第二幕「瑞葉」③
スマホの電子音が鳴った。私のではない。堤がポケットからスマホを取り出す。私はそんなことなどまったく気にも留めず、目の前にあった『仔羊の炭火ロースト ミルクソース 季節野菜添え』に心を奪われ、一口一口その味を噛み締めていた。
「やっと来たか……」
堤がスマホを見ながら不意に呟く。来たって? 何が? 丁度私はフォークで刺した仔羊肉を口の中に入れようといた瞬間だった。私は口を開けたまま動きが止まり、上目遣いで堤を見やる。
「ん、今日この店に来るって言ったら『私も行きたい』って言うからさ」
ん? 誰が? こんなお洒落な店で食事できて、目の前には大好きな堤がいる。二人きりの幸せな空間に、第三者が介入してこようというのか。
そのとき堤の視線は私の後ろにあった。爽やかな笑顔で軽く手を上げている。
「お待たせ」
ヒールの音が後方から近付き、私たちの座っているテーブルで止まる。
「遅かったな」
「まーね。もうちょっと早く来れなくもなかったけど、そこは残業優先で」
「ホントに仕事好きだな、お前」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、そこは責任感と言ってもらいたい。じゃ、とりあえずビールで」
「飲むのか?」
「送ってくれるんでしょ?」
一体何がどうしたのか、この女の人は誰? 私が左手で持っていたフォークに刺さった仔羊肉は私の口には入らず、ゆっくりと皿の上に戻る。
「はじめまして、あなたが瑞葉ちゃん?」
その女性は屈託のない笑顔を私に投げかけながら、私の向かい、堤の隣に座った。
「は、はい。そうです……」
別に人見知りとかしない私ではあったが、あまりにも突然のことで、私としては上品な感じでそう頷いた。
「私は佐々木美鳥、美しい鳥と書いて美鳥。よろしくね。ミドちゃんでもトリちゃんでもバードでもチキンでも、好きに呼んでくれていいから」
少し癖っ毛のあるセミロング。ちょっと童顔で可愛い感じの人だが、着こなしている紺のパンツスーツを見れば、社会人であることは一目瞭然だ。
「さて、私も何か食べよっかな? お腹すいたし」
そう言いながら美鳥さんはウェイターを呼び止めると、メニューノートを要求する。
「えっと、先生?」
「ん? ああ、言ってなくて悪かったな。飛び入りが来るって」
堤はそう言って笑ったが、私は既に二人の関係性が分かってしまった。
『恋人同士』
な~んだ、そういうことか~。そりゃあね、堤はドラマに出てくるような飛び抜けた美男子ではないし、車の趣味もどうかと思うし、金銭感覚もちょっと非常識な感じもするけど、柔らかな雰囲気と人当たりの良さとたまに見せる子供っぽさが、きっと母性本能をくすぐってたりするから、彼女がいてもおかしくないよね。っていうか、いない方がおかしい。
なんで私は堤に彼女がいない前提で物事を進めていたのか、そんな自分の浅はかさに腹が立った。
そんな中、堤と美鳥さんは恋人同士の会話を続けている(ように見える)。
「なんで普通にピザやパスタ食べてんのよ。コースでしょコース」
「いや、瑞葉がこれでいいって」
「ちょっと瑞葉ちゃん、遠慮しなくったっていいのに。『啓祐の財布は自分の財布』くらいに思っときゃいいの。どうせ稼いでるんだし、食事代は年上の男が出すのは当たり前」
「は、はあ……」
私は曖昧に頷くしかない。
「ってことで私は一人でコースを頼みます。啓祐はそのパスタでもちびちびつついてりゃいいの」
「いや待て、俺だってコースを食べたかったんだよ」
「じゃ頼めば?」
「いや、もうそんなに食えないし、お前のをちょっと分けてもらえればそれで……」
「それはダメ。食べたいのなら自分で頼んで。私は、私のお金で、コースを頼むの。あんたに分け与える義理はない。もちろん瑞葉ちゃんは一緒に食べてね。御代はお姉さん持ち」
「は、はい、ありがとうございます」
にこやかな美鳥さんの笑顔を見ると、どうしても断れない状況にさせられてしまった感はあった。と同時に、この人にはきっと敵わないという敗北感もあった。
「じゃいいよ。俺勝手に単品頼むから」
堤はちょっとふてくされた雰囲気を出してメニューノートを広げたが、その口元には笑みがあった。きっとこれが普通で、本人も美鳥さんとのそんなやり取りを楽しんでいるのだろうと思われた。
堤とは軽口を叩きあえる仲だと勝手に思ってた私だったが、このとき今までの会話は堤が私に合わせてくれていたんだ、ということに気付く。
「なんかさ」
注文を終えた美鳥さんが、私を向き直り話しかけてきた。
「啓祐の話だと『なんか昔のお前に似てる』って聞かされてたんだけど、瑞葉ちゃん、割りと大人しいんだね」
そりゃあ、大人しくもなる。例えば私が堤と知り合った頃から堤には彼女がいることが分かっていて、もしそのときに美鳥さんとも出会えていたなら、『陽気で気さくで可愛くてかっこいいお姉さん』として懐いていたかもしれない。でも今は、そういう状況ではないのだ。
「い、いや~~、そうですかね」
私は必死で平静を装った。
「何、猫かぶってんだよ」
私の乙女心など何も分かっていない堤が微笑みを投げかける。ああ、この人が鈍感で良かった。私の淡い恋心を知られなくて良かった……。
「ちょっとお手洗い」
少し冷静になりたくて、私は席を立った。落ち着け落ち着け、いつもの自分を取り戻せ。
私は早足でトイレに入ると、鏡の前に立つ。運よく誰もいないことを見計らい、自分とにらめっこしながら顔の筋肉をほぐした。
うん、大丈夫。ちゃんと笑えてる。
そしてスマートフォンをポケットから取り出す。午後八時十五分を少し回っていることを確認し、アラームを八時四十分に合わせた。これでよし、あとはこの嘘がバレないように演技するだけだ。落ち込むのはその後でいい。
「ただいま~」
私はにこやかな笑顔 (をしたつもり)で席に戻った。
「おかえり」
美鳥さんが微笑んで顔を上げる。
「先生ごめん、気付かなかったんだけどさっき親父様からメール入っててさ。なんか迎えにきてくれるみたい。さっき会社を出て、今帰りだって」
車通勤の親父様が、毎日このバイパスを東に向かって通勤しているのは決して嘘ではない。しかもお袋殿だけでなく親父様も今日私が歯科医院の先生と食事ってことは知っている。まあ少し心配はしていたようだが、歯科医院の院長とは長い付き合いなので(どうやら大学の先輩後輩らしい。歯医者を紹介してくれたのも親父様だ)反対しているだろうとは感じたけど、渋々ながらOKをだしてくれたっていう経緯もある。
「え~~、そうなの? 残念」
美鳥さんは本当に残念がっているように見えた。
「聞きたいこといっぱいあるのに~」
「私もせっかくだから美鳥さんに聞きたいこといっぱいあるんですよ。先生の弱点とか悪癖とか失態とか」
「ええいいわよ、いくらでも」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。そういうことはだな。なるべく拡散しない方向性で頼むよ美鳥」
堤は泣きそうな声を上げたが美鳥さんは意に介さない。
「瑞葉ちゃん、LINEアドレス教えて。今度啓祐がいないところでいっぱい教えてあげる」
「え~、ホントですか?」
私はわざと嬉しそうに喜んでみせた。そしてLINEの交換をしながら思う。今日が終われば、この二人とはきっと、二度と会うことはないのだ。
「よし、完了っと」
美鳥さんがスマホ画面を軽くなぞって、人差し指が天井を指したとき、私のスマホのバイブ機能が発動した。
「あ、来たかな?」
私はスマホに目を落とす。うん、八時四十分。これでもう私の恋は終わり。バイバイ先生。
「じゃ今日は先生、ごちそう様。美味しかったよ」
そう言って私が席を立った瞬間だった。
「あ、瑞葉」
「何?」
私は一応、最高の笑顔で振り返ってやった。
「あのさ、来月末俺たち結婚式するんだけど、お前も来る?」
時が止まったかに思えた。とどめを刺されるとはまさにこのことかもしれない。
「考えとく。じゃ、美鳥さんも、また……」
それだけ言うと、私は二人に背中を向けた。振り返ることは出来ない。もう既に私の涙腺は崩壊しかけていたから。
後ろで美鳥さんの手を振る気配だけを感じながら、私はレストランの文字通り重い扉を開けた。
帰りのバス停まで、ここからどれくらいあったっけ? 電車の駅から出ているバスの終点は、確か緑ヶ丘団地のはずだ。一時間も歩けば着くだろうか。私の足取りは重く、油断すると零れ落ちそうな涙をぐっとこらえる。
そっか~、先生、結婚しちゃうんだ。
失恋したこととは別に、私はやり場のない感情を抱えていた。その正体は分かっている。美鳥さんだ。
一人っ子の私にとって「こんなお姉さんがいたら」と思わせるような人だったからだ。もし美鳥さんが頭の悪そうなOLだったり、男に媚を売るだけの女だったりしたら、私の感情はもっと違ったものだっただろう。
今日初めて会ったにも関わらず、地に足が着いた雰囲気とノリの良さとそのかっこよさ(私の個人的な視点だが)に、もう堤を振り向かせることは出来ないと感じてしまった。本当なら堤に送ってもらう車の中で告白を考えていた私にとっては、戦いのリングに上がる前に不戦敗したようなものだ。このモヤモヤとした感情を、私は一体どこへぶつければいいのだろうか。悲劇のヒロインよろしく一晩泣き明かしたら、忘れることは出来るのだろうか。
せめて告白してから振られたかったな……。
そんなことを考えながらトボトボと歩みを進めていた私は、首筋に冷たいものを感じた。
雨……。
私は何十分か振りに頭を上げ、空を見つめた。そういや今日の天気予報は、夜半から雨って言ってたっけ?
濡れていたいとは思わなかったけど雨宿りをしたいとも思わなかった。天から落ちてくる雨はバイパスの街灯に照らし出され、何十本もの白糸を紡ぐ。私は思わず立ち止まり、その光景をしばし見つめた。
なぜ雨は空から落ちてくるのだろう。
意味もなく哲学してしまった私はそのことによって、一つの結論に導かれた。
空か…。なんか、ソラに会いたいな……。
愚痴を聞いてもらいたいとかじゃなく、悲しみをぶつけたいわけじゃなく、ただなんとなくソラと話がしたい。なぜかそう思っていた。
私は運が良かったのかもしれない。ソラの住む緑ヶ丘団地は、市営バスの終点だ。私はそこからバスに乗ることになるのだから。でも、こんな夜中にソラは来てくれるのだろうか。終バスの時間までに来てくれなかったら仕方ない。諦めて帰るしかない。
私はスマホを取り出し、ソラにメールを書く。雨の粒より大きな雫が、スマホ画面を何滴か濡らした。
その後のことといえば……。ソラが傘をさして迎えに来てくれたこと、ソラの家で紅茶を飲んだこと、そしてソラの胸で泣いてしまったこと。そのくらいしか覚えていない。ソラとも幾らかは会話しただろうけど、その内容はぼやけたままだ。ただなぜか安心して眠ってしまったのだろうと推測は出来る。目が覚めたとき、見たことのない天井がそこにあったからだ。
部屋の中を見渡し、そこがソラのベッドの上だと気付くのに、おそらく二分ほどの時間がかかっていた。
正月明けに寝込んでしまいました。
すみませんが次の更新は来週の木曜日になります。
その代わりといってはなんですが
今日の投稿は少し文字数多めです。
またよろしくお願いします。