序1
『残銀の魔女』(ぎんのこしのまじょ)
〝Silver Retention〟
序
1.
宵闇のボストンに冷たい雨が降っていた。
聖ルチア大学の時計台の長針がちょうど零時をさした。
濡れた路面にうつるネオンが消えていく。
いつものように三秒遅れで鐘が十二回、時を刻んだ。
アルファロメオ ジュリエッタの助手席のラウラ・フィボナッチが小さな声で「ごめんなさい」と謝った。
銃声。
ラウラは胸を撃ったが、そこにあるべき心臓がなかった。
カラシニコフ コンツェルンのレベデフ ピストルPL−一五K――ロシアの銃が床に落ちた。
ライトブラウンの髪に同じ色の瞳の美しいラウラが死んでいた。
セイコーミリタリーの時刻は六時五分前。雨が止んでから二時間になる。
十三分署の香西なほみ (ナホミ・コウザイ) 警部補 (ルテナント) が口をへの字にしていた。ボブカットの緑髪にヘーゼルの瞳のスレンダーな美女だ。黄琳玲 (ファン・リンリン) デザインのパンツスーツにバーバリーが凛々しい。
別にナホミは、ラウラのフリルのついた白い正絹のブラウスにチェスターコートを肩にかけただけの寒そうな姿に悩んでいる訳ではなかった。
「死亡する前に、心臓がなかった可能性があるわ」
アフリカ系にしては色白のアーシュラ・ワシントン検視官もマスクの下で美しい顔を歪ませた。
頭の痛い事件だ。
アーシュラがあさっての方角を見た。笑う。
「来たわよナホミ」
「遅い」
ナホミよりやや背の低い日系のアッシュ・ガウロンが手をあげた。増永の金縁眼鏡をかけたハンサムだ。しばらく美容院に行っていない黒髪を整髪料でオールバックにしている。
「やあ……」
美声の青年がチャコールグレイのスーツを見事に着こなしている。クリース (※) は甘くない。※スラックスの折り目。
「探偵 (プライベート・アイ) が現場に呼ばれるのは名誉なことなのよ?」
ナホミがロープを引き上げ、手袋をするアッシュがくぐった。
眼鏡を正して、遺体をみた。アッシュの目はダークブラウンだが、右のほうが淡い。左右のコントラストが違うため、違和感を知ることができる。
もっともそうした差異は現代の科学では簡単に解析可能だ。
名探偵などもう世界には存在しない。
「ラウラ……犯行現場はここだとしても、死体 (ボディ) の心臓 (ハート) はどこなんだ?」
手をあわせたアッシュがBBC英語で聞いた。
「わたしが聞きたいから呼んだんだけど。彼女 (バディ) の心 (ハート) を盗んだんでしょう? 陳情がきてるわ」
「誰から? 死人に口なしだろうに」
「マリオ。マリオ・フィボナッチ。ラウラ・フィボナッチの父親。聖ルチア大学の理事長にして――」
「――ドン・フィボナッチ」
著名なIM (イタリアン・マフィア) のボスだ。この街ではJFK (ジョン・F・ケネディ) より知られている。
「今日の零時前後のアリバイは?」
「ナホミさん。君といたんだけれど……」
「それをわたしが証言すると思う? 証言したとしてマリオが信じると思う?」
「ないな」
重い頭を傾けた。視界が歪む。
「真実と事実は違うものよ、アッシュ。特に信じたい事実とはまったく違う」
「――アリバイ不十分で容疑者として収監してくれ」
マフィアの尋問より警察の取り調べのほうがマシだ。
「賢明 (スマート) 。手を後ろに。ミランダ警告は言える?」
「ああ……『あなたには黙秘権がある』『あなたの供述は』――ちょっと痛いって」
アーシュラがアッシュの頭に布を被せた。
どうやら相手の予定通りらしい。
視界がもどった時、アッシュ・ガウロンは静かな書斎にいた。
目の前には、ロシア系のグラマーなべっぴん。金色 (こんじき) の髪に琥珀 (アンバー) の瞳の美女。二十一歳にして、ROC (ロシアン・オルガナイズド・クライム) の幹部だ。
「驚かないのね?」
日本人の表情は読み取りにくいが、アッシュは本当に無表情だった。
「イタリア人は躊躇 (ちゅうちょ) ないからね」
癇癪玉 (かんしゃくだま) が人間になったようなイタリア人が夜明けを待つはずがない。
「名前をどうぞ」
女性が美しい手をさしのべた。ハンサムは手錠のまま歩みより膝をつき、手にキスをした。
「知っているだろう? それにこうした場合はそちらから名乗るものでは? 他の誰かと誤 (あやま) っている可能性もゼロではないのだし」
「昔の女の名を忘れたの? アッシュ、アッシュ・ガウロン」
女性がアッシュの背後にまわった。さっき彼女がいたところにカメラがあった。赤いランプが点灯している。
「覚えているよ。ソフィア・ヴァシーリエヴナ。――何かの誤ちでは?」
ロシア人にとって、相手を名前・父敬で呼ぶことは信頼のあつい表現になる。
「私は、ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コルヴィナ。――〝過 (あやま) ち〟は、ない」
ロシア名は一般的に名前・父敬・姓名の順にあらわされる。フョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』のヒロインと同じ名はそのまま個人の名前だが、父敬と姓名がやや複雑だ。ミドルネームの父敬は父親の名前の変化形になる。ソフィア・ヴァシーリエヴナ・コルヴィナの場合、ソフィアの父がヴァシーリ・ヴァシーリエヴィチ・コルヴィンだから、父敬はヴァシーリからとられて女性名のヴァシーリエヴナになる。ソフィアの祖父も同じ名前のヴァシーリなので、父親の父敬は男性名のヴァシーリエヴィチとなる。姓名も女性の場合はコルヴィナに、男性はコルヴィンになる。もっとややこしいことに、ソフィアの兄の名前もヴァシーリ・ヴァシーリエヴィチ・コルヴィンなので、アレクサンドル・デュマのように小コルヴィン (コルヴィン・フィス) と呼ばれている。父を大コルヴィン (コルヴィン・ペール) と言わないこともないが、組織のボスをそう呼ぶことはない。
「本人だと確認できましたので、始めましょうか」
「尋問? それとも裁判?」
後ろ手の手錠が鳴った。痛い。
「あなたにとっては同じことでしょう?」
「有罪だった場合はどうなる?」
「第三者である私が関与するところではないわ。――では、質問を」
「黙秘権はあるのか?」
「どう考えますか?」
ないらしい。
「ミスター・アッシュ、非常に頭がいいと伺 (うかが) っていますが、本当ですか?」
「困ったことはない。それが何に、本件に関与するのか?」
「それを判断するのが私の役目です。――たとえば『インターネット販売の会社は、どうして〝くだらない〟カスタマーレビューを削除しないのか』を考えたことはあるかしら?」
意図的な質問だった。おそらくソフィアのフロント企業が星一つの評価で困っているのだろう。チャイニーズ・マフィアは巧妙だ。
「答えは――」
「――答えはあるのね? はっきりとした、誰にでも分かる、答えが」
ソフィアが笑った。輝いている。
「あるよ。論文がある」
「ネットで公開されている? 題名は? 著者はどなた?」
顔が近い。いい香りがする。
「さあどうかな。書いたのはわたし。題名は……忘れた」
「忘れたの? 思い出しなさいよ!」
スマートフォンを片手に、美しさはそのままにソフィアが怒った。
「ああ……どうせあなたには読めないよ。日本語だから。――ゲーム理論だよ」
聖ルチア大学ではなく、神戸にある茶泉 (さいずみ) 学院大学時代の論文だ。
「ゲームの理論?」
「カン違いしている。どうせあなたには――そんな顔をするな――わたしだってゲーム理論を完全に理解することはできない。――前に慶應義塾大学経済学部の狩野穂 (かのうみのり) 教授の講義を受けたことがある。京都大学経済学部を卒業したあとロチェスター大学で博士号をとった人だ」
「ロチェスター? 天才?」
「そう天才の一人だよ。その教授があるときゲーム理論の泰斗 (たいと) (※) の講義を受けたんだ。当然、学ぶ人間は教授と同じ天才ばかり。だが、泰斗が黒板に書きだしたとたん、全員が頭を抱えた。天才連中がまったく理解できなかったんだ。それだけゲーム理論は理解できない」※第一人者。
「あなたの評価は?」
「何?」
「講義を受けたのなら評価をえたのでしょう? S? A?」
成績だ。五段階でDは「不可」だから単位はもらえない。
「A」
「あなたも天才なの?」
「いいや。あんな化け物と比べたら自分の平凡さが笑える」#雨の日は無能
「……答えは?」
「あなたも考えてから答えては?」
「この二月 (ふたつき) えんえん考えたけれど分からなくて、知っていそうな彰子 (あきこ) さんに頭を下げて聞いたのに鼻で笑われたわ!」
ボストン大学の平橋彰子 (ひらはしあきこ) 教授だ。
たぶんだが、笑ったのではなく (基礎を学んでいない人物に) 自分が教えられないので自嘲したのだろう。そもそも彰子は天才だが専門が違う。日本美術史だ。
せっかくの学園都市ボストンなのだからハーバードにでも聞きにいけばいいのだが、聞いたとして理解できなかったのかもしれない。
「答えは?」
「『マイナスのレビューを削除しないことが、強力なシグナリングになっているから』だよ。シグナリングは戦略的行動の一つで、この場合マイナスのレビューを削除しないことが重要になる」
「削除したいのに、削除しないほうがいい結果になる?」
「そういうことだ。より分かりやすく言えば『プラスのレビューを捏造 (ねつぞう) していない』証拠になる。仮に『プラスのレビューを捏造している』とすれば、顧客は何を考える?」
「信頼の否定、裏切り……。そうですか、逆に削除しないことで、販売するほうを守っているということですね」
理解したらしい。もっとも、ゲーム理論では「『レビューに手を加えていない』というシグナリングがある」のみだが、これをそのまま言っても理解できないだろう。理解できるまで複雑に考えてしまうが、理論はより単純で美しい。オイラーの等式〝e^iπ + 1 = 0〟のように。#オッカムの剃刀
「レビューを加工していない……なるほど」
アッシュと同じくソフィアも聖ルチア大学を中退しているが、決して賢くない訳ではない。むしろ在学中は先輩のアッシュよりも成績は上だった。
数 (すう) 的な思考は神から贈られた才能 (ギフト) によることが大きい。
ただ、数学の素養がなくとも強欲は関数を歪 (ひず) ませる。
「結論を述べると、これだけ賢い人間が、計画性もなく感情的に人を殺めるとは思えない。それに、本当に人を殺めるのであれば、その事実も消してしまうはずです。――とはいえ、心臓はどこにありますか?」
「知らない。知りたくもない……移植したとか?」
ありえる話だ。
「ではなぜ彼女は心臓がなくなってからも生きていたのかしら?」
「ふつう――」
「――ふつうではなくても、生きていないですよ?」
「オカルトっぽいね」
ふつうにオカルトである。
「名探偵の登場よ」
「誰が依頼するんだ。――ああ」
思い当たったらしい。うなだれた。
「やるよ。やればいいんだろう」
「そうこなくては」
さきほどと同じように美女が手をさしのべた。キスをしたあと、探偵が鍵を受け取った。
肘側の鍵穴に手をまわし手錠を外しながらアッシュが玄関に向かった。
「相変わらず器用だこと」
「今でも未練があるんですか?」
ソフィアに、後ろに控えていた二人組のメイドの一人がカメラからデータカードを抜きながら質問した。
グラマーな美女三姉妹のエル・ウルドゥル、エム・ヴェルダンディ、エヌ・スクルドが交代で護衛をつとめている。束ねられたダークブラウンの髪と同じ色の瞳が冷たい。
「私、声フェチなのよ」
微笑 (ほほえ) むソフィアが唇を噛んだ。
イイ声で鳴くらしい。
性癖を聞いたエム・ヴェルダンディが袖に隠したナイフを確かめた。
殺気を背後に感じながら、アッシュが十三分署のパトカーの助手席に乗り込んだ。
「裏切者」
「女は裏切るものでしょう? それに、アレ、カラシニコフを突っ込まれたのよ」
ニコンのサングラスをするナホミが、朝日にむかって車を走らせた。アッシュがサンバイザーをおろしたあと、ナホミの匂いをかいだ。
「カラシニコフ? ……彼女か。バイセクシャルだったのか?」
「どうでもいいでしょう今そんなこと」
「ふう……別れよう」
「えっ?」
驚いたナホミが右を見た。
「前」
アッシュがステアリングをサポートした。
「あの……」
伏目がちにナホミが言った。
「何?」
「そもそも付き合ってないわよ私たち」
ゆっくりとアッシュが左をみた。瞬 (まばた) きする。美しいナホミの横顔。
「それにソフィアと付き合ってたって初めて聞いたわ」
一瞬、瞳でアッシュを見た。
「わたしもあなたの過去を聞いていない」
「だって生きているじゃあない」
無茶苦茶なことを言いだした。
病気や事故で不幸な死をむかえた恋人をナホミが殺めていたとしても不思議ではないが……。
「彼女、ROC〈コルヴィナ〉のボスなのよ」
「〈コルヴィン〉だ。父敬が違う。〈コルヴィナ〉――ボス?」
ROC (ロシアン・オルガナイズド・クライム) は、IM (イタリアン・マフィア) と敵対関係にあった。過去形。
「悪い夢だ……。コルヴィンは?」
額に手をやった。
「証拠はないけど、たぶん彼女がコルヴィン・ペールを殺してトップになった」
「ヴァシーリは?」
「フィスは組織を抜けて事業に専念するそうよ。『儲からない』って言っていたわ」
「道が違うぞ」
「そのコルヴィン・フィスの商談よ」
ドン・フィボナッチは結果だけを求めている。