第一幕「空生」③
「やっほー」
近所の公園。石野が僕に大きく手を振った。僕も軽く手を上げてみせる。
「なんだよ、こんな時間に」
僕の言葉は殊更にそっけなかった。普通に振舞っているつもりがそうさせたのかもしれない。
「いやー、悪いね。こんな夜中に呼び出しちゃって」
そう言って頭を掻きながら、石野は笑っているように見えた。いや見えただけだ。
「ほら」
僕は持ってきた傘を差し出した。
「さんきゅさんきゅ」
石野のショートカットが雨に濡れ、前髪に癖がついていた。
そんなに大降りの雨ではない。それを考えると、石野の服や髪の濡れ方は、まるでスコールを浴びたあとのようだ。
「帰れるのか? もう十時過ぎてるけど」
僕はなるべく核心には迫らなかった。石野が自分から言い出すまで、僕が触れる話題ではない。
「大丈夫、終バスの時間見てきたから。十一時五分だって」
そう言いながら石野は傘をさした。
そのときの石野は、心の中の感情に違いはあれども、僕と同じだった。そう、なるべく普通を装っているのだ。自分もそうだからかもしれないが、それが手に取るように分かる。
「ウチ、寄る? タオルくらい貸すよ。それじゃ風邪ひくだろ?」
僕は何を喋ったらいいのか分からなくて、必死で言葉を探しながらそう提案した。
「らっきっ。それが狙いだったんだけどね」
石野の言葉は、本心かどうか分からない。それは僕がそうであるように。
「仕方ないなあ」
僕はそう言いながら石野を促した。それから家に着くまで(ほんの二、三分だが)石野は全く口を開かなかった。天然陽気でクラス内からは『喋る機関銃』とまで言われているあの石野が、だ。
「おっ邪魔~~」
「どうぞ」
「誰もいないの?」
「親父もお袋も仕事」
「ふぅ~ん、ソラって鍵っ子なんだ」
「まあね。今コーヒーでも淹れるよ」
僕は石野に三枚ほどハンドタオルを渡して台所に立つと、インスタントコーヒーを探した。
「私、紅茶がいいなあ」
キッチンの、いつも僕が腰掛けている席に座り、石野が髪をタオルでグシャグシャと拭きながらわがままを言う。
「へえへえ」
僕は返事をして、肩越しに石野を見る。僕が石野から目を離した振りをした時の石野の表情は、かつて見たことがないほど疲れきっていた。
「レモン? ミルク?」
僕は石野を振り返らずにそう尋ねる。
「……え、あ、レモンレモン」
ちょっと間があって石野が答える。何か考え事をしているのは明白だ。
僕はケトルを火にかけると、石野の正面に腰を降ろした。
沈黙が走る。
相当長い時間のように思えたが、それが二分足らずであったことは後になって気付く。
「何にも聞かないんだね、ソラ」
妙にしんみりと石野が切り出した。僕は黙って、ほんの少し頷く。
「いや、まあ、それがソラのいいところなんだけどね! はっはっは」
無理に明るく振舞おうとしているのだろう。石野のわざとらしい笑いは乾ききっていた。
「なんで僕のとこに来たんだ?」
僕もさすがにしびれを切らしたのかもしれない。
「だって、クラスの友達は仲が良すぎだし、もめんの家は遠いしね。私、つかず離れずのニュートラルな男友達が一番信用できるから。あ、もちろん店から近かったのもあるけど」
「もめん? ああ、中川のことか……」
昨日までの僕であれば、石野の言葉に内心嬉しがったに違いない。でも今日の僕は違っていた。
石野の言葉や行動は、本当に僕を単なる友達としか見ていない証拠だ。しかも「安心できる」という形容詞まで付く。
確かについこの間までそういう関係を望んでいたのは僕だった。しかし今は違う。僕は石野に惚れているのだ。
つい偶然にも、今日石野が赤いポルシェの助手席に座り、運転席の男と楽しそうに談笑しているのを目撃している。ある意味その瞬間が失恋だったと言っていい。
そんな中、目の前に石野が座っている。僕と同じように失恋の憂き目にあって。
まるで拷問に近いような感覚だった。目の前の女の子に失恋しているのに、僕は彼女に対してなんと言えばいい?
確かに家に帰ってから自分の中で、石野が別れたらいい、と思っていたのは事実だ。しかしどこかに、幸せに欲しいと思っていた自分もいる。
失恋相手に、失恋の話を、単なる男友達として、聞かされる。
それは失恋という擦り傷に、塩を塗り込められる、という状況に等しい。
僕は勝手に、石野に傷付けられている。石野はそれを知らない。知って欲しくもない。それが僕に出来る、唯一の労わりだろうから。
「ごめん……。一人になるのが、怖かったんだ」
石野はそう呟いた。
その気持ちは、分からなくもない。だからこそ僕は最大限のお人好しを発揮して、石野の前にいるのだ。
「ありがとう、ソラ。少し落ち着いた……」
「そう……」
「もう、帰るね。終バスの時間だから」
「そこまで送っていくよ」
石野が頷く。
そして玄関で靴を履いたそのとき、石野は一つ鼻をすすり、背筋を伸ばして僕を見た。
「どうした?」
その瞬間、石野は僕のシャツの袖を掴む。
「ごめんソラ。ちょっとだけ、胸、借りるね……」
石野はそう言うと、僕の胸に顔をうずめた。そして、声を荒げて、泣いた。
咄嗟のことで僕は何も出来ず、直立不動のまま視線は宙をさまよい、呆然とするしかなかった……。
次回より「瑞葉」編