第三幕「木綿子」②
それよりも。まだ今日、店に来ない奴らがいる。普段なら十時過ぎには来るはずなのに。これじゃ私が何で家でバイトしてるのか分からないじゃないか。
と思った矢先、入り口の引き戸のスライドする音が聞こえた。私はちょっと不機嫌な雰囲気を醸しつつ肩越しに振り返る。遅えよ。
「いらっしゃいませ~~」
いつになく私の声はトーンが低い。中に入ってきたのは高校生二人、ちなみに背が低く目つきの悪い方が兄で、背が高く笑顔が素敵な方が弟だ。
「何だよ中川、疲れてんのか?」
私の雰囲気を汲み取ったのか、背の低い兄が開口一番そう言った。
「あのねお客さん、ウチは十一時閉店なんですよ。ラストオーダーの時間は過ぎてるんですけど」
私の慇懃無礼な物言いに、その兄はカチンときたらしい。それは仕方ない。私が怒らすような言い方をしてるんだから。
「なんだよその態度は。仮にも俺らは客だぞ? お前、接客業って分かってんのか?」
「だったらもっと早く来ればいいだけの話だろ? 十時には来いっていつも言ってるよな?」
ああ、しまった。うっかり品のない言葉を使ってしまった。ま、これがいつも通りだけど。
「きょ、今日は仕方なかったんだよ……」
兄の方が私から視線をそらした。フン、お前の負けだ。動物の世界だろうが人間の世界だろうが、目線を先に外したほうが負けなのだ。
「ごめんユウちゃん、僕が悪いんだ。ちょっとゲームに夢中になりすぎちゃって」
兄の後ろで弟が手を合わす。悪いことは悪いとちゃんと謝れる。しかも自分が罪をかぶって。どうせ兄貴の方が悪いって最初っから分かってるのに。なんて出来た弟だ。兄貴には弟の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。まさに愚兄賢弟とはこのことだ。
「キミ。謝ることねえぞ。俺ら一応客なんだからな」
「だって兄さん……」
そんな会話を交わしながら、兄弟はテーブル席に腰を降ろす。私はそのテーブルの真ん中に、小ぶりのヤカンを結構な音を立てて置いた。
「な、何だよ……」
「お茶はセルフで」
私はただそれだけ言うと、一度厨房の奥に引っ込むことにする。
「タケ、キミ。気にすんなよ。もめんの奴、早く仕事終わらせたいだけなんだからさ」
父が兄弟に声を掛ける。二人はちょっとだけ恐縮した面持ちで頭を下げた。私は、父さんも分かってないなあ、と思いつつ、少しだけ反省する。私だって別にケンカしたいわけじゃないんだけどさ。
ちなみに『もめん』っていうのは私のニックネームみたいなもん。以前は主に父が言ってただけなんだけど、それを耳にした瑞葉もそう呼び始め、今では学校でも同級生から高い確率で呼ばれるようになった。
そしてこの兄弟、兄の方を小松丈彦、弟の方を公彦という。彼らのお父さんはうちの父の高校時代の同級生らしい。
丈彦たちのお母さんは、十二年前に亡くなっている。今年十三回忌だって言ってたから、十二年前なのは間違いない。そして小学校に上がる頃、彼らはこの町に引っ越してきた。今は勝手料理・中兵衛から北におよそ二百メートル。古い商店街には似つかわしくない高層マンション(といっても八階建てだが)にこの兄弟はお父さんと一緒に暮らしている。
父同士が友達だったことと、ウチの両親の面倒見がいい性格が合わさって、私とこの兄弟はいわゆる『幼馴染み』というやつだ。もちろん昔は三人で、父が指導している柔道場に通っていた。弟の公彦は私と同様、小学校を卒業したときに辞めてしまったが、兄の丈彦は未だに柔道を続けている。
しかしまあ私が色々彼らのことを言わなくても、きっとそのうち丈彦か公彦が説明してくれるだろうから、今の段階での詮索は勘弁してもらいたい。ウチにご飯を食べに来てる理由とか、彼らのお父さんのこととか。
「先生、これ美味いね。メシが進むし見栄えもいいし」
「これってムニエルにあんかけ? 鷹の爪のピリッとしたのがいいですね」
小松兄弟は父の作った創作料理に舌鼓を打ち、美味い美味いと褒め称えている。父のことを丈彦が『先生』と呼ぶのは、柔道場の名残りだ。
父の作った料理は、白身魚のムニエルにあんをかけたもののように見えるが……。
「おう美味いか。良かった。じゃもう一皿出すから食べ比べしてみてくれ。飯もまだ食えるよな? おい、もめん。おかわりだ」
「へえへえ」
仕方ないといった体で、私は茶碗に二杯目のご飯をよそう。
「ついでにお前も飯にしろ」
「了解」
丈彦たちのおかわりのご飯と二皿目のおかず、そして自分用の晩ご飯をテーブルに運ぶと、私は公彦の隣に腰を降ろした。
「おい、中川も早く食ってみろよ。めっちゃ美味いから」
さっきまで私と口喧嘩して言い負かされたにも関わらず、今や丈彦は上機嫌でご飯とおかずを口に頬張っている。
単純なヤツだ。
と、小学生や中学生の時の私なら素直に丈彦のことをそう評価しただろう。実際、私たちが通う美園台高校の生徒も教師も、大半がそう思ってるに違いない。いつも丈彦とつるんでる井上君も高山君もきっと気付いてないはずだ。
「兄さんはさ、実は全然単純なんかじゃないよ? 逆だよ逆」
そんな弟の言葉に耳を疑ったのは、中学三年の夏休みだった。まあ今でもまだ割りと疑ってはいるんだけども。
ただ私がバレーボールを辞めて落ち込んでたとき、励ましてくれたのが丈彦。そう、さっきの激励のセリフは丈彦が言ったものだ。
言われたときは「えっ? なんか丈彦が真面目なこと言ってる」くらいにしか思わなかったし、珍しいこともあるもんだ、なんか変な物食べたかな? とかも考えたけど、後日弟のキミちゃんから「単純じゃない」と聞かされてからは、いつの間にか丈彦を視界に入るときは目で追うようになっていた。
高校に入ってからは、丈彦が女の子に振られまくってるという話はよく聞いたが、女子から丈彦を悪く言う声はとんと耳にしない。なんか理由があるのかもしれない。
ただ、顔を合わせば憎まれ口しか叩き合えない間柄だが、そこに安心感があるのも事実だ。それは昔からそうだった。
しかしこの腐れ縁のせいで、自分から告白する勇気はなかった。バレーボールを挫折して以降、私はまだ何物でもなく、ぼんやりとした日々を過ごしているだけに過ぎなかったからだ。自分の体と心に、何か一本芯を通さなければ、この思いは打ち明けられそうにない。