第二幕「瑞葉」①
ソラはいいヤツだ。私は常々思っている。
穏やかででしゃばることなく、何気に親切。痒いところには手が届き、私だけではなくクラスのみんなも、美術部の部員たちも、信頼の重きを置いていることに間違いない。
そんな理由もあったのだろうか、ソラとは特に話しやすく、口の軽い女友達とは違い、わりと本音で話すことの出来る友人としては稀有な存在だった。
そう、この日もそうだった……。
私は生まれて初めて、失恋というものを経験した。失恋の相手は、堤啓祐二十六歳。歯科医だった。
親の勧めで嫌々ながら歯の矯正をさせられることになった私は、春休み前からバイパス近くに三年ほど前に出来た歯医者に通うことになった。
堤啓祐は、その歯科医院に勤める歯科医の一人だったのだ。
恋に落ちた……、というほど出会いは決して綺麗なものではなかった。
もともと医者嫌いの私。特に歯医者は生まれてこのかた行ったこともない。頑として口を開けない私はあの手この手でなだめすかされ、コップの水を大袈裟にこぼし、堤はびしょぬれ、他の患者さんにも歯科衛生士のお姉さんにも多大な迷惑をかけた。
「ああ、もう、君は小学生か?」
堤はそう言いながら笑っていた。そして、
「でもま、自分の欲求に素直な子は、僕は好きだけどな……」
これって告白? いやいや待て待て、そんなはずはない。冷静になって考えると、有り得ない話だし、そのように解釈すること自体が間違っている。
そのときは単に、「好き」という言葉に反応してしまっただけだった、のだが。
堤の話は面白かった。緊張している私をリラックスさせようという部分もあったに違いないが、堤がボケる、私が突っ込む。春休みが終わる頃には、私と堤の漫才は、歯医者の常連さんの知るところとなった。
私はどうやら、堤に恋心を抱き始めていたらしいことに気付く。
恋は盲目、とはよく言ったものだ。たかだか三週間の歯医者通いで、私は堤にのめりこんでいた。
いつか告白はせねばなるまい……。
楽天家を絵にして立派な額に入れて応接室に飾ったような私である。よもや振られることを考えたりはしていなかった。
そして私としては珍しく念入りに計画を練った。今考えると、妄想が膨らみすぎていただけで念入りも何もないのだが、私が歯医者に行く最終日に、なんとか告白のシチュエーションを作ろうと心に決めた。
私の歯医者通いはゴールデンウィーク明けに終わるが、それまでに堤との会話の中で、さまざまな伏線を張り続けていた。あとで考えると児戯にも等しい計画だったかもしれない。
「先生。なんかさ、緑ヶ丘の団地の郊外にイタリアンの店がオープンしたの知ってる?」
「ああ、院長先生が言ってたな。なかなか洒落ててメシもうまいらしくて。なんか院長先生の奥さんの友達の知り合いみたいだよ、経営者」
「へぇ、そうなんだ。ふぅ~ん。そういや私も来週でここに来るの終わるよね?」
相槌を打ちつつ、私の視線は軽く宙を彷徨いながら、マスク越しの堤を横目で見やる。堤もそれに気付いたらしい。
「お前……、何か企んでるな?」
そりゃそうだ。企んでる雰囲気を出してるんだから。
「え? いや、なんにも?」
私はわざととぼけた振りをする。
「いいや、俺には分かる。お前、暗にそこへ連れてけって言ってるな?」
「あ、先生はそう解釈するんだ」
「ほかにどう解釈しろと? お前の考えてることくらい手に取るように分かる。どうせこのめんどくさい医者通いが終わるご褒美を狙ってるんだろ? 違うか?」
「ま、先生がそう思うんなら、付き合わないわけにはいかないな~~。……痛っ!」
堤の中指が、私の額をはじいた。しかも結構強く。
「ああ分かったよ、俺の負け。お姫様のおっしゃる通りに」
「姫に手を上げるのか? 無礼者め」
「無礼はどっちだ?」
堤はそう言いつつも、仕方ないなあという感じで笑みを浮かべていた。
私はそのとき心の中ではガッツポーズしながらも平静を装い、診察椅子から降りる。
「じゃ、来週、よろしく」
「へえへえ」
とまあこんな会話があって、私は堤を連れ出すことに成功したのだ。
それからの一週間は、寝てもハッピー起きてもハッピー。脳味噌の中では薔薇の花粉がきっと飛び交っており、学校でのテンションもやたらと高く、気を抜くと含み笑いを漏らしていた自分がいたことだろう。
私はその日、美術室の鍵を副部長のソラに渡し、まるで雲の上でも歩くような足取りで放課後を待った。今日ほど六時間目の漢文の授業が長く感じたこともなかっただろう。
終業のチャイムが鳴ると同時に私は一目散に教室を飛び出し、自転車の鍵を開けるのももどかしく、まるで競輪選手のごとく家路に向かう。
さて今日は何を着ていこう。昨夜のうちに考えていた候補は三つある。かわいい系でいくか、純情系でいくか、かっこいい系でいくか。あとやたら若作りに精の出る、お袋殿のパンプスを(勝手に)借りようかな? 少し大人の女でも演じたら先生、クラクラきちゃってワインの一杯でも飲ませてくれるかも? 万が一ってこともあるかもだから、一等オキニのパンツとかはいていった方がいいのかな?
と、妄想で頭がぐるぐるになりながらの帰り道、少年を二人ほど轢きそうになりながらいつの間にか家に着いていた。
待ち合わせは六時。十分に間に合う時間だ。こういう場合女として、早く行ったほうがいいのだろうか? それとも多少男を待たしたほうがいいのだろうか? いや先生のことだ、きっと時間より早く着いてるはず。じゃ、丁度くらいに行けば色んな意味で問題ない。
私はデニムのミニスカートを履き、Gジャンを羽織る。そして今日はいつもは履きなれない黒のストッキング。それから鏡の前で何度もポーズを決めてみる。うむ、我ながらかっこいいぞ。これで男を落とせなきゃウソだ。
準備万端、覚悟完了。いざ出発。
ま、今日のことは親子というより友人と言った方が近いかもしれないお袋殿には言ってあるから、別に心配はしないだろう。なんてったって、
「まだ孫の顔を見たいとは思わないからね、それだけ気をつけて」
とか言って茶化す母だ。でもなるべく午前様にはならないようにしよう。一応未成年でもあるし。
五時五十八分。
待ち合わせ場所の歯医者近くの公園には、なにやら日本ではあまり見かけないような真っ赤な車が停まっていた。車の車種なんかまったくもって分からない私ではあるが、日本車ではないってコトくらいはなんとなく分かる。しかも左ハンドルだ。
「よう、遅れずに来たな。偉いじゃないか」
そう言いながら堤がその赤い車から降りてきた。しかもそのお子様扱いの台詞はなんだ?
「ちゅうか先生、車ピッカピカじゃん」
「俺の車はいつもピカピカだ。さっきワックスかけてきたしな。――ってこら、ベタベタ手垢をつけるな」
「今日雨降るんだよ? 聞いてない?」
「マジで?」
堤は頭を抱え天を向いた。普段は大人ぶってるくせに時折見せるこういった仕草が私には可愛くて仕方ない。年上相手に失礼かもしれないが。
「それじゃお姫様、どうぞ」
堤が助手席の扉を開ける。
「うむ、ご苦労」
私はまるで下僕でも見るような視線を堤に投げかけると助手席に乗り込んだ。
堤はやれやれといった感じで少しだけ天を仰ぐと、ドアを閉めた。
今週はお正月なので、次の木曜日はお休みさせて頂いて、次話投稿は1月6日の月曜日になります。よろしくお願いします。