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第七幕「空生Ⅱ」①

『今、緑ヶ丘団地入口のバス停なんだけど、ちょっと会えない?――――――失恋中』

 石野からの二通目のメールの内容。

 この文面を目にした僕は、傘を手にし大急ぎでバス停に向かった。石野の姿を発見した瞬間、僕は呼吸を整え、何事もなかったかのように振る舞い、石野を家に迎え入れたのだった。

 できるだけ平常心を装って何往復かの会話をする。自分の気持ちを、自分の感情をコントロールし、表面上を上手く繕うことにかけては割りと自信があったのだが、この時ばかりはそれがちゃんと出来ていたのか分からない。多少の発汗があり、心拍数も上がっていたように思う。

 今現在、石野はリビングのソファーで寝息を立てている。さっき石野と会ってからその顔をまともに見れずにいた僕だったが、今こうして改めて石野の寝顔を見ると、泣き腫らした跡があることを理解する。

 石野からの一通目のメールで書いていたイタリアンレストランからここまでおよそ三キロ弱。おそらくだが雨の降りしきる中、ここまで歩いてきたのだろうと推測された。失恋という単語に自分と重ね合わせてしまうけど、例えば僕のように、すぐにベッドに突っ伏して眠ってしまっていたら、少しは楽な部分もあったんじゃないかと思う。ここに到着するまでの小一時間ほどの間、行き場のない悲しみの中、何をどう考えていたのか。その気持ちは痛いほど分かる気がした。

 悲しみを癒してくれるのは時間である。そんな言葉をどこかで聞いた記憶がある。今僕の目の前に、僕の失恋した女の子が眠っていることは事実だが、失恋をしてからの時間は、彼女より僕の方がおそらく幾分か長い。つまり僕の方が彼女より悲しみの度合いはきっと低いのだ。と、勝手に自分に言い聞かせた。

 だから彼女が、僕の失恋相手であるという事実は当たり前のように否定できないが、その事実は一旦横に置いて、僕で良ければなるべく石野に優しくしてあげよう。僕がほんの数パーセントでも彼女を慰める存在になるのであれば、その期待に応えよう。

 僕は少し落ち着いたせいか、そんなことを思い巡らせていた。ああ、僕は失恋を経験してまだ数時間しか経過していないが、これが「時間が解決する」ということなのかもしれない。ポルシェの助手席に座っている石野を発見した数時間前が、随分と昔に感じられた。実際、石野の失恋を今もまだ知らずにいたら、こんな穏やかな気持ちにはなっていなかっただろう。

 石野の体にタオルケットを掛けながら、僕は一つの決心をした。石野のことは諦めよう。でもこれからもいい友達でいよう、と。もちろん今もなお恋愛感情がないわけではないでれど、やっぱり石野には石野のままでいて欲しい。大雑把で、粗忽もので、天然陽気で、運動神経が良くて、おしゃべりで、それでいて絵のタッチは何故かとても繊細な、そんな石野のままでいて欲しい。だから僕の気持ちなど関係ないのだ。

 石野が僕の胸で泣き疲れてから十五分ほどが経過していただろうか、終バスの時間は過ぎてしまっていた。僕は一旦、石野への想いを遮断して現実を見る。

 さてこれからどうしようか? 考えようにも選択肢はそれほど多くはない。その中で僕は一番無難であろう方法を模索する。もちろん石野が自分の家に連絡の一本も入れていれば問題はないのだが、その確率は極めて低いだろう。だとすると最善は……。

 僕は母に連絡を入れた。こういう時こそ大人の出番だと思う。石野は以前、ウチに遊びに来たことがあるので(タケと大夢と中川もいたけど)母とは面識もある。

 母は隣町にある総合病院の整形外科で看護師長をしている。最近は若いナースたちが夜勤手当て目的にこぞって夜勤をしたがるらしいので、シフト制作に頭を悩ませているらしい。母は今日準夜勤。準夜勤といえど午後に師長会議があるとのことで、出勤は午後一時。今日は日を跨ぐ前には帰れそうと、昨日の夕食時に聞いた記憶がある。

「ああソラ、どした」

 母はすぐに電話に出た。車通勤で運転中だろうから、おそらく折り返しの電話が掛かってくると思っていたのに、ワンコールで出て少々ビックリする。どうやら深夜まで営業しているスーパーに入るとこだったらしい。

「あとどのくらいで帰れる?」

「十分、いや十五分くらいかな? これからちょっと買い物するから。あ、そうだ。今結構雨降ってんだよね。着いたら連絡するから駐車場まで傘持って来てくれる? 荷物もあるしさ」

「うん、了解」

「で? ソラの用事は? なんかあった?」

「ん、帰ってからでいいや。今日中に帰れることが分かったから」

「あ、そ」

 そう、怖いのは何らかの急患とかが入って、母が朝帰りとかになるのが多少心配だっただけだ。今日中に帰ってくれるなら問題ない。まあウチの母ならなんとかしてくれるだろう。なんでもテキパキとこなせる人だ。

 ちょっとホッとして一つ大きな溜息が出たところで、僕の腹が音を立てる。そういや帰ってから何も口に入れてなかったなと思い、冷蔵庫を開ける。おそらく母が僕の晩ご飯にと用意してくれたものであろう、チキンのトマト煮とほうれん草の白和えがあった。腹の虫は鳴りやんでいなかったが、母が帰ってから一緒に食べればいいやと思い、冷蔵庫の扉を閉める。

 母が帰宅するまで十五分。少し手持無沙汰な感じだ。

 僕はケトルを火にかけ自室に戻ると、クロッキー帳と鉛筆を持ってリビングに帰った。そう、今まで誰にも見せたことのないクロッキー帳。中身はというと、そのほとんどが石野の絵で埋め尽くされている。もう三十枚くらいはあるだろうか。そして僕はA4サイズの白紙のクロッキーリーフに、石野の寝顔のスケッチを始めた。もうこれが最後かな? しかも実際の石野を見ながら描くのは初めてでもある。

 紙に鉛筆がこすれる音だけが、リビングの空間を支配する。その時の僕は、おそらく軽く笑んでいたに違いない。短時間でどれほど描けるかは分からないが、今までで一番筆が乗っていたように思う。

 絵が描き終わればこのリーフをクロッキー帳に挟み、これから後、ほとんど見ることもなくなるだろう。そして思い出の一つとして、部屋の隅に放置されるだろう。ひょっとして何年後がにこのクロッキー帳を開けた時、高校時代の片思いが蘇るかもしれない。

 鉛筆を紙に走られた時間はおよそ十分ほどだったが、この十分は僕の中では永遠に等しい十分だった。それほど長く感じられた。今までにない集中力が発揮され、紙の上に描かれる石野の睫毛一本髪の毛一本にまで魂が込められた、そんな感覚に陥っていた。

 前々から僅かに思っていたことではあったが、絵を描いているとき、特に速写している時ほど集中力は高まり、何も考えることなく絵に向き合える。何かを忘れたい時など、速写はまさにうってつけの行動だ。

 絵を描き終え、リーフと鉛筆をテーブルに置くと、僕は大きく息を吐き出した。そしてゆっくりと自分の描いた絵とソファーで眠っている石野を交互に見る。絵の中に、躍動感があるわけでもない。とびっきりの笑顔があるわけでもない。石野の性格を表現する上で、これほどかけ離れた絵はないだろうと思い、なんかおかしくなって少しニヤけていた僕がそこにいただろう。

 でもこの絵は、僕にとっては最高傑作に思えていた。これが自分の実力で十分という短時間のうちに描けたとは思えないほどだった。何かの力が作用したのかもしれない。

 お湯が沸きケトルが悲鳴を上げたところで、バイブ機能にしていた携帯が震えた。母が駐車場まで帰って来たのだろう。

 リーフの中にいる、きっと誰も知らないであろう石野。この絵を最後の思い出としてクロッキー帳の最後のページに挟み込む。そして僕は母を迎えに行くために傘を持ち、団地の階段を下りた。



外出せずに引きこもっているせいか、

まさかの二日連続UP!


いつか来る投稿期間が空いてしまう前に

出来るだけ多く書いて行きたいところですw

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