急4
4.
ノーフォーク海軍基地はバージニア州にある世界最大の海軍基地だ。アーリントン国立墓地からヘリコプターで二時間もかからない。
冷凍された〝心臓〟が地下の海軍調査研究所 (NRL) ノーフォーク分室に運び込まれた。
ノーフォーク分室の兵力はすべて軍属で身元もはっきりしており、ワシントンDC本部では扱えない政治的なものを扱っている。
ベルギー軍の首を落とされた三名も収容されていた。
「南無阿弥陀仏」
フランボワーズ・S・ブレル少佐が硬化テクタイトの厚い板ガラスの向こうにある三名の遺体に手を合わせた。両脇の曹長と軍曹は十字を切っている。
「ベルギー人が仏教徒とは意外だな」
背後から声をかけたのはアーヴィング・リップヴァンウッド四世中佐だった。
「私の宗教観は、本作戦とは無関係だ。――何か用か、アーヴィング坊や」
本人ではなく、壁を見ながら笑む少佐だった。
アーヴィングのピンク色をした肌がみるみる赤くなった。
「見舞いに来てやったら侮辱か! 軍法会議にかけてやる!」
隣の副官が中佐と少佐の顔を交互に見た。曹長が壁の電話でどこかに報告している。
「副官、教えてやれ。ここは部外者立ち入り禁止だと。どのセキュリティで入室したか知らないが、私が確認する前に立ち去れ」
「ヨーロッパならいざ知らず、このアメリカで好きにさせてたまるか!」
「中佐」
曹長に耳打ちされた副官が青ざめている。
「なんだ!」
「中佐。拙 (まず) いです。この区画はNATOのブレル少佐の許可がないと勾留されます」
「そもそもアーヴィング・リップヴァンウッドが、報告を遅らせなければこんなことにはならなかったんだがな」
「私が何をしたというんだ!」
「初代だよ。二世もそう。三世は私の部隊をアフリカの戦場に残した。帰ってダディに聞いてごらん? 私が私の部隊がベルギー軍がOTANが世界がどれだけあなたの家族 (ファミリー) に邪魔されてきたのかを」
「私のことならいざ知らず、家族を侮辱されて黙っていられるか! 公 (おおやけ) の場で――」
ノックもなしに、サングラスをした憲兵 (MP) 五名が入室した。
「アーヴィング・リップヴァンウッド四世中佐だな? 退出してもらおう」
巨乳の隊長が命令した。
「離せ!」
「抵抗するな。……もういい逮捕しろ」
「でも……」
口答えする憲兵の幼顔がサングラスでも隠しきれない。
「通報があった以上、対処しなければどちらにせよ処分される。できれば米国の軍法会議がいいぞ。NATOなら公開裁判にされる」
ブラックジョークだ。金のないベルギー軍が裁判をするとは思えない。
「中佐、おとなしくしてください。悪いようにはしません。すぐに保釈されます。――少佐の温情で、軍歴にも残りません」
もう一人の憲兵が囁いた。
「温情だと?」
最後の一言が効いた。
怒りで赤くなった顔が小刻みに震えていたが、両脇を抱えられ連れ去られた。
「失礼しました、少佐。お怪我はありませんか?」
一八二センチメートルはあるだろうか。恵まれた体格だ。
「古傷が痛むくらいだ」
白手袋をした右手で右頬をなでた。IDを見た。
「ご冗談を」#片山五郎兵衛
「マリア・タルスキーか。職にあぶれたら使ってやる。給与は安いが飯は美味いぞ」
「考えておきます」
敬礼して退室した。
「少佐。このままでは済まないでしょう」
軍曹が声をかけた。
「ああPNGだろうな」
ペルソナ・ノン・グラータだ。フランボワーズ・S・ブレル少佐は外交官 (武官) として米国に来ている以上、接受国からの同意を取り消されると「好ましからざる人物」 (PNG) として国外退去処分となる。
「三世中将が四世中佐を釈放するまで三時間。国外退去まで二十四時間といったところですか」
「当初の目的は達した。書類を提出次第出国する」
〝心臓〟を見ながら、少佐が事実を述べた。あとは米国の領分だった。ベルギー軍はOTANの一員として、北大西洋条約機構の任務を遂行した。
どうして米国軍が処理しないのか。証拠と「第三の視点」による報告が必要だからだ。米国は他国に本件を報告する義務がある。そのための調査だった。
万全を期したつもりだった。兵站 (ロジスティック) も完璧だった。しかし、どんな時も予測がつかない状況になる可能性がある。
第二中隊の全滅も想定していたが、できれば全員生きて戻って欲しかったというのが願望だ。責任者は責任を取らなければならない。
「彼らは残していくしかない」
研究材料となる運命だった。
「ヴィクトリアの息子には何と?」
「いくつだ?」
「三つです」
「……日本には七五三という風習がある。子供が神からの贈り物だった時代の名残だ。今日のように一人か二人を産み育てるのではなく、多く産んで生き残りを育てていたころの話だ」#この子の七つのお祝いに
感情を整理するために、無関係なことを述べた。
「あちゃあ……保険の受取人が息子ではなく別れた夫のままですね。手続きしておけと言ったのに」
軍曹のタブリットに詳細が表示されている。
「サインをしたように思う。私のカン違いかもしれないから、確かめてくれ」#偽造しろ
「了解です。間に合わなければこちらで」
指文字でGGI (ジェジェイ) と表現した。
シーザー暗号で三文字戻せばDDF (ヒットエンドラン) だ。轢き逃げは暗殺で多用されている。
DV男に育てられるより施設のほうがまだ愛情深い。
「ふう……彼女、癌 (がん) だったようです」
「どうやって定期検診をすり抜けたんだ?」
「確かめます」#私が偽造しました
「不要だ。――『何もないものからは何も生じない』」
ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『リア王』の一節だ。最愛の末娘の言葉の真意を理解できなかった老王は何を与えず、すべてを失い狂い死にする。登場人物のほぼすべてが死ぬので、四大悲劇のなかでは上演される機会が少ない。
「ベルギー大使館に連絡。三時間以内に退去だ」
「ササキ伍長はどうしますか? 足をくじいたようですが」
女武芸者の佐々木瑠伊 (ルイ・ササキ) 伍長だ。
「残す。労災のついでに有給を消費させろ」
仕事中毒 (ワーカホリック) の軍人など自殺志願者と変わらない。
海軍基地の軍病院からルイ・ササキ伍長が松葉杖で表に出た。
右足首のギプスが真っ白だ。
二人の憲兵が近づきIDを確かめると、バックパックを渡して立ち去った。
そのポケットからスマートフォンを取り出すと、部隊の位置を確かめた。
そこで、部隊がすでに国外退去していること、有給を消化するために残されたことを知った。
「嘘でしょう?」
現実だった。
アイヤ・ヴィヤゾフスカ警部補が額を中指で押さえながら、十三分署に戻った。報告書を出すためだ。一度家に戻ってシャワーを浴びたが、どうせならバスタブにつかっていたかった。
休み明けのサブロウ・トサ警部が手招きしていた。悪い予感しかしない。シャツの襟からでた二重顎 (あご) にそう書いてある。
ライトグレイの縦縞のスーツで細身を装っているが、和服の恰幅のよさを知っているアイヤは「似合わないな」と考えていた。ネクタイもブレイシーズ (サスペンダー) も特注らしい。
ドアを閉めると室内にチャコールグレイのスーツを着た男性が一名座っており、ダークブラウンのスーツの男性が立っていた。
「連邦捜査局 (FBI) ?」
考えるまでもない。
「証拠資料 (エビデンス) をすべて提出してくれ。ヴィヤゾフスカ警部補」
立ったままのM・マクレーン捜査官が命令した。
予告もなくやってきて、事件を鳶 (とび) のようにかっ攫 (さら) っていく。どこが「正義の人」なのかと思うが、誰もが真面目に仕事をすると諍 (いさか) いは絶えない。
「証拠資料 (エビデンス) と言われても――」
「――すべてだ」
座っていたE・アイレンバーグ捜査官が顔も上げず反論した。
証拠資料 (エビデンス) として、ラウラ・フィボナッチとアーシュラ・ワシントン検視官の血液とDNA、それに謎の緑の糸も提出した。まだ病院にあるオシリス・レイス医師の遺体はその後だ。
たっぷり二時間尋問されたあと報告書にサインをしてアイヤは解放された。
毎回嫌になる作業だった。とはいえ、事件からも解放される。
面食らったのは、修理に出していたグロック二三まで持っていったことだった。
「何に使うのかしら」
「面子 (メンツ) があるからな。報告しなければならない証拠資料 (エビデンス) は多ければ多いほうがいい」
この機会にもう一挺増やすことにした。報告書を書くのが手間だし、好きなように改造できない。改造といっても微妙な調整だが、微妙すぎて経費で落ちないのだ。
私用火器について警部に許可をもらい、銃砲店に行こうとした時点で「留置場から出してやれ」と言われてしまった。
亡くなった検視官の妻も相当酷い二日酔いだったらしい。今は酒が抜けているがずっと水を飲んでいた。
アルナ・ワシントンの仕事はフットボール (※) スタジアムの警備員だ。※サッカーではなくアメリカンフットボールのことで、米国では野球より人気がある。
アルナはもっぱら暴徒化した人物 (フーリガン) の暴行を暴行で対応している。それはもう殴る蹴るである。フーリガン自体が薬物を使っている場合もあり、本気で殴っても平気な場合がほとんどだ。体格差もあるが、米国人が・四五ACP弾を崇拝する理由がある。九x一九mmパラベラム弾では暴徒は止まらないのだ。
十三分署でのナホミとアッシュに対する暴行で、アルナは酔いが覚めるまで留置場送りになった。
殴ったことは確かだがそれ以外の記憶はないらしい。
「彼には悪いことをした」
アッシュのことだ。肋骨を二本折っている。
「気にしていないよ」
「彼と親しいの?」
「昨日寝た」
嘘はついていない。事実だ。
「あらそう……。見舞いに行ったほうがいいと思うんだけど」
「もう会わないほうがいい」
「それもそうね」
アルナが手にしていた紙をアイヤに渡した。
ナホミの字だ。
ナホミとしては訴える気はなく、他者が介在する事件ではなく個人の事故として「滑って転んだ」 (ことにする) と書いていた。
アルナもそれに同意らしい。酔っていたとはいえ、不法な暴力は厳禁だった。
「……葬式をしたいんだけれど、遺体を返してくれないって言われたんだけど」
「証拠はFBIが全部持ち帰った」
「空の棺 (ひつぎ) でするしかないのね。何かの病原菌に感染しているかもだから、燃やされるのかしら……」
敬虔なキリスト教徒にとって、肉体を焼却されることは地獄に行くことと同じ意味になる。最後の審判 (ラスト・ジャッジメント) のときに肉体が必要なのだ。
パンデミックを頭では理解していても、心がついていけない人たちは多い。
だからこその宗教なのだが、こと肉体に関してはアブラハムの宗教は弱い。
「娘さんの親権は?」
「わたしが。あんなバカに渡してたまるものですか」
元夫のJ・J・ダグラスはアーシュラのラボからドラッグを盗んで逮捕されて別れている。
それもあって「滑って転んだ」ことに同意したのだ。失職すれば義娘を養育できない。
「あなたたち、お似合いだわ」
アルナが、アイヤとアッシュの二人を祝福した。
「うんうん今から帰るから……わたしは大丈夫だから……そうそう」
貴重品を受け取ったあと、娘に電話しながらアルナが警察署から出た。手を上げてタクシーをひろう。
見送りながら、アイヤが三ブロック先の銃砲店に向かった。
二ブロックまで近づくと「パールハーバー」の看板が見えた。
「ちょっと待ちな」
店に入ると、五十代らしき女性の声が聞こえた。姿は見えないが防犯カメラが数台ある。
「またあんたか」
店主は右目に眼帯をしたポーランド系のマウゴ (※) だ。生まれはフロリダの下町で、パールハーバーに住んだことも行ったこともないらしい。忘れられない店名だが、名前のマウゴジャタには「真珠」 (パール) という意味がある。※英名のマーゴはマーガレットの略。なお、アーネスト・ヘミングウェイは孫娘にマーゴと名づけたが、由来も綴 (つづ) りも異なる。
「銃の名義を変更したい」
スライドをオープンさせたFNブローニング・ハイパワーMk・Ⅲをカウンターに置いた。弾倉は抜いてある。
「ふん」
アイヤの目の下の隈を笑いながら、手元を見ずに分解した。さんざん扱ってきたのだろう。
「見事だ」
分解した部品一つ一つが研磨されていた。光っている。
「私なら五〇〇〇ドルもらうね」
微調整はかなり高い上に、シビアでズレやすい。
「マガジンセーフティを外している割には経年劣化が少ない。それでいて昨日撃っている。持ち主から贈られたのかい?」
組み立てる。
マウゴが言っているのは「お悔やみ」で「持ち主が死んだんだろう」というブラックジョークだ。人が悪い。
「コックアンドロックもしていない。純粋なお守り (アミュレット) だったんだろうね。軍人、それも将校だね」
将校はふつうコックアンドロックで持ち歩いたりしない。薬室に銃弾が入っている状態で撃鉄を引き起こしたまま (コック) 安全装置で固定 (ロック) していればいつでも銃を撃てるが、暴発の危険性もある。将校が必要にかられて使うのは一度だけだ。
「眼福眼福。シリアルはと……」
インターネットに接続した。米国で登録されたものなら、すぐに表示される。
「ベルギー……。地元って訳かい」
犯罪に使われている場合の照会はすぐだが、それ以外では個人情報を保護するためにすべては表示されない。
「Aiya Viazovska……。変更しといたよ」
提示された名刺を見ながら、ウクライナの英名をドルリー・レーン (※) のように二本指でタイプしたあと、アイヤに画面のQRコードを提示した。※推理小説『Zの悲劇』の探偵。
スマートフォンで読み込む。プリントアウトもあるが、これが正式な登録証が発効されるまでの仮登録証になる。
「アイヤなんて聞かない名前だね。どんな意味なんだい?」
「ヘブライ語で『鳥』あるいは、ウルドゥー語で『コーランの奇跡の詩』」
ヘブライ語はイスラエルの公用語で、ウルドゥー語はパキスタンの国語でインドの公用語の一つでもある。
「で、あんたはどっちなんだい?」
「あのお……すみません」
入ってきたのは、松葉杖をついたサムライ姿の美しい少女だった。腰に人斬り包丁が二本ある。
「〝射程四〇〇可変式プラズマライフル〟はうちにゃあないよ」#ターミネーター
「そんなもの撃ったらボストンが半分消えちゃいますよ。――この近くに十三分署はありますか?」
少女はオタクだった。
「十三分署に何か用?」
アイヤが答えた。ジャケットを広げ、腰のバッジを見せた。
「トオ・イバラキという女司祭 (プリーステス) を探しています。電話もつながらなくて」
「女司祭 (プリーステス) ? アンチ・キリストじゃあないだろうね?」
マウゴの黒真珠のような瞳が大きくなった。ポーランド系の宗教はカトリック教会だ。女司祭 (プリーステス) など、悪魔そのものだろう。
「トオ・イバラキなら、サ=イズミ記念病院にいるわ。――充電器を部隊に忘れたらしくて」
「ありがとうございます。サ=イズミ記念病院ですね。――わたしのと同じなので大丈夫です。ところで、どちらさまでしょうか。わたしはルイ・ササキ、ベルギー人です」
「ベルギー?」
「今は休暇中で、友人のトオの家に泊まる予定です」
「トオに家ないでしょうに」
アイヤが反論した。今夜の宿を気にしていた。
「あーあ違いますね。トオの友人の家に泊まる予定です」
「アッシュの家?」
「あっはい、ミスター・アッシュの家です」
「ミスター・アッシュって、アッシュ・ガウロン?」
マウゴも知人らしい。
「そうですが、何か?」
「いや、あの子は昔から女運がないからねえ」
右手で銃を撃つ真似をする。どうやらアッシュの先生らしい。
「会ったら顔を出すように言っといとくれ」
手数料をクレジットカードで支払うと、アイヤがルイを連れて病院に向かった。
到着するころには、トオ・イバラキ女司祭 (プリーステス) がオシリス・レイス医師の遺体やその他の残されたものにドーマン印 (いん) を描き終えていた。
「こんなもので封印できるのか?」
縦四本・横五本の線で描かれた封印だ。なお、星形のセーマン印が使われる場合もある。
「簡単な結界ほど破 (やぶ) れにくいですから。それに意思がないと解 (と) けません」
アイヤの質問にトオが答えた。
「誰かが解いたら?」
「また封印するだけのことです」
察するに海軍が原因を解明したらしい。内容は教えてくれないし、知ったとしてアイヤには意味がない。
ただ、日本の呪術が有効だと証明しただけだ。
「これはドーマン印と言います。籠目 (かごめ) の意思です」#天網恢恢疎にして失せず
「焼却しないのか?」
「研究材料です。――これが〈最後の大隊〉 (ラスト・バタリオン) ですから」
「ナチスは気が狂っている」
「意匠 (デザイン) は日本人です。ワニオウ・サ=イズミ医学博士。この医療法人〈悠京会〉 (ゆうけいかい) の創設者です。本来は永遠の命の研究だったそうです」
そのためには高水準の医療施設が必要だったのだろう。
「二度と関与したくない」
「はいその予定です」
「大学は?」
アイヤが眉を細めた。妖艶でもある。
「海軍が処理しています。私たちにも関係ありません」
海軍にも封印できる人材がいるのだろう。
「……泊まる宿は?」
すべてが終わったので、相手を気遣う余裕ができた。微笑む。
「ミスター・アッシュの家に」
ルイが答えた。
「FBIが封鎖している」
「問題ありません。あの家は海軍のものですから」
自分で買ったと聞いていたアイヤだが無視した。もはや関係ないのだ。