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第一幕「空生」①

「ソラっ!」

 よく澄んだ甲高い声に僕は少し肩を落とし、ワンテンポ遅れて振り向いた。

 春の陽光が渡り廊下に差し込んでくる穏やかな昼休み。購買部で買ったチーズ蒸しパンとフルーツ牛乳をビニール袋に入れて、僕は友人二人と屋上に向かう途中だった。

「石野……、何?」

 僕は表面上は不機嫌さを微塵も見せず、その声に向かって返事をした。

「今日水本先生出張だからさ、これ、美術室の鍵。私も今日ちょっと用事があるからさ、美術室の管理は君に任せる」

 そう言って彼女は、美術室と美術準備室の鍵を僕の目の前でちらつかせた。

「僕も用事があるって言ったら?」

「部長命令だから却下。っつーか、放課後の美術室の主様が一体何の用事よ?」

 一応さりげなく抵抗を試みてはみたが、もともと口で勝てないことは分かっている。

「了解……」

 僕は仕方なく鍵を受け取りポケットにしまい込んだ。

「じゃっ、私はこれで!」

 石野は敬礼すると、疾風のように走り去った。僕は思わず溜め息をつく。

「大変だなソラ、あんな部長で」

「お前が部長引き受けてれば良かったんじゃねえの?」

 友人の高山大夢たかやまひろむ小松丈彦こまつたけひこが同情する。

「だいたい女なんてモンはさあ、一発ガーンといってやればいいんだよ!」

 丈彦は一六〇センチにも満たない体を左右に動かし、シャドゥボクシングの真似をした。

「別にいいよ、美術室の主って言っても嘘じゃないんだからさ」

 僕は適当にその場をごまかした。いくら親友だとはいえ、見抜かれるわけにはいかない。僕はこれまで、本心を隠し通して生きてきた。他人からは一歩引き、なるべく目立たないように、目立たないように……。

 だからこそ僕、井上空生いのうえあきおが、石野瑞葉いしのみずはに好意を持ってるなんてことは、自分の胸の中だけに封印しておく必要があったのだ。


 放課後の美術室は、別に活気に満ち溢れているとは決して言えないが、一、二年生を中心に四、五人はいただろうか? そもそも幽霊部員や掛け持ち部員が多いせいか、今日はこれでもよく集まっている方である。

「こんにちは、ソラ先輩」

 後輩が挨拶してくる。別に後輩にあだ名で呼ばれたとしても、気にもしないし違和感はない。

「ああ、元気? 最近顔見なかったけど?」

「え? まあ、最近忙しくて……」

 後輩が頭を掻いた。

「忙しいって? ゲームか何かじゃないの?」

 嫌味にならない程度の言葉を選びつつ、僕は笑顔で会話する。

「いやあ、そうなんですけどね。ヘヘヘ……」

 後輩たちに屈託はない。

 僕は十分ほど後輩たちと進学の話や教師の悪口で盛り上がり、描きかけのキャンパスを準備室に取りに行く。

 絵を描くという行為は、決して上手くもないくせに昔から好きだった。美術教師の水本に言わせると、僕の描く絵はデッサンは下手だし基本も何もなってないらしいのだが、センスはあるのだそうだ。

 僕としては、ホンマかいな? と首を傾げるしかないのだが、まあそれでも誉められて嬉しくないはずがない。

 確かに水本には、色々と影響された部分はある。たとえば今現在、僕の頭の中を占めているのは、右脳と左脳のことだ。

 おおよそにおいて、日本人は左脳で物事を考えやすい。それは理屈であったり、三段論法であったり。その方が人に対して説得力がある言葉を伝えられることは間違いない。しかしそれだけでは、新しい何かを発見したり、過去の遺物にすがってしまう恐れもあるだろう。この辺が、日本人が想像の枠を出られない考え方しかできない原因じゃないかと思っていまう。

 だからといって右脳だけで行動してしまうのは、左脳肥大症よりずっと危うい。勘とかセンスとかインスピレーションだけで物事を判断してしまうと、社会から浮いた存在に見られるし、協調性も皆無になるだろう。

 つまり、右脳と左脳がバランスよく活動していることが、健康な頭脳じゃないかと考えたりするのだ。僕が美術部に入ったきっかけは単純にそんなものだった。

 だからといって、僕が単純に左脳肥大症から脱出できたとは言えないが、最近では、将来はデザイン関係の仕事につきたいと密かに思っていたりもする。

 それから僕は二時間近く美術室にいたが、後輩たちがさっさといなくなってしまったため、僕も引き上げることにした。

まだ五時半を少し回ったところだが、仮にも受験生。そうそう部活に執着することもないし、どこかに応募してみようという意思もさらさらない。

 西日の校庭では野球部とサッカー部と陸上部が、グラウンドを上手に使い分けて練習している。

「ソラ、今帰り?」

 サッカー部でキーパーをしている高山大夢が、目ざとく僕を見つけて声をかけてきた。

「うん、もう誰もいなくなったしさ、続きは家でやろうと思って」

 僕はそう言って、鞄からはみ出たスケッチブックを叩いてみせた。

「来週の日曜、練習試合が決まったんだ。しかも県ベスト4の聖稜学園だってさ。参っちゃうよな……」

 大夢は俯き加減で頭を掻いた。この友人は体格も良くて、その割には機敏で運動神経も抜群なのに、少々気が小さいというか臆病なところがある。

「いいじゃん。聖稜が相手なら、大夢の出番増えるし、いいとこ見せられるんじゃない? 呼ぶんだろ、佐々木」

 僕は全く悪意などなく、大夢が付き合ってる彼女、佐々木千尋の名前を出した。

「でも……、俺のせいで負けたら……」

 僕はそっと溜め息をついた。

「負けて当然の相手なんだから、あんまり考え込むなよ。な」

「ああ……」

 大夢は相変わらず自信なさげに見えたのだが、僕は軽く大夢の肩を叩き、そして別れた。

 しかし僕自身としても、決して大夢を笑うことなど出来ない。つまるところ、既に一年以上も片思いを続けている自分がいるのだ。

 石野とは同じクラス、同じクラブということもあって毎日顔を合わせ、毎日何らかの会話をしているだけで、初めのうちは幸せだった。会話の端々には僕を友人として認めてくれているような素振りは幾度となくあったし、僕もそんな関係を大事にしたかった。

 でも……。

 それが恋愛感情に発展してしまったとき、僕の中では何かが変わった。同じ関係を保っていきたいという心と、石野に告白してあわよくば付き合いたいという感情が、胸のうちで葛藤を始めたのだ。

 僕には、前者を選ぶしかなかった。そう、それは勇気というものが存在しなかったと言い換えられるだろう。

 だから、僕が石野瑞葉に抱いてる感情を、誰にも気付かれてはならなかったのだ。それによって、僕と石野の現在の関係が壊れてしまうことを恐れたからだ。それから僕は、普段どおりに石野と会話をすることが苦痛になっていた。

 好きだから話したい。好きだから一分一秒でも一緒にいたい……。

 それが僕の本心ではある。でも実際は、特に最近だが、少しずつ石野を避けるようになっていることは否めない。いくら自然に振舞おうと、そこには確かに不自然さが見え隠れし、いつかボロが出るんじゃないかと思う自分が存在するからだ。

 丈彦なんかに言おうものなら、

『さっさと告白しちゃえよ。振られたら振られた時さ』

とか言うんだろう。おめでたいヤツだ。年がら年中、女の子に振られまくっているヤツに、僕の苦しい気持ちなど分かるものか。


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