急2
2.
アイヤが深呼吸をした。頭が痛いことだらけだが、方策はある。
落ち着くために紅茶を淹 (い) れることにした。
棚をみると、アッシュは紅茶党らしく定番のフォートナム・アンド・メイソンや象の意匠 (デザイン) のウィリアムソン・ティーの缶が並んでいた。
フランスのマリアージュフレールのダージリンをいただいた。
ナルミの茶器が美しく、香りを彩っていた。
「ところで――〈セイレーン〉とは? 魔女 (ウイッチ) ではないような言い方だったが?」
豊かな香りに包まれながら、質問した。
「〈セイレーン〉は恐怖の〝叫び声〟です。ミスター・アッシュといっしょにいれば、感じたことがあるはずですが。――実際には聞こえないのですが、心が強く導 (みちび) かれます」
あたたかい紅茶に冷たいミルクを注ぎながらトオが答えた。なお、英国式のミルクティーの飲み方は先にミルク、次に紅茶らしい。
「……あれか」
アッシュと訪れた古城で聞いた心証に訴える〝叫び声〟だ。
「『触 (ふ) れてはいけない』という警報 (サイレン) か?」
「はい。そもそも警報 (サイレン) の語源ですから」
ミルクを入れすぎてぬるくなったらしく、おかわりした。
「ユングの〈太母〉 (グレートマザー) のようなものか?」
「元型……。どちらかというと〝ファム・ファタール〟かと」
フランス語の〝ファム・ファタール〟を訳すなら「運命の女性」といったところか。欧州の男性の破滅願望の象徴だ。ギュスターヴ・モローのヘロディアの娘 (サロメ) が描かれた『出現』に世界は魅了されてしまった。触発されたオスカー・ワイルドは戯曲『サロメ』を書き、オーブリー・ビアズリーが挿絵を描いた。リヒャルト・シュトラウスは戯曲を元にオペラ『サロメ』を作曲した。困ったことに〝ファム・ファタール〟は霊感 (インスピレーション) を与えるミューズでもある。#ばるぼら
なお、イエス・キリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を求めたヘロディアの娘の名は残されていない。
「ミスター・アッシュはいわば炭鉱のカナリアです」
炭鉱では有毒ガスが発生することがあり、歌い続けるカナリアが鳴き止むことで危険だと知らせてくれるのだ。現代でも使われており、一九九五年の山梨県上九一色村のオウム真理教施設に対する強制捜査の際に捜査員が携行していた。
「猫の鈴か……」
紅茶は美味だった。おかわりする。
「魔女 (ウイッチ) とは? あの心臓のないものか?『一つの事象』とは?」
「敵はたった一つの事象です。わたしたちはそれを〝人形遣い〟 (パペッティアズ) と呼んでいます」
「〝人形遣い〟 (パペッティアズ) ? 複数の犯行?」
「一つの事象です。あるいはすべての事象と言ったほうが理解しやすいでしょうか」
「ワンフォーオール、オールフォーワン? デュマ?」
一般的にはアレクサンドル・デュマ・ペールの『三銃士』からの引用だと言われている。
「デュマ・ペールも書いていますが、当時のスイスでは一般的に言われていたそうです。一人に帰すというより格言に近いようです」
どこにでも賢い人はいる。
「その魔女 (ウイッチ) である〝人形遣い〟 (パペッティアズ) はどうやったら倒せるんだ?」
「不明です」
それはそうか。だからこそ、北大西洋条約機構 (NATO) が対応している。軍隊レベルでないと対応できない事象……。
「いや、そもそも存在しないと言ったな?」
「はい。魔女 (ウイッチ) は存在しません」
「それは、存在していては困るという意味か?」
「わたしには答える権限がありません」
「では、どうやって――」
吐息が一瞬で白く変わる。空気が冷たくなった。
アイヤが前に経験した感覚だった。
〈セイレーン〉だ。恐怖の〝叫び声〟が脳内に響 (ひび) く。
二人が静かに廊下のほうへ顔を向けた。
トオがテーブルの上にあったアイヤのグロック二三のスライドを引きながら、入り口に照準を合わせた。
「スライドを引いてください」
女司祭 (プリーステス) が「武装しろ」とやさしく言った。
九x一九mmパラベラム弾の「パラベラム」とはラテン語の警句である「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」の後半部分だ。いつの世でも力がなくては世界は変わらない。
アイヤの手が震えて、動かない。座っている膝がゆれていた。立っていたら腰が抜けていたに違いない。
〈セイレーン〉の音量が最大になった。
静寂。
もう警告もない。
敵はその向こうにいる。
「その魔女 (ウイッチ) である〝人形遣い〟 (パペッティアズ) はどうやったら倒せるんだ?」
「不明です」
それ (イット) は天井を這って顔を出した。
〝人形遣い〟 (パペッティアズ) が下半身をひねって、二人の前に落ちる。
トオ・イバラキが・四〇S&W弾で胸を撃つ。
それ (イット) が、身をかわして、キックしようとする
トオが、撃てないアイヤの肩を押してそれ (イット) との間に割り込ませた。
アイヤがキックを避けずに掌底で受け身をとりつつ、スライドを引いて撃つ。
ダブルタップ。
ティーカップが割れて飛んでいく。
それ (イット) の顔に二つの穴が空いた。ゆっくりと流れる血。
「胸!」
アイヤが立ち上がりながら、その言葉のままに胸に銃弾を撃ち込んでいく。
銀は鉛より比重が軽い。
それ (イット) は銀弾を手で払った。「五月蝿 (うるさ) い」とでもいうように。
撃ち尽くしたトオが、アイヤの背中のSIG SAUER P二二九を抜いて撃つ。
鉛の・四〇S&W弾がそれ (イット) の胸に消えていく。
冷静になったアイヤが、その援護で正確に心臓に撃ち込んでいく。
跳弾が右の腓骨を折り、それ (イット) が倒れた。骨が白く見えている。
弾のなくなったP二二九をテーブルに置きながら、トオがアタッシェケースから予備の弾倉を出した。
アイヤが撃ち尽くしスライドがオープンになった。それ (イット) から視線を離さず、渡された予備の弾倉を入れ、撃ちながら近づく。
折れた足を投げつけるような反動で立ち上がったそれ (イット) が、三本の手足で後ずさり玄関から外に出ていく。
追おうとするアイヤをトオが止めた。
「行き先は分かっています」
「〝あれ (イット) 〟は何?」
「ですから、魔女 (ウイッチ) は存在しません」
「巫山戯 (ふざけ) るな!」
アイヤ・ヴィヤゾフスカ警部補が、トオ・イバラキ女司祭 (プリーステス) に詰めよった。
それ (イット) は、アッシュ・ガウロンだった。その心臓は刳 (く) り抜かれていた。
「銀 (シルヴァー) は効いたようですね。それと、本人の持ち物だったものは多少なりとも影響があるかと考察します」
トオの右手の甲にティーカップの破片が刺さっていた。
「あれは、何だ?」
「一つの事象――魔女 (ウイッチ) 〝人形遣い〟 (パペッティアズ) です。天災のようなものです」
自然災害で軍隊が出動した。
片手でアタッシェから止血剤と包帯を取り出した。
「人間なのか?」
「わたしには判断する権限がありません」
「そういえばさっきあなた、私を盾 (イージス) にしたわね?」
「あなたが生き残る可能性を高めただけです」
止血剤を口にしながら、右手に刺さっていた茶器の破片をゆっくりと引き抜いた。
トオ・イバラキが左手で器用に傷口を縫 (ぬ) っていた。
「アッシュは炭鉱のカナリアではなかったのか?」
アイヤが冷凍庫にあったマウントゲイをロックグラスに入れながら肩をすくめた。残り少ない。
上質なラム酒は自棄酒 (やけざけ) には高級すぎる。
注がれた酒でグラスが凍る。
「不明です。警部補――一つ言わせていただければ」
トオもショットグラスで一口飲んだ。
とたんに顔が赤くなる。
「何なりと」
二杯目を注ぐと空になった。
「何事にも失敗する可能性があります。ですからプランBがあります」
「では、プランBを」
「市内を封鎖して、都市区画ごと焼却します」
「どう考えても、延焼するでしょうに! どっかの女神さまが水芸やってるのと訳が違うのよ? プランCは?」#このすば
「自然消滅を待ちます」
「とても建設的な作戦だとは思えませんけれど、女司祭 (プリーステス) 」
「前回はそれで解決しました。あの魔女 (ウイッチ) に残りの生贄 (いけにえ) を与えれば眠りにつきます」
「『市民を見殺しにせよ』と?」
「それも一つの解決方法です」
「……あと何人? というか……。それには私も入っている?」
「わたしには答える権限がありません」
数に入っているらしい。
「男運ないわ……。せっかくのハンサムだと思ったら、化物になっちゃうし」
「魔女 (ウイッチ) です」
「知ってるって。あんなのが大量に来たらどう対処しろってのよ」
玄関につづく廊下にヘッドライトの光が差し込み消えた。家の前の道を車が通り過ぎた。
「警部補」
「あに?」
「それ死亡フラグです」
外で何やら物音がした。