第一幕「空生」②
僕はバス通りに出ると、停留所でバスを待った。時計の針は六時を回り、街は学生やサラリーマン、買い物帰りの主婦たちで溢れている。バスに十五分ほど揺られると、住んでいる団地街に辿りつく。家に着いても共働きの両親が帰っている時間ではない。父は単身赴任だし、母は看護師をしていて、今日は準夜勤とか言っていたからもう仕事に出掛けているだろう。晩ご飯は何にしようか、などとぼんやり考えていたそのとき。
目の前に、信号待ちで赤いポルシェが停まった。かっこいい車だなあとは思ったが、「日本に左ハンドルは必要ないだろう?」と心の中で毒づき、ふと中を見た。
石野……?
思わず我が目を疑った。運転席にはイケメンの男がハンドルを握っている。もちろん石野は僕の存在に気付くはずもない。
信号が青に変わってポルシェは走り出し、時を同じくして環状線で走るバスが緩やかにやってきた。
「学生さん、乗らないの?」
「あ、すみません、乗ります」
バスの運転手の声に僕ははっとして、ノンステップバスに乗り込む。
何も考えられなかった。というより何も思考がまとまらなかった。実際言ったことのない丈彦の声が、頭の中でこだまする。
『だから言ったろ? 好きなら好きってはっきり言えって。好きなのに告白もせず、お互い卒業して疎遠になって思い出に浸って、それでお前は満足か? 後悔しないか?』
僕は頭を振った。そして反論する。
『じゃあ上手くいったらともかく、告白して振られたとき、傷つく自分にお前は耐えられるのか?』
『傷つくか傷つかないかなんて、そんなことは問題じゃない。我が身可愛さで石野の幸せ祈って、聖人君子でも気取るのか? 好きだっていう感情抑えてさ』
『感情を抑えることの何が悪い』
『じゃ将来、絶対後悔しないって誓えるんだな?』
『仕方ないだろう? 石野にはもう彼氏がいるんだし』
『フラれることが分かっていても、言うだけは言っといたほうがいいんじゃないか?言葉にしないと自分の気持ちは伝えられない。それとも石野に彼氏がいたとして、今の関係を続けていきたいなどと考えてるのか?』
『ああ、そうだよ。それのどこが悪い!』
「次は~~~、緑ヶ丘団地入口~~、緑ヶ丘団地入口~~」
脳味噌の中で、丈彦を相手に勝手な論争を続けていたが、降車駅のアナウンスで僕は我に帰った。
バス停からたかだか三分少々であるにも関わらず、僕の足取りはやたらと重かった。
家に帰ってからも、何もする気が起こらなかった。思考回路が停止してしまい、頭の中を真っ赤なポルシェがグルグル回っていた。石野の笑顔が、僕に向けられていないことも悟った。
僕はどうすればいいんだろう。
水本先生が言うように、右脳でも左脳でも考えられなかった。答えが見つからないまま、僕はベッドに臥していた。恋愛小説のように枕を濡らせば、傷は癒えるのだろうか。
ただ、胸が痛かった。
十八年近く生きてきて、初めてのことだった。何もしたくなかった。
携帯電話の電子音が鳴った。誰かからメールが届いたようだ。
うざかった。
電子音だけでなく、表から聞こえる車の音、踏切の音、子供たちの声……。すべてが僕を嘲笑うように聞こえた。
僕は枕をかぶり、すべての音を遮断した。そうして暗闇に身を委ねながら、僕はいつの間にか、浅い眠りに落ちてしまったようだ……。
僕が目を覚ましたのは、再び携帯メールの着信音だった。時計を見る。午後九時半を回ったところだ。
少し惰眠をとったせいか、頭が朦朧としていた。起きてからの数分間は、石野のことなど忘れていた。
とりあえず欲望の赴くままトイレに行き、眠気覚ましに顔を洗ってみる。
洗面台の鏡には、ひどく煤けた感じの自分の顔が映っていた。目が赤い。僕は泣いていたのか……。
ほんの少しではあるが、冷静さを取り戻したような感じがした。
『女なんて、いくらでもいるさ』
再び丈彦の声が聞こえた気がした。
『新しい恋を見つけろよ。少しは楽になるぞ』
そうかもしれない。僕は丈彦の声を否定しなかった。
ただすぐにというわけにはいかないだろう。それまでどうやって心を整理するか、だ。
僕は部屋に戻り、携帯のメールをチェックした。
二件。
しかし再び、僕の体は凍りついた。
送信者・石野瑞葉。二件ともだ。
なぜ僕に石野からのメールが届くのだ。真っ赤なポルシェの男とデートしているのではないのか? ひょっとしたら抱かれていたりするのではないのか?
それでも僕はそのメールをすぐに消すことなど出来なかった。
石野のベクトルが自分に向かってないことを知りつつも、石野からのメールを心のどこかで嬉しがっている自分がいたのかもしれない。だがそのメールを読むには、少し勇気がいった。
石野が僕にメールを送ってくるときは、決まって何かしら嬉しいことがあったときか、僕を羨ましがらせるときか、相場は決まっている。あとは部活関係。
メールを開けるのは怖かった。でも開けざるをえないことにも気付く。もし明日、石野がこのメールの話題に触れたとき、知らぬ存ぜぬでは、石野の気分を害するだろう。
そこまでしても僕は、石野の機嫌を取りたいのだろうか? もはや終わった恋なのに、そんな必要があるのだろうか?
いや、そんな必要はあるのだ。
石野に僕の気持ちを悟られてはならない。石野が僕に全く気がないとしても、僕がもしそっけない態度を取ったとしたら、いつもと違う僕を不思議に思うだろう。ひょっとしたら僕が石野に横恋慕していることに気付くかもしれない。
そうなると石野の口からは、ごめんなさいという謝罪の言葉が聞かれるだろう。そして、今までの関係が崩壊するのは確実である。
またそうなった場合、石野の心に「自分はソラを振って傷つけてしまった」という自責の念に駆られるとしたら尚更だ。
僕はメールを開けた。仕方のないことだ。
『今からイタリアンレストランに行くのだ。最近オープンしたデ・ジャヴーって店。へっへっへ、羨ましいだろ~~~』
僕は思わず苦笑していた。
知ってるよ、あのポルシェの男とだろう? 案の定のことで悲しくもあり淋しくもあり、もちろん胸も痛かったが、これで明日石野と顔を合わせても話が合わせられる。石野をつまらないことで傷つけなくて済む。
そのときの一瞬の僕は、自己犠牲の精神に酔っていたのかもしれない。
以前にもこの類のメールはときどき来ていた。そのときも「ひょっとしたら男とかも?」と疑心暗鬼していたが、「どうせ家族と一緒だろう?」などと自分を慰めていたものだ。
物事を都合のいいように解釈し、それを信じることは愚かな行為だと、僕は今更になって気が付いた。
外ではどうやら、雨が降ってきたようだ。僕は自分の心と重ね合わせ、ふと窓の外を見やった。
ひょっとして今頃石野は……。
思わずそんなことを考えて頭を振った。
もう石野のことを考えるのはよせ……。早く終わった事にしてしまえ……。
僕はもう一度携帯を取ると、二件目のメールを見た。
どうせ晩飯は美味かった、って感じのメールだろう。
しかし僕は、次の瞬間、靴を履くのももどかしく、表に飛び出していた……。
月曜日と木曜日に掲載の予定です