ アスコット E−CB四 FBT−i。平凡な四ドアセダンだった。
「どうしてこの車に?」
四WSなので自然に曲がる。
ハーフシートカバーまでついている。購入時から大切に乗っているらしい。
「燃費がいいのよ」
ベルギー軍は金がない。
「少佐の私物だから経費もかからないし」
「少佐っていくつなんですか」
「それって質問?」
「いいえ。乗り心地は硬いですがいいですね」
話題を変えた。
レカロシート。ダンパーはビルシュタインに交換されている。
「この車のCMがエリック・クラプトンの〈BAD LOVE〉で、少佐の昔の男が好きだったらしいわ」
過去形なので、形見だろう。
「CMで車を買うんですね?」
「わたしはE−BA七のプレリュードを買ったわ」
遠くを見ながら「中古だけれど」とつぎたした。
「そうなんですね。ところでその車は?」
「わたしのE−BA七はこれと同じジュネーブグリーンパールの二ドア」
「ああ……」
何か過去にあったらしい。
外を見た。まだ曇っている。
空高くに椅子が浮いていた。
〈コーサウェイ ボストン〉ホテルの最上階の外に奇術のように椅子が置かれていた。
美女が座らされている。
「あの……」
「アレがそうよ」
――「誰がやったのか」 (フーダニット)
「……どうして壺なんて割ったんです?」
「聞きたいのは理由? それとも方法?」
――「何故やったのか」 (ホワイダニット)
――「どうやったのか」 (ハウダニット)
「……」
言葉につまった。
「『雪女』 (スノー・ウーマン) 」
小泉八雲の『怪談』にある話だ。
つまり「二度と話してはいけない」のだ。