コンドルの花嫁
強く冷たい風の吹き上げる断崖絶壁の洞窟。
マリーは崖下を見下ろして、何度もため息をついた。
ここから逃げる事はできるのかしら。いいえ、絶対に無理だわ。
洞窟はそれほど広くない。薄闇に包まれてはいても、全体が見られるほどの広さだ。自分の家の部屋二つ分くらいに見える。端には寝床だろうか、乾いたわらが積み上げられている。
マリーはつい先程ここに連れられてきた。コンドルにさらわれたのだ。
気付かなかった自分を呪う。コンドルは若い男の姿で近づいてきた。マリーはたまたま一人で牛の世話をしていた。見かけない若者はとても礼儀正しく、とても魅力的だった。マリーは少し心をときめかせ、一緒に昼食を食べないかという若者の申し出を受け、それから空に飛び立った。
気づいた時には遅かった。昔、祖母が言っていた。時々、コンドルが若い娘をさらいに人里に降りてくるという話。まさか自分がそうなろうとは。
自分はこれからどうなるのだろう。コンドルは私を食べるつもりだろうか。
コンドルは自分をここに連れてきて、お前はこれからここで暮らすのだと言った。
それがどういうことなのか、マリーにはわからない。ただ、恐怖と不安でいっぱいだった。優しい母親と物静かな父親の顔を思い浮かべ、マリーは涙を流した。おそらく彼らに会えることはもうないのだろうと。
コンドルはマリーを洞窟に連れてきたあと、すぐにどこかへ飛んで行ってしまった。早く逃げ出さなくてはと思ったものの、ここが切り立った崖の中腹にあることを知り、どうにも動けないと悟ったのだ。
夕方、コンドルが帰ってきた。口には何かはわからないが、引きちぎったような生肉をぶらさげている。したたる血のむせかえるような匂いにマリーは吐き気を覚えた。
コンドルは肉をマリーの方に放り投げた。どうやらこれが食事らしい。
マリーは食べたくなどなかったが、コンドルはわらの上に体を沈めた後、マリーの方をじっと睨むようにしてうかがっている。とは言え、血まみれの生肉にかぶりつく気は全くない。しばらくしてからコンドルは諦めたように目を閉じ、眠ったように見えた。
コンドルの視線から解放されて、マリーは少しホッとした。なるべくコンドルから離れた位置で体を横たえる。喉の渇きと空腹がひどく、硬い石の床は夜になると冷えて、マリーはなかなか眠れなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
朝日が昇る少し前にコンドルは目を覚ました。
昨日連れてきた娘は藁の寝床とは反対側の隅っこに、小さく背を丸めて眠っている。昨日渡した食事には一口も口をつけていないようだった。
コンドルは心配になった。
大体、人間が何を食べているかなど知らないのだ。自分としては最上級の食事(捕まえたばかりのイワウサギのわき腹の生肉)をあげたのだが、やはり違うものがいいのだろうか。
コンドルは少し身を動かした。娘が気付いて目を覚ますかと思ったのだが、その気配はない。もう少し翼の音を大きくさせてみたが、起きる様子は全くない。
コンドルは娘に近づいた。少し口を開けて、ぐっすりと寝入っている。よく眠っているようだが、石の床に直接寝ていて大丈夫だろうか。一緒に眠れば、やわらかい藁の床に温かな自分の羽毛で包んでやれるしもっと快適にできるだろうが、さすがに寝床を共にするのはまだ早いだろう。ひとまず藁を分けて寝床をしつらえてやることにしよう。
瞼は少し赤くはれているようで、頬には涙の後がついていた。これから朝食用に何か彼女の好きなものをとりに行こう。美味しいものを食べれば、きっと元気も出るだろう。
飛び立つ瞬間の緊張感はいつも心地いい。地面から足が離れた直後、落下する一瞬の身に走る快感。東から大きな太陽が顔をのぞかせている。はるか下の谷底から清冽な風が体いっぱいに吹き付けてくる。コンドルはふわりと宙に舞った。
まずは人間が何を食べているか、もう一度確認しなくては。
コンドルは真っ直ぐに谷底の川へ向かった。
そこにはヒキガエルがすんでいる。
その中の一匹は昔人間の猟師だったが、コンドルが魔法をかけてカエルにした男がいた。
「おい、カエル」
「おはようございます、コンドルさん。昨日の娘はどうしています。とっても喜んでいるんじゃないですか」
「いや、そんなふうじゃない。食事には全く手を付けないし、ひどく疲れているみたいなんだ」
ヒキガエルは内心あざわらった。
昨日、人間の娘は生肉が好物なんだと教えたのはこのヒキガエルだった。
「なあに、それはいい事ですよ。人間の娘は、自分の嬉しさを表に出さないのが礼儀なんですからね。始めの食事は辞退するのも礼儀です。さすがあなたの選んだ娘さんだ。とっても礼儀正しいんだなあ。いやあ、感心しますよ」
「そうなのか。それは知らなかった」
「そうですとも」
「これから朝食を、と思っていたのだが、じゃあやはり彼女には肉をあげればいいのかな」
「もちろんですよ。最高の食事です。ああ、ヤマヤギの生肉なんかいいんじゃないですか」
「そうか、わかった。それなら私も好物だ」
再び空に舞い上がるコンドルを、ヒキガエルは薄笑いを浮かべて見送った。
◆
コンドルは上空からヤマヤギを探しながら、物思いにふけっていた。
人間とは何とやっかいな制約に縛られているのだろう。ヒキガエルが色々教えてくれるから助かっているが、自分じゃそんなことはとても思いもつかない。何しろ、結婚するにも一苦労らしい(とコンドルには思えるが、人間にとっては普通なのだろうと弁えているつもりだ)。
好きな娘がいると打ち明けると、ヒキガエルは大喜びで何かと相談に乗ってくれた。
まず、娘を自分の家に連れてくる事。一緒に暮らすこと。その際、男は好きだとか、愛しているとか言ってはいけないこと。そういうことを口にすると、女は侮辱されていると思うらしい。わざわざ言葉にしなくてもわかっているはずの事を言われると、自分がわかっていないとバカにされていると思うらしい。
優しい言葉や態度もいけないそうだ。女の望みや願いを聞く事もタブーだ。男は何でもドンと構えている必要がある、それが女に安心と幸せを与えるのだ、とヒキガエルは言った。
何て複雑で、ややこしい馬鹿げたことだろう。本当なら、コンドルは娘に精一杯優しい言葉をかけてやりたかった。けれど、人間の暮らしと自分の生活が違うこともわかっているから、なるべく娘の習慣に合わせようと思っている。娘がそういう考えの社会に暮らしていたのなら、自分が合わせればいいだけだと思う。
さっきもう一つややこしいことを聞いた。女も感情を出さないらしい。好きなら好き、嫌いなら嫌いとどうして表現しないのだろうか。嬉しいなら笑えばいいし、辛いなら泣けばいい。それだけのことなのだが。
人間はとても厄介だと思った。意味のわからない事が多すぎる。
それでもコンドルはなぜだかマリーを好きになってしまった。
理由などわからなかったが、ひと目見て、ああ、この娘だと思ってしまったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
毎日毎日、動物の生肉だ。
マリーは心底うんざりしていた。体の具合も当然のように良くなかった。
コンドルが出かけたすきにこっそり火を起こし、何とか食べられるようにはしたが、そうそう肉ばかり食べてもいられない。じゃがいもや新鮮な野菜、果物、ヤクの乳やチーズが食べたかった。それに水浴びもしたい。
マリーはこっそり洞窟を抜け出そうとした。
崖の下からは強い風が吹きつけ、一瞬ひるみはしたものの、このままでは遠くない将来、ここで死ぬ事になる。そう自分に言い聞かせて、マリーはそろそろと崖を降り始めた。
半分も行かないうちに、マリーの両腕はしびれて感覚がなくなり始めた。
どうしよう。
戻るにもすでにその体力はない。降りる事もこれ以上無理かと思われた。
その時、険しい鳥の鳴き声が聞こえた。マリーは両腕だけではなく、全身がこわばるのを感じた。疲れとは違う震えが走る。
思ったとおり、コンドルが猛スピードでマリーに向かってきた。
ばれた。きっと殺される。
マリーは覚悟した。コンドルの爪が背中をつかみ、まっすぐ元の洞窟に向かって上昇していく。長い時間をかけて降りたはずの距離は、いくつか瞬きをする間もかからなかった。服の上から感じるコンドルの爪の冷たさにマリーは心底恐怖を感じた。
洞窟に戻ると、コンドルは恐ろしいほど低い声で言った。
「何をしていた」
マリーは恐怖を必死に押し殺し、逃げようと思ったことがばれないように祈りながら、それでも震える声で言った。
「あの、水浴びがしたくて、それで下の川まで行きたくて」
「そうか」
コンドルは自分が逃げようとしていたことに気付いていないのかもしれない。マリーは絶望から少しだけ顔を上げる。
「それなら、私が降ろしてやろう」
今度こそマリーは驚いた。コンドルがこの洞窟から自分を出すなんて。
しかし、その驚きと一瞬掠めた希望はすぐに潰える。コンドルはマリーに丈夫なロープをほどけないように巻きつけ、そのもう一方を自分の足に結わえたのだから。決して逃げられない。頑丈な枷。
◆ ◆ ◆ ◆
マリーを背に乗せ、下の川原に向かう間もコンドルの動悸は治まらなかった。
焦った。後一歩遅ければ、マリーは谷底にまっさかさまに落ちていただろう。
そのことを考えると、たまらなく恐ろしかった。垂直に落下する彼女、谷底にたたきつけられれば命なんてひとかけらも残らない。後で彼女の残りの欠片を探し回らなければならないところだった。
そう考えただけで、コンドルは頭がくらくらした。
今だって本当はとても不安だ。
もしも、彼女が背中から落ちてしまったら?
いくら命綱のロープを結んではいても、不安は消えなかった。
コンドルはいつも以上に、嵐の日よりも慎重に飛んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
川原に着くと、コンドルは洞窟に戻っていった。水浴びが終わればロープをひっぱればいい、そうすれば迎えに来ると言い残し、再び空に舞い上がった。
マリーは一人、川原に取り残された。
川原は殺風景だったが、流れる水はとても清らかで美しかった。マリーはほっと息をついた。何より太陽の下で大地に立てる事が安心感を生んだ。
さっきはとっさについた嘘だったが、思えば水浴びをしたいと言うのは本当だった。マリーはさらわれてから初めてほんの少し、本当にほんの少しだけれど晴れやかな気持ちになった。
右の足首にはロープが結んである。でも、このロープを引いて合図を送らない限りコンドルは現れない。つかの間の自由。
少し離れた先に淀みがあった。マリーはそこまで歩いていき、ひんやりと心地よい水を全身に浴びた。いくらか気分がよくなったように思った。カエルの鳴き声が谷間にこだまする。
服を着た後、マリーは足に目をやった。ロープが結んである。何から作られているかはわからないが、魔法のロープなのだろう。伸縮も自在のようだ。
水浴びをしている間、何度もロープが引っ張られた。コンドルからの合図。自分がちゃんといるかどうかを確認しているのだ。その度にマリーは自分もロープを引っ張り合図を送り返し、もうしばらく待って下さいと伝えなければならなかった。これでは逃げる事など無理だ。例えロープを切って逃げたとしてもすぐにばれて追いつかれてしまう。マリーは別れも告げずに離れた家族と自分の不幸な境遇を思って泣いた。
ふと気配を感じ、マリーは顔をあげた。
ヒキガエルが一匹、目の前の岩に座っている。
突然ヒキガエルが口を開いた。
「どうして泣いているんです、素敵なお嬢さん」
「岩山のコンドルにさらわれてきたの。逃げる事もできなくて、それで泣いているのよ」
「それは大変。あいつは乱暴者で、怒りっぽいでしょう」
「そうね、いつも不機嫌で怒っているみたいだわ。ねえ、ヒキガエルさん、私、ここから逃げ出せないかしら」
「そうですね。やってやれないことはないですよ。ただし、今はまだ無理です。少しずつコンドルを油断させて、隙を待つんです」
「できるの。でも、今すぐって訳じゃないのね」
けれど仕方がない。マリーは一筋でも希望が見えたこと、まともに話のできる相手を見つけた事に多少なりとも希望をつないだ。例え、相手が人間でなくとも。
「あと、今、とても困っている事があるの」
「なんでしょう」
ヒキガエルの口調はあくまで丁寧だ。マリーは好感を持った。
「その、食事があまり合わないの。コンドルは生肉しか食べないみたい。本当は私、麦やジャガイモが食べたい。でも怖くて言えないの」
「それは言わない方がいいですよ。むしろ、食事にとても満足しているフリをするんです。コンドルは文句を言われるのが大嫌いですからね」
「そうなのね。ああ、言わなくて良かったわ。でも本当にもう耐えられないの。体だってどんどん具合が悪くなるみたいだし」
「もう少し辛抱するんです。ここの生活に満足している風を装えば、コンドルだって監視をゆるめるでしょうから」
「なるほど、そうね。きっとそうだわ。今だって私コンドルを避けているから、だからコンドルだって私を見張っているのね。そうね、そうするわ」
「ええ、辛いでしょうが頑張ってください。きっと私があなたの手助けをしますから」
「ありがとう」
「それに、時々は川に降りてこれるのでしょう? そのときにまた話をしましょう」
「本当にありがとう」
マリーはここに連れてこられてから、初めて笑った。
◆ ◆ ◆ ◆
「最近、あの子が笑うようになった」
コンドルが嬉しそうに話し始める。ヒキガエルはあいづちを打ちながら、笑いをこらえるのに必死だった。
「やはり人間も生肉が好きなんだな。始めは手をつけてなかったが、このごろはよく食べる。それに聞いてくれ、今朝はあの子が礼を言ったんだ。笑いながら」
「それはよかったですね」
「ああ。お前の言ったとおりだ。もしお前に人間の掟の事を聞いておかなければきっとあの子に不愉快な思いをたくさんさせただろうな。感謝するよ」
ヒキガエルは心の中であざわらう。
全くコンドルなんて、所詮ただのでかい鳥だ。何もわかっちゃいない。
「いえいえ、礼などとんでもない。私は私の罪を少しでも償えればと思って、あなたに協力したんですから。あなたとあの娘が幸せになってくれることで、私の罪が少しでも軽くなるような気がしたんです」
「そうか。いや、お前は本当に変わったな。戒めの魔法をかけたが、それはお前にとってよかったようだな」
「本当にそうです。私こそコンドルさんに感謝していますよ。私はこの姿で一生償いを続けるつもりです」
ふざけるのもたいがいにしろよ。頭の中で溢れる毒を吐きながら、ヒキガエルはなめらかに優しい言葉を紡ぎ出す。コンドルが欲しい言葉と悪意の嘘をを織り交ぜながら。
俺はこいつにとことん復讐するって決めてるからな。こんな惨めな姿で一生いるものか。
コンドルは心底ヒキガエルを信頼し、そして感心した。
以前、森で動物を殺しまわり植物を手当たり次第に傷つけていた男とは思えない。
男は若い猟師だった。ただ、普通の猟師よりも野心が強いのか、理由はわからなかったがとにかく殺しすぎた。血の気も多かった。コンドルは何度か忠告と警告を続けたがとうとう若者はコンドルに矢を射掛け、その代償に魔法をかけ、ヒキガエルの姿に変えたのだった。
人は変わるものだ。この谷底で穏やかに暮らすうち、きっとこの男にも何かしらの変化が起きたのだろう。望ましい変化が。コンドルは満ち足りた気分で一杯だった。愛する娘の笑顔を見られる毎日、生き物が良い方向に転じる様をこの目で見られる事。晴天、春の兆し、何もかもが幸せに満ちているようだった。
「娘に、贈り物をしようと思う。人間は普通何を贈るか知っているか」
「夫婦ってのは贈り物などしないんですよ」
「そうなのか。しかし、少しくらいなら構わないだろう。それに、私達はまだちゃんとした夫婦というわけでもないし」
「そうですねえ、それなら……ただ、一つ大事な事があります。贈り物をする時には、決して口をきいてはいけないんです。これを破ると娘はあなたの所に居られなくなりますからね」
「なんだ、またタブーか。本当に人間とは面倒な暮らしをしているな。で、何がいいのだろうか。私はダルカ山脈で採れる琥珀やオパールとか、そういった美しい石をあげようと思うのだが……」
「ああ、だめですよ。人間が宝石類を贈る時というのは相手に謝罪すべき事がある場合です。だからそんなものを贈れば、娘はあなたが何か悪い事をしたのかと考えますよ」
「うむ、そうか。では何がいいのかな」
「人間の歯がいいですよ」
◇ ◇ ◇ ◇
いつもどおりコンドルは生肉をぶらさげて帰ってきた。その匂いはいつまで経っても慣れずに耐えがたかったが、ヒキガエルとの計画を唯一の頼みの綱としてマリーは作り笑いを浮かべコンドルを迎えた。いつもなら肉を放り投げて、すぐにわらの寝床にもぐりこむのだが、今日はなぜかコンドルは奇妙に落ちつかなげにマリーを見ている。
いつも決してお互いが触れる距離にまで近づかないコンドルが、すぐ近くまでやってきて大きな翼を片方マリーの方に差し出した。
なんだろう。
コンドルは何も言わない。気味の悪い目がマリーをじっと見ている。
ためらいながらもマリーは片手を差し出した。コンドルの翼の先が指先に触れる。羽は一枚一枚が大きく、丈夫そうだ。その羽の間から何かが自分の手のひらの中に落ちた。固くて、小さなものだった。無意識にマリーはそれをそっと握りしめると、自分の胸元に引き寄せた。何かわからないけれど、とても大事なものを手にしたような気がしたのだ。その仕草を見てコンドルは自分の寝床に戻り目を閉じた。
なんだったのだろう、今のは。何だかプレゼントをもらったみたいだった。
マリーは少し変な気分になった。
コンドルが私に贈り物を? まさか。
手のひらを開いてみたが、小さな塊が何なのか、薄暗がりでよく見えない。
マリーはそうっと入り口近くの明るい場所に移動しもう一度顔に近づけて確かめてみた。
コンドルから渡されたものが何かわかった瞬間、マリーは声にならない悲鳴をあげて気を失った。
◆ ◆ ◆ ◆
真夜中、コンドルはふと目を覚ました。マリーがいつもの場所に居ない。
一気に血の気が引いて、目が覚める。慌てて見渡せば、入り口近くに横たわった人影があり、とりあえずホッと息をついた。
が、あんなところでは一歩間違えば谷底に落ちてしまう。再び血の気が引いたコンドルは、すばやく立ち上がった。洞窟の中では大きな鳥の姿では動きにくい。コンドルは人間の姿になり、マリーに駆け寄りそっと抱き起こした。
ぐったりとしたマリーは深く眠っているようにも、気を失っているようにも見えた。贈った歯はそのすぐそばにコロリと落ちていた。コンドルはその歯も拾い上げた。
あまり喜ばれなかったかな。やはり贈り物などやめておけばよかったか。
贈り物を渡す前に感じていた浮かれたようなソワソワした気持ちは、すっかり消えてしまっている。
実はコンドルは既に贈り物を用意していた。だが、今朝ヒキガエルに一応確かめておこうと思って聞いてみれば、案の定、自分の用意したものはダメだと言われてしまったのだ。遠い山脈で見つけた虹色に光る小さなオパール。コンドルがとても気に入っている石だ。それに細い金の鎖をつけたペンダントをもう作っていたのだ。
マリーをそっと寝藁に沈めた後、コンドルはしばらく側に座っていた。
ポケットから手製のペンダントを引っ張り出して眺めてみる。美しい、とコンドルは思う。黒髪のマリーに良く似合うはずだ。なぜ自分がこれほどこの石をマリーに贈りたいのか、さっぱりわからない。喜ぶ顔が見たいからか。でもそれなら人間の喜ぶという人間の歯で十分のはずだった。それでもコンドルの中には何かしこりが残っていた。コンドルはそっと彼女の頬に触れる。とても暖かい。起こさないよう注意しながら、漆黒の髪をなでた。
そうか。私はきっと、自分の美しいと思うものを彼女と共有したいのだろう。自分の考えや感性を彼女に知って欲しいのだろう。人間の考え方は自分には理解できない。だとしても知っておきたい。それと同じように、彼女にも自分というものを知って欲しいと思っているのだ。空を舞う快感や、360度に広がる広大な大地に身を震わせる事や、美しいと思うものや、あなたを愛しく思うことなどを知って欲しいのだ。
自分勝手なことはわかっていたが、どうしてもその気持ちを抑えることができず、コンドルはマリーのポケットにペンダントをすべりこませた。自分の好きなものをマリーが持っているということで、例え彼女がそのことに気付かなくてもいい、コンドルはとりあえず満足感を得た。
◇ ◇ ◇ ◇
朝の光が目に痛い。
マリーは目を覚ましたが、どこか意識がかすむのを感じた。体中は熱いのに、ひどい寒気を覚える。体がバラバラになってしまいそうだ。起き上がることすら、できそうにない。洞窟の中にコンドルの姿はない。おそらく朝食を取りに行ったのだろう。
水が飲みたい。すごく喉が乾く。体が痛い。
とにかく眠ろう。マリーは目を閉じた。
意識の隅の方で、コンドルの羽ばたきが聞こえる。
吐きそうだ。
◆ ◆ ◆ ◆
いつもなら、起きて身支度を整えているマリーがどうしたことがまだ横になったままだ。コンドルは呼びかけてみたが、返事はない。寝藁が上下に動いているから、死んでいるわけではなさそうだが、一体どうしたのだろう。
取ってきたばかりの肉を床に置き、コンドルはマリーに近づいた。そっと覗き込んだその顔は、熱に火照り、苦しそうな息遣いにコンドルはぎょっとして、無意識に後ずさった。立ち上がり、我知らず洞窟の中を右往左往と歩き回る。
どうすればいい? どうすればいいんだ?
そっと触れたマリーの顔は、異常なほどに熱かった。コンドルはもう一度マリーの側に座った。汗で顔に張り付いた髪をそっと整えてやり、顔を覗き込む。
「マリー」
小さく、おびえたような呼びかけにマリーはうっすらと目を開けた。
マリーの目に映ったのは、恐ろしいコンドルではなく、不安を目に溜めた心配そうな若者の顔だった。けれど、それを不思議に思う事もできないほどマリーの意識は朦朧としかかっていた。
「マリー」
若者はもう一度マリーの名を呼んだ。
「どうすればいい、何か欲しい物はあるか? 何か食べるか?」
マリーは弱々しく首を横に振った。
「……水を」
すぐさま若者は立ち上がり、洞窟の外に消えた。若者は空中でコンドルの姿に変身し、そのまま一直線に谷底の川に降り立った。革の水筒に水を汲む手つきももどかしく、一分もたたないうちに、コンドルは再び舞い上がった。例のヒキガエルがそのことに気付く暇もなかった。
◆
もう丸三日、マリーは水以外口にしようとしない。
生肉などは目にしただけで、何もない胃液を吐いてしまったほどだ。弱っていくマリーを、コンドルはただ手をこまねいて見ているしかなかった。時々、川の水で冷やした布で体を拭いてやるくらいしかできない。
何か、何か食べさせなければ。でも、肉ではだめだ。食べたいものを聞いても、食べたくないとしかマリーは言わない。どうすればいい? コンドルは焦った。
今までも何度も目にした。生き物があっという間に病で死ぬ時と、マリーの衰弱具合は同じだった。
◇ ◇ ◇ ◇
ぼんやりとする意識の中で、マリーは不思議な夢を見ているようだった。
私はどこにいるのかしら? ここはどこ?
自分の家でないことだけはわかる。
では、どこだろう。
心配そうに自分を見つめる若者がいる。彼が自分を看病してくれているのだ。
一体、誰だろう。
どこかで一度会ったような気がしたが、記憶は霞んでしまって思い出せない。時間の感覚は全くなかったが、いつ目を開けても彼は起きているようだった。水を飲ませて、汗で体を冷やさないようにと気をつかってくれている。マリーは苦しみながらも、若者の優しさに安心しきっていた。
つい最近まで、何かにとてもおびえていたような気がする。あれは何だったのだろう?
夢だったのだろうか。それとも、今、夢を見ているのだろうか。
◆ ◆ ◆ ◆
「オレンジが食べたい」
ようやくマリーが言った。コンドルは大慌てで飛び立った。とは言うものの、オレンジはこの岩山にはない。オレンジは人間の住む近くにしかない植物だ。コンドルは全速力で飛び続けた。
視界の端に煙が見える。人が住んでいる場所だ。集落ではなかった。小さな家が、草原の中にポツンと建っている。コンドルは着地すると翼をたたみ、人間の姿になった。扉をノックすると、四十過ぎの女が顔を出した。
「どなた」
「失礼。私は山に住むものだが、連れ合いが病気で、どうしてもオレンジが食べたいというのです。もし、お持ちであれば少し分けていただけませんか?」
女は若者をサッと観察した。息を切らし、汗だくの若者は顔一面に心配の色を浮かべている。まあ悪い人ではなさそうね、女はそう思った。その時ふと、庭先に落ちているコンドルの羽が目に入り、女は驚きの声を上げた。
「まあ、あなたはもしや、山の主様ではありませんか!」
「ああ、そうだ」
「まあまあ、これは光栄な事。どうぞ、お入りになってくださいな。オレンジはうちの農園にたっぷりありますわ。そうだ、主人を呼んできます。少しお待ちになって」
女はコンドルに椅子を勧めると、パタパタと外に出た。
息を整えながら、コンドルはそっと家の中を見渡した。小さいけれど、きれいに整えられた家具、明るく、清潔で気持ちのいい家だ。
もしかすると、マリーはこういう場所に住むのがいいのかもしれない、コンドルの頭をふとそんな思いが掠めた。暗く、湿った洞窟に一人残してきたマリーが急に哀れに思えてきた。果たして彼女は、自分といて幸せなのだろうか。自分は今まで、マリーといるだけで幸せだったから、そんな事はあまり考えなかったが、マリーはどうなのだろうか。あんなひどい病気になって、苦しんでいる姿は見たくない。そうさせたのは、もしかすると自分なのではないだろうか。
「お待たせしました、山の主様」
戻ってきた主人の声で、コンドルは我にかえった。
「こんな小さな住まいで恐縮ですが、山の主様にお越しいただき、とても光栄です」
頭の禿げた太った背の低い男は、赤ら顔に人の良い笑顔をたたえていた。後ろに控えている女がカゴ一杯のオレンジを差し出す。大ぶりの果実は、カゴからあふれ出さんばかりに輝いていた。
「さあ、もぎたてのオレンジですよ。遠慮なくお持ちになって下さい」
「ああ、どうもありがとう。これで、きっと……」
オレンジを一つ握り締め、コンドルは言葉に詰まった。これで、マリーの病気は良くなるだろうか。これで、マリーは喜んでくれるだろうか。彼女がほしいと言ったものをあげるのは初めてだ。なんでもいい。とにかく彼女が良くなるのならば、なんだってしてあげたい。
不安と後悔をいっぱいに溜めたコンドルを見て、小さな農園の夫婦は顔を見合わせた。
「よろしければ、私どもの使っている薬草をいくつか差し上げましょうか」
「本当か……なにせ、人間の娘なものだから、一体どうすれば具合がよくなるか見当もつかなくて」
「そうでしたか、それはさぞ御心配でしょう。お前、薬棚から幾つか持ってきてくれないか」
「ええ、あなた」
「ああ、本当に有難い。この礼は必ずしよう」
「いえいえ、あなたのような方にこんな台詞は失礼かもしれませんが、困った時はお互い様、ですよ」
「そうですとも、ほら、これを煎じて一日三回飲ませてあげてくださいな」
◆
薬はよく効き、マリーの容態は回復した。だが、コンドルの気持ちは沈んでいった。マリーはオレンジをとてもおいしそうに食べた。それはいつもコンドルの運んでいた生肉では見せなかった顔だ。
コンドルは不安にかられた。もしかすると、マリーは生肉が好きではないのか? もしそうだとすれば、毎日マリーは無理をして食事をしていたことになる。それでは具合も悪くなるだろう。しかもそうさせていたのは自分なのだ。
コンドルは仲睦まじい夫婦の家で感じたことがどうしても頭から離れなかった。彼らは暖かく明るい家に住み、とても仲良く幸せそうだった。マリーは自分といて幸せなのだろうか。こんな暗くて湿った洞窟に住まわせるべきではないのではないか。その思いは一度頭に浮かぶと、離れることなく日毎に大きくなっていった。
◇ ◇ ◇ ◇
体の具合が回復すると、久しぶりにマリーは水浴びに川へ降りた。天気は快晴で、南風が暖かな空気を運んでくる。とても気分が良かった。
丁寧に身体を洗いながらマリーは色々と思いをめぐらせた。この数週間の事は、記憶が霞んでいてぼんやりとしか思い出せない。ただ、とても優しい若者が自分を介抱してくれていたような記憶が薄っすらと残っている。あれは誰だったのだろう。
もしかすると熱に浮かされて見た幻想かもしれない。意識がハッキリしだしてからは、一度も姿を見なかった。居るのは、あのおぞましいコンドルだけだ。やっぱりこれが現実だ。
マリーは清冽で心地よい川の水に髪を浸し、洗い始める。
けれど、とマリーは思う。意識が戻って気付いたのだが、この所コンドルの様子がおかしい。なんだか、塞ぎこんでいるように見える。それに毎日の食事が生肉だけではなくなった。これはどうしたというのだろう。木の実や果物を持って帰ってくる。コンドルはそれらを食べはしない。自分のためにそういった食べ物を持ち帰ってくるのだ。そして自分の方をあまり見なくなった。食べ物を置くとすぐに、洞窟の隅の寝藁にもぐりこんで顔を背ける。
考え事をしていたマリーは、不意にじっとりした視線を感じてハッと顔を上げた。
いつものヒキガエルが目の前にいた。マリーは自分が全裸でいることに気付き、急いでいる事に気付かれないように慌てて服を着た。
「お嬢さん、川に来るのは久しぶりですね」
「ええ、ずっと臥せっていたから。でももう、すっかり良くなったわ」
へえ、とヒキガエルは声に出さずにつぶやいた。なるほど、それで最近コンドルも川に来なかったのか。きっと娘の看病でそれどころではなかったのだろう。まあ、助言を求められたらそれはそれで面白い事を言ってやったのだが。
もしや、コンドルに看病されて娘は内心少しほだされてしまったんじゃないだろうな。確かめる必要がある。ヒキガエルは言葉を慎重に選んだ。嘘ではないが、曖昧な台詞を。
「そうですか、お元気になられてよかった。ずっと心配してたんですよ。ここの所コンドルも見かけませんでしたから」
コンドルを見かけなかった? マリーはその言葉が気になった。
もしかすると、もしかして万が一かもしれないが、自分を看病してくれた若者はコンドルだったかもしれないとマリーは少しだけ思い始めていた。
でも自分が病気になっている間、コンドルが居なかったとすれば? オレンジを食べさせてくれたのは一体誰?
マリーの表情の変化をヒキガエルは見逃さなかった。
「どうしたんです」
マリーは言い澱んでいる。これは何かあったなと、ヒキガエルは辛抱強くマリーの言葉を待った。
「私が病に臥せっている間、誰か、見たことのない若者が私を看病してくれたの。でも、それはきっと私の幻覚ね。もしかすると、コンドルかもしれないってちょっと思ってしまったんだけど。そう……、コンドルは居なかったのね。そうよね、そんなわけないわ。あのコンドルが私をあんなに優しく看病してくれるなんて」
独り言のようなマリーの言葉でヒキガエルは状況を理解した。今回も俺の勝ちだ、ヒキガエルはほくそえむ。あと少しで娘はコンドルの本心に気づいたかもしれないが、残念ながらそうはさせやしない。
「ああっ、覚えていてくれたんですね。私があなたを看病したことを。本当に心配で心配で……。コンドルが遠出をしたタイミングを見計らって、川から水を汲み、あなたを看に行っていたのですよ」
マリーは目を見開いた。目の前にいるのはヒキガエルだというのに?
「信じられないのも無理はありません。私はコンドルに魔法をかけられて、こんな姿になってしまった人間です。時折、コンドルの魔法が弱まると人間に戻れるのです。その隙にあなたを見舞っていたのです」
「まあ……、まあ、そうだったの。私をずっと看病してくれたのは、あなただったのね」
◇
洞窟に戻ってからもマリーの心は浮き立っていた。
まるでおとぎ話のような展開だわ、とマリーは思った。
悪い魔法をかけられてヒキガエルになった王子様(とまでは言わなかったけど、とマリーは苦笑する)が、自分を助けてくれる。何て素敵なんだろう。それに、あのとても優しい若者はやはり存在したのだ。水を飲ませ、オレンジを食べさせてくれたとても素敵な若者を思い出し、マリーの頬は自然と緩む。
マリーは改めて思う。いつしかあの若者に恋をしていた、と。近いうちに二人でここを逃げ出そうと、ヒキガエルは約束をした。昔話のとおりなら、自分のキスでヒキガエルは魔法を解かれるかもしれない。今度試してみようかしら、とマリーは思った。
大きな羽ばたきの音がする。
洞窟の入り口が一瞬暗闇に包まれ、主が戻ってきた事を告げる。マリーに宿った束の間の安らぎと希望が掻き消える瞬間でもある。いつにもまして眉をひそめ、嫌悪の眼差しでマリーはコンドルを見た。コンドルの羽の下からこぼれ落ちる果実が地面にぶつかる乾いた音がした。その幾つかがマリーの足元に転がってくる。まだ少し青いけれど、瑞々しいヒメリンゴ。その一つを手に取り、マリーはコンドルの方を再び見た。既にコンドルは、マリーに背を向け寝藁にもぐりこもうとしている。
先程までの浮かれていた気分が急にしぼんだようだった。ついでにコンドルに対する嫌悪の気持ちもなぜかすっかり消えていた。マリーは自分で自分がどういう気持ちなのかよくわからなかった。ただ、何となく胸が締め付けられるようだった。
マリーは手にしたヒメリンゴを一口かじった。酸味の強い果汁が口いっぱいにひろがり、マリーは少し顔をしかめた。
以前、自分が病になる前は、コンドルはいつも気味が悪いほどずっと自分を見ていた。自分が食事をすませ、横になるまでずっと自分を見ていた。それは堪らなくいやな事だった。食べたくもない生肉を無理に口に押し込んで、生臭さを堪えて横になる間、監視されているようだった。
だが、今は違う。コンドルはぱたりと生肉を運んでこなくなった。そして、自分を見なくなった。ちらりと垣間見せる顔は、深い悲しみに沈んでいるようだった。
マリーは二つ目のヒメリンゴに手を伸ばした。ヒキガエルの事を思い出したが、それほど愉快な気持ちにはなれなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
ヒメリンゴが噛み砕かれるシャリシャリという小さな音を聞きながら、コンドルは今にも狂ってしまうのではないかと思うほど物思いに沈んでいた。
やはりマリーには、太陽の光と明るい乾いた家がふさわしい。生肉などではなく、滋養に富んだ穀物や果物が必要なのだ。
ここでは駄目だ。回復したとは言え、一度は死の淵を彷徨うほどの大病を煩わせたのは他ならぬ自分だ。
コンドルは毎日自分を責めた。マリーが木の実や果物をよく食べれば食べるほど、コンドルは自分を責めた。そうしてようやく気付いたのだった。幸せだったのは自分だけだ。独りよがりで、自分勝手な生活だったのだ。自分が彼女を愛するように、彼女も自分を愛しているなど勝手な思い込みだったのだ。彼女はきっと自分を恨んで、憎んでいるだろう。そう思うとまともに顔が見られなかった。
このまま共に暮らしていく事はできないと思った。それは余りに辛すぎた。愛する人と二人きりで、憎まれながら暮らしていくなど。しかし一方で、離れがたく、里に帰そうと思いながらも、一日一日その日を先延ばしにしていた。そのこともコンドルを責めさいなんだ。
◆
「娘を里に帰そうと思う」
ヒキガエルはぎょっとした。急にどうしたんだ、こいつ。
「ええっ、どうしてですか? すっかりうまくいっているとばかり思っておりましたのに」
コンドルは心持ちやつれたようだ。小さな声を絞り出すように、懺悔するように次の言葉を口にした。
「どうやら私は思い違いをしていたようだ。娘は、私のことなど好きではないんだ。申し訳なくて、顔も見れなくなってしまった。もう、終わりにしようと思っている」
ほう、鈍い鳥頭でもようやく気付いたか。これでも十分報復にはなってるかな、こいつこんなにやつれちまった。ザマぁねえ。って、言ってる場合じゃねえな。こんなことで俺の計画を台無しにされてたまるか。あと一息なのに。
ヒキガエルは思い切り笑って吹き出した。コンドルはぎょっとしたようだ。
「何を言い出すかと思えば、アハハハ、いやね、すみません。余りに突拍子もない事を仰られるもんですから。全く、人の気持ちってのはわからないもんですねえ。ハハ、この前同じような事を言ってた人がいますよ。どうも自分は好きな人に嫌われたようだって。最近、自分の事を全然見てくれないのだと、嘆いている可愛らしいお嬢さんがいましたっけ」
「……まさか」
「全く、お二人して困ったものです。そろそろ次の儀式の時期ですから、それが終わればちゃーんとお互い気持ちを確かめ合えばいいじゃないですか」
「次の、儀式?」
「そうです、娘の里に挨拶に行くんですよ。手順はちゃんとお教えいたしますから、御安心なさい」
◇ ◇ ◇ ◇
ヒキガエルの作戦はこうだ。
コンドルには、いつもの水浴びのように川まで娘を連れて来させる。その時、自分が合図をしたら魔法のロープをわざと外して娘が村へ一人で帰れるようにしてあげるのだ。
それから七日たったら迎えに行く。
先に村へ帰っていた娘はコンドルの迎えを待っていて、村人たちも総出で歓迎してくれる。それから娘の村での結婚式が始まるのだ。もちろん結婚式の準備は、先に帰っていた娘が全部支度をするのだから楽しみにしていてください、とそう教えてやった。
一方のマリーにはこう言った。いつもの水浴びの時に、私がコンドルを引きつけます。合図をしたら、魔法のロープが外れるように一度だけ私が力を使いますから、すぐに逃げてください、と。
もちろん、その通りになった。ヒキガエルの合図と同時にコンドルはマリーのそばを離れ、あんなにしっかりと結ばれていたロープはあっけなく解けたのだ。
マリーは一目散に逃げ出した。ヒキガエルと合流すると、心から感謝を述べて胸元にヒキガエルをしっかりと抱き、ひたすら村へと駆けていった。
コンドルが追いかけてくるかもしれないと不安でたまらなかったが、ヒキガエルが目眩しの魔法をかけたといい、確かに一度もコンドルの姿は見えなかった。ヒキガエルは魔法など使えるわけはないのだが、マリーはそんなこと知りはしない。守ってくれるヒキガエルのことをマリーはすっかり信用した。
村に帰ると家族はもちろん、村人たち総出で無事を祝ってくれた。
ヒキガエルは娘の恩人として皆にチヤホヤされ、すっかり有頂天。でもまだ、最後の仕上げが残っている。
数日もすれば、コンドルが追いかけてくると村人に伝え、その時に迎え撃てば、娘をさらう悪いコンドルを退治できるだろうと。
村人たちは武器を手に手に、来るべき日に備えて準備をした。
そしてマリーが洞窟を出てから、七日が経った。
◆ ◆ ◆ ◆
小さな村が眼下に見えてきた。
マリーの生まれた村だ。マリーがいる村だ。
村人が大勢外に出ている。
皆、弓を持ってこちらを見上げている。こちらを指差して、何かを叫んでいるものもいる。
ヒキガエルの言った通りだ。
彼らは祝福の弓をつがえてくれているのだろう。あんなに大勢に歓迎されるものなのか。
コンドルは思わず胸が熱くなった。
マリーは自分のことをどう説明したのか、それはわからないが、こんなにも出迎えの人が大勢いるのを見ると、きっと良いように話をしてくれたに違いない。
少し照れくさくて、とてもうれしかった。
マリーはどこだろう。早く顔が見たい。
ほんの数日会わなかっただけで、こんなにも恋しくなってしまうとは。一時は村に帰そうなんて考えていたのがバカバカしいほど、すっかりマリーに会いたくてたまらない。
コンドルは翼を力強くはためかせ、村へ向かう速度を上げた。
突然、ヒュウッ、と耳元を音が掠めた。
体は反射的に飛んできたそれを避けていて、何かと認識したのはその後だった。
矢……?
捉えた物体は一気に数を増し、コンドルを目がけて何本も向かってきた。翼をコントロールしながら体を逸らし、全ての矢を避け続ける。それでも、噴き上げる矢は止まることなく続く。コンドルの体は勝手に矢を避けるように反応するが、頭は混乱していた。
これは儀式なのだろうか。いや、さすがにそれは楽観的すぎる。自分が避けなければ、あっという間に体に何本も矢が打ち込まれるだろう。明らかに敵意のある攻撃だ。
矢を避けながらもコンドルは少しずつ地上へと近づいた。危険は増すが、状況を知りたかったし、何よりマリーの姿がまだ見えなかったのだ。
村人たちの表情が見えるようになった頃には、もう明らかだった。敵意のある目、恐怖と嫌悪の声が地上に響いている。彼らは自分を殺そうとしている。手に握られた弓は、祝福を伝えるものではなく、生き物を殺すため本来の道具としてそこにあった。
村人たちが自分を殺そうとしていることはわかった。だが、それは正直なところ、どうでもよかった。
ただ、マリーが心配でたまらなかった。マリーはどこだ。彼女は無事なのだろうか。
必死に地上を目で追っていると、視界の端に見慣れたオレンジのスカートが見えた。
マリー!
それは確かに彼女だった。
小さな納屋の影から、愛しい彼女の姿が現れる。
無事だ。無事でよかった。
地上からの矢は止むことはなかったが、コンドルは後先を考えることも忘れて彼女の元へ降りようと向かった。
彼女が弓を構えているのは見えていたが、なんだかあまり意識に入らなかった。ただ、無事でよかったと、それだけで頭がいっぱいになっていた。
近づくと、マリーの肩にヒキガエルがいるのも見えた。
それから、ヒキガエルが彼女の頬に触れるのが見えて、その後すぐに翼に焼けるような痛みが走った。
◇ ◇ ◇ ◇
コンドルが村に現れた時、マリーは村外れの納屋に隠れていた。
地上近くを飛ぶと、大きな翼の音が響く。
洞窟で何度も聞き慣れた音に、村人たちの怒声が混じる。コンドルはなかなか村から出て行かないようだ。射止めることもできないらしい。
マリーは納屋の影から、そっと外を覗いていた。
「まだ仕留められねえのかよ」
不意に、肩に乗っていたヒキガエルが低い声で呟いて、その声の酷薄さにマリーは一瞬ゾッとした。けれども、これまでずっと丁寧な言葉で、優しかったヒキガエルを思い出して、気のせいだと思うようにした。
「なかなか出て行かないようね」
「そのようですね。しつこくあなたを探しているんでしょう。どうです、私が一緒に立ちますからあなたも弓を持って出ては」
得意と言えるほどではないものの、マリーも人並みに弓は使えた。
コンドルの前に姿を見せるのは怖かったが、今は村人たちもたくさんいるし、何より早くここから立ち去ってほしくて、マリーは頷いた。
納屋から出ると、コンドルの姿はすぐに見えた。大きな影が空を不規則に飛び回っている。地上からの無数の矢を、ずっと避け続けているのだ。
マリーは弓を引き絞った。なかなか狙いが定まらない。
ずっと目で追っていると、急にコンドルの動きが変わった。不規則だった動きが一直線になり、こちらに向かってくる。
見つかったんだ。
緊張で指先が震えてしまう。
あ、
不意にコンドルと目が合った。
気味が悪いと思っていたその目は、心配と安堵が溜まって今にも溢れそうになっていた。
どうして。
どうして、そんな目をしているの。
まるで、看病をしてくれた優しいあの人みたいだ。
思わず弓を降ろしかけたその時、肩にいたヒキガエルがマリーの頬を思い切り叩いた。
「痛っ」
マリーが驚いた拍子に、引き絞った弦から矢がまっすぐに放たれ、コンドルの翼を貫いた。耳元でヒキガエルが醜い歓声を上げる。
ぐらりと空中で体を傾かせたコンドルを目掛け、他の村人たちも一斉に矢を射掛ける。避ける術を失ったコンドルの体に、何本もの矢が突き刺さった。
一瞬の出来事にマリーは呆然と空を見ていた。
そのまま落下するかと思えたコンドルだったが、ゆっくりと矢の届かない高さまで風を受けて上昇すると、よろめきながら遠く山脈の方へと消えていった。
村人たちは歓声を上げて喜んだが、マリーは浮かない顔をしていた。
自分の射た矢が翼を貫いた時、コンドルは驚いて、それからひどく申し訳なさそうな目をした。怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ深く後悔を浮かべたその目が、頭から離れなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
マリーの矢を受けて、コンドルはようやく全てを悟った。
自分はマリーに射られた。それもこの焼けるような痛みは、矢尻に毒が塗られている。これは歓迎の儀式などではなかった。
なぜこんなことになったのかと考えれば、マリーと一緒にヒキガエルがいたことが答えだろう。ヒキガエルが改心したと、呑気に喜んでいた自分が愚かしくて情けなかった。愛する人への接し方を、他人に頼った自分を恥じた。目の前の彼女をもっとちゃんと見なければならなかったのに、形ばかり気にした結果がこれだ。
けれど、ヒキガエルへの怒りや、自分への後悔はさほど大したことではなかった。
何よりも、マリーが自分を殺したいと思うほどの思いを抱いていた。つまり、それほど彼女に酷いことをしていたのだと気付いて、申し訳なくて堪らなかった。
ヒキガエルの言ったことが全て嘘だったのなら、自分はどれほど彼女に苦痛を与え続けていたのだろう。彼女が生死を彷徨うほど体を悪くしたのも、やはり自分が原因だった。食べ物も、棲家も、言葉も全部、マリーには合わないものだったのだ。
謝りたい。でも、きっと彼女は二度と会いたくもないだろう。
コンドルはよろよろと洞窟に帰り着くと、冷たい岩棚に体を横たえた。
塗られた毒に効く薬草の見当はついていたが、わざわざ取りに行く気になれなかった。このまま死ぬかもしれないが、マリーがそう望むのなら、それならそれでいいかと思って目を閉じた。
◇ ◇ ◇ ◇
ヒキガエルは人間には戻らなかった。おそらくコンドルがまだ生きているからだと言う。
「ま、あの矢には毒が塗ってありましたから、そのうち死ぬでしょう」
マリーはそれを聞いてぎょっとした。
「私、毒なんて塗ってないわ」
「私が塗っておきました」
ヒキガエルは平然としてそう言い放つ。
「カエルの毒です。普段はピリッとするくらいのもんですが、濃度を上げればなかなかの力になるのですよ」
「それ、絶対に死んでしまうの?」
「放っておけば死にますよ。解毒草もありますけど、あれだけ深手を負っては採りにはいけないでしょう。できればとどめを刺しに行きたいところですが、ま、長く苦しんで死んでくれたらそれも愉快じゃありませんか。ああ、でもやっぱ早く死んでくれねえかなあ。そしたら、ようやく人間様に戻れるってもんだ」
ニヤニヤと話すヒキガエルのことが、マリーはなんだか怖くなった。
それに何だか変だ。
ヒキガエルはずっと人間に戻りたがっている。そのために何がなんでもコンドルを殺そうとしていたのだから。それなら、前に看病してくれたあの時はどうして人間に戻れていたのだろう。
やっぱり、おかしい。
「ねえ」
「何です?」
「あの時、私が病気になったとき、持って来てくれた物、あれはどこで手に入れたの?」
ヒキガエルは、どうしてそんなこと今聞くのだと訝しげで疎ましい顔をした。マリーの違和感は一気に跳ね上がる。ヒキガエルが時々見せる不快な目付きが妙に気になってたまらない。
「さあ、あれって何でしたっけ?」
マリーは不安で締め付けられそうになりながら、何でもない風に言った。
「ほら、あの沢山のヤマブドウ」
「ああ、あれね、あれは二つ山を越えた崖になっているんですよ。あなたの為に摘みに行ってきたんですよ。ヤマブドウは崖っぷちの危険な場所のものが一番美味しいんですからね」
違う。
あの時、あの人が持ってきてくれたものは、綺麗に人が育てたオレンジだった。ヤマブドウなど、一度も持ってきてはいない。
マリーは悟った。嘘をついているのは、このヒキガエルだ。何もかもを混乱させたのは、このヒキガエルだ。一番傷ついているのは、きっとあのコンドルだ。私を愛してくれたのは、あのコンドルだ。
マリーは事情を飲み込めないヒキガエルをふりはらい、遠い山脈を目指して駆け出した。
◆ ◆ ◆ ◆
毒が体を蝕んでいくのが手に取るようにわかる。熱が上がって、意識が朦朧とする。
「マリー」
独り言で呟いた声に、返事が返ってくる。
ああ、悪くない。どうせ幻覚を見るのなら、最後にいいものを見せてくれ。
酷いことばかりして、いまさら都合のいい考えだが、もうすぐ死ぬ生き物がこれくらい欲張ってもいいだろう。
「体は、もう、大丈夫か」
そう尋ねると、マリーは怒ったようだった。私の方がよっぽど酷い状態なのに、何を言ってるのかと。怒った顔もかわいい。そう言うとマリーはボロボロと涙をこぼし、私を死なせたくないと泣いた。
解毒草の生えている場所を尋ねられる。人間には危ない場所だから教えるわけにはいかないな。ああ、でもこんなに泣いている。
場所を伝えると、すぐに立ち上がって洞窟を出ようとするものだから慌てて引き止めた。
「行かないでくれ」
どうせなら、最後の時には、側に。
マリーは必ず戻るから死なないで、と泣きじゃくった。あんまりひどく泣くものだからこちらが心配になってくる。わかった。わかったから。ほら、ロープを結んでいけばいい。まじないのかかったロープはどこまでも切れることはないし、きっと帰って来れるから。
しゃくり上げながら、おぼつかない手つきで必死にロープを体に巻きつける。手が震えているのか、なかなかうまく縛れないみたいだ。手伝ってやりたいが、もう体が動きそうにない。
ようやく結び終えると、マリーは何度か引っ張ってみて確かめる。大丈夫だ。これなら繋がっているとわかるから、最後まで側にいてくれるのと同じだと思ったけれど、それは言わなかった。またマリーが泣いてしまいそうな気がしたから。
マリーが洞窟を出ていくと、がらんとした空間がやけに静かで耳に痛い。外から吹き付ける風の音が急に大きく聞こえる。このまま目を閉じたら、二度と目覚めないような気がした。
気持ちは随分穏やかだった。最後にマリーに会えてよかった。勝手な妄想だったかもしれないが、許されたような気さえして、このまま死ぬことに恐怖はなかった。
けれど。
幻覚か、現実か、よくわからなくなった。最後に見たマリーが自分の作り出した幻覚なら、もう終わりにしてもいい。変な話だが救いを得た死を迎えられる。
けれども、もしも、彼女が現実だったとしたなら。
あんなに死なないでと泣いていたのに、帰ってきた時に私が死んでいたなら、彼女はきっとひどく傷つくんじゃないか。たった一人、こんなに空っぽな洞窟で、自分が射た鳥の死骸と対面させるのはあまりに残酷だ。
足に結ばれたロープの先に、マリーの気配を感じる。
少なくとも、この気配を感じている間は死ぬ訳にはいかなかった。
◆ ◇ ◆ ◇
コンドルは死ななかった。
マリーの持ち帰った薬草が効いたのかどうか、それはわからない。何せ、言われた場所へ行ってみたものの、たくさんの野草が生い茂っていてどれがどれだかわからなかったのだ。
手足に山ほど擦り傷を作りながら、抱えられるだけの野草を持ち帰った。洞窟に帰り着いた時、コンドルがまだ生きているとわかってマリーはまた泣いた。
何日かすると、コンドルの意識ははっきりとしてマリーが幻覚ではないとようやく確信が持てた。
何週間かすると、体も随分と楽になり、あと少しで飛べるところまで回復した。
マリーはずっと側にいて、二人は少しずつたくさん話をした。
コンドルはマリーのポケットに入れていたオパールのペンダントを、改めて贈りなおした。
自分のポケットにそんなものが入っていたとは知らず、マリーは驚いたし、コンドルは勝手にしたことを丁寧に詫びた。コンドルが想像した通り、彼女の漆黒の髪に、虹色に輝くオパールは本当によく似合っていた。
時間はたっぷりあった。最初からひどく絡まった糸をゆっくり解いていっても、全く大丈夫だった。
怒ったり泣いたり謝ったり許したりを繰り返して、最後には愛の言葉を囁いた。もう間違うことのないように、ふたりは互いを想う気持ちを言葉にした。
夜になるとコンドルはマリーを抱いて眠った。しっかりとした羽毛がマリーを包み、それはとても暖かくて寝心地が良かった。心地よさそうに眠る彼女を見て、コンドルも安心して幸せな眠りに落ちた。ふたりの体はまるであつらえたかのようにピッタリと重なることができた。こういう時は言葉はなくても良いのだと、ふたりは自然と分かるようになっていった。
◆ ◇ ◆ ◇
ところで、村に残ったヒキガエルがどうなったかといえば、最初こそマリーを連れ戻してくれた恩人として丁寧に扱われていたが、あんまり調子に乗って贅沢三昧、文句も言い放題。挙句に若い娘にちょっかいを出して、村人たちはヒキガエルを疎ましく思い始めた。
とうとうある日、村一番の美人と言われる娘に悪さをしようとしたところ、彼女の婚約者である村一番の怪力男に現場を見られてしまい、問答無用のあっという間もなくペタンと壁に叩きつけられて死んでしまった。悲しむものは誰もおらず、そのうちに村人たちはヒキガエルのことなどすっかり忘れてしまった。
マリーは両親と村人たちの誤解を解いて、コンドルの花嫁になると告げた。両親は初めこそ渋っていたものの、改めてあいさつに訪れた人間姿のコンドルの好青年ぶりにすっかり心を許し、二人は晴れて夫婦になった。
マリーは故郷の村に帰った。このまま洞窟で暮らしたいとも思ったが、やはり断崖の洞窟でずっと暮らすことは難しいと二人とももうわかっていた。かといって、コンドルが村で暮らすこともまたできない。コンドルには岩山の主として守るべき土地があるのだ。
そこで二人は別々に、コンドルは断崖の洞窟で、マリーは村で暮らしている。月に何度か、コンドルがマリーの村へ会いにくる。コンドルがしばらく村で過ごすこともあれば、マリーがコンドルの背に乗って岩山へ行き何日かを共に過ごすこともある。最初は随分と奇妙な生活に思えたが、慣れてしまえば案外悪くなかった。
天気の良い昼下がり、マリーは乾いた草原で牛の世話をしながら、そろそろコンドルが迎えにくる頃だと思う。
今日は嬉しい知らせがある。
待ちわびていた新しい家族が増えると伝えれば、コンドルはどんな顔をするだろうか。
そう思うと楽しみで仕方ない。
大きく風を切る翼の音がして、空を仰ぎ見る。
雲ひとつない真っ青な空から舞い降りる大きな影に向かって、マリーは大きく手を振った。