第22話『帰った人』
桃谷駅に停まっている電車に乗っている。相変わらず人が多く息が詰まりそうだ。いつも通り端っこに座っている俺の席の隣は空席だった。
「お隣、よろしいですか?」
珍しい。こんな事があるとは思わなかった。いや、珍しいと言うのも当たり前だ。初めてなのだから。俺の隣の席に座ろうなんて人が現れたのは。
「いいですよ」
その人は老婆だった。年齢が八十歳はいっているだろうから老婆で合っているはず。
断る理由もないので許可を出した。俺の隣だからと言ってなんで俺の許可がいるのかは疑問に思わなくもない。
老婆は安心したのか優しく微笑んで、長いスカートに皺を付けないように丁寧に座った。
妙に安心した。何かしたわけでもないのに全てを赦してもらった気分だ。
「最近どうですか」
また驚いた。
さっきのは偶然かただボケたババアの戯れ言だと思っていた。
今度は間違いなく俺に話しかけている。初めて会話をしたような気分だ。
「いい天気です」
初めて、だから人との会話が上手くできない。なんだ、いい天気ですって。
「それはよかったですね」
多分、気持ち悪がられてはいない。
ちゃんと聞いてみると、老婆にしてははっきりと言葉を話していた。俺よりも鮮明かもしれない。
「私が分かりますか?」
よく見てみたが分からなかった。
「すみません」
「そうですか」
若干、落胆していた。声のトーンが落ちたから勝手にそう思った。
それきり会話は続かなかった。
毎日乗っている電車と同じ電車、同じスピード。何も変わらないはずなのにゆっくりに感じる。
違うのは隣に人がいる。ただそれだけなのに。
少し時間が経って鶴橋駅に着いた。
あまりに人でごった返しているので、車両の中よりも日曜日だということを改めさせられる。
そこに一人見知った人物がいた。
小柄な体格の少年だ。携帯を見つめる目はくりっとしている。女子に人気のありそうな少年だ。男としてではないが。
ともあれ、その少年――ラケットは一人で反対車線のホームの階段の近くに立っていた。黄色いブロックのすぐ後ろに立っているから並んでいるのかと勘違いしてしまいそうだ。よく見ると列には並んでいない。
変な所に立っているが、混雑しているおかげでそんなに目立ってはいない。
一つ、ラケットの後ろに影があることに気づく。入り交じる雑踏に邪魔されながら、目を凝らしてその影を見る。
スーツ姿の爺さんだとわかった時、爺さんはラケットのすぐ後ろにまで近づいていた。
何故か、全身に鳥肌が立っていた。久しく出してなかった汗が緊張と共に湧き出る。呼吸のペースが早い。息苦しさを和らげるため頭を膝の上に置いた。
あの状況に、俺は既視感がある。どうしてそう思うかわからない。一体、いつ、どこで。思い出せない。
ただ、非常にまずい状況になっていると感じる。それなのに俺は動けないでいる。
「大丈夫ですか?」
肩が飛び跳ねた。
人生で一番驚いたと言える。
顔を上げると老婆が心配そうに俺を見ていた。
「すみません」
思わず謝った。悪いことなんかしてないのに謝ってしまった。
「いいんですよ」
許してくれた。でも何を。
だって俺は何も悪いことはしてないし、法律もルールも破ってやしない。だから許される必要なんてない。
「いいんです」
老婆は続けた。
「例え誰もやったことがないとしても、暗黙のルールとして禁忌とされていたとしても、具体的な理由がなくても、自分がやりたいのならやってもいいんです。我慢なんてしなくていい」
我慢? そうかもな。俺は我慢しているのかも。
「あの少年が大切なら尚更です」
大切、大切に決まってる。
「そうだよな。ちょっと行ってくる」
「ええ。行ってらっしゃい」
決断した。
もう一度ラケットの方を見る。後ろの爺さんには気づいていない。誰も気に止めていない。
立ち上がって、ふらつく足を制御する。
その瞬間、気づいた。
立ち上がるなんて、いつぶりだろう。
歩き出して、思ったよりも自分が軽いことがわかる。そのまま前に歩き、電車の壁を通り抜ける。
慣れない感覚に合わせつつ、だんだんと速度を上げる。完全に走ろうと大きく踏み出すと、地面に転んだ。痛みはない。
起き上がってラケットの無事を確認すると、機会を伺っていた爺さんの手がもう背中まで伸びていた。
焦燥感が身体中を駆け巡る。
馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。俺は馬鹿だ。ここからじゃもう間に合わない。手が届かない。
走り出しながら、俺は目を背け手を握りしめた。
そして、どうしようもなく後悔した。
「何やってるんですか!」
聞き慣れた声が聞こえた。珍しく大きな声だった。
見ると、優凛ちゃんがラケットの隣にいた。彼女の右手はラケットの背中に触れている爺さんの腕を握りしめていた。
ラケットは優凛ちゃんの大声を聞いて初めて後ろを振り返った。状況を理解したのか慌ててホームの内側の方に下がった。
「お、岡崎さん?」
ラケットは困惑した様子で優凛ちゃんを名字で読んだ。
「この人今、大島くんのこと突き落とそうとしてた」
優凛ちゃんは明らかな敵意を持って爺さんを睨む。
周りの人達も異変に気づいたのか少しづつ野次馬が集まってきた。
分が悪いと思ったのか、爺さんは優凛ちゃんの手を払い除け、周りの人達の中を突き進んだ。
「ちょっと!」
手を叩かれた勢いで転がりかけた優凛ちゃんをラケットが支える。
「大丈夫?」
「うん、ありがと」
爺さんに目を戻すと、姿はどこにも見られなかった。逃げるのに慣れているのかもしれない。
「すまみせん、あなた駅員さんを呼んでください」
「え? あ、はい!」
ラケットは優凛ちゃんがちゃんと立ったのを確認すると近くにいた中年に指示を出した。彼にしては冷静だ。
「岡崎さんはここにいて」
そう言い残してラケットは走っていった。さっきの爺さんを追いかけるつもりだろう。
なんだよ。俺が何もしなくてもなんとかなったじゃないか。久々に立って走って、そして転んでその上なんの成果もなし。なんて無様なんだ。今の俺が骨折り損の草臥儲ってやつか。
「そんなことないですよ」
振り向くとすぐ後ろにさっきの老婆がいた。
優しい笑顔で俺に話しかける。
「頑張ったじゃないですか。今まで。確かに残酷な終わり方だったけど、貴方は最悪な事はしなかった。多分、さっきのジジイだったんでしょ? あいつをぶっ殺すんじゃなくて、あの男の子を救おうとした。立派だよ。私が保証する」
彼女の言葉にどんどん熱がこもっていく。熱くなるにつれて彼女の姿が徐々に変化していった。最後まで言い切る頃には、まるで魔法でも使ったかのように変わっていた。
そうして、彼女は現れた。初めて交わした言葉が「死ねばいいのに」と言った彼女だ。まるで長い夢でも見ているようだ。
ちょっとだけそんな予感はしていた。いつか彼女が会いに来てくれるんじゃないかと。
そして、彼女からの励ましは俺の無力感を吹き飛ばすには十分だった。
「そうかな?」
「そうだよ!」
元気さ余って、むしろ喧しい笑顔で俺に話しかける。納得するには多すぎるほどだ。だって彼女が言ったんだから。俺は頑張った。
「ね、何か言いたいことはある?」
前と同じ、いつまで経っても変わらなかった可愛らしい笑顔を浮かべて彼女は言う。
俺達が乗っていた電車はとっくに出発してしまっている。
「お前死んだのか」
当たり前だろ何聞いてんだ。
「老衰でね。幸せだった。貴方より素敵な奴はいなかったけどね」
そりゃ光栄だ。でも。
後ろで大きな駆動音が鳴る。通過電車だ。
通り過ぎた後、風が周囲を巻き込む。
「帰れなくてごめん」
そんなことが言いたいんじゃない
「今帰ってきた、おかえり」
彼女はちゃんと答えてくれた。
ただいま。
「会いたかった」
「私も」
長い時間だった。もう何年になるだろう。退屈な時間が続いて、ラケットや優凛ちゃんが来てからは少しは面白かった。
でも、今彼女に会えたことが何よりも嬉しい。気分がいい。頭がふわふわして体が浮いているように感じる。それは元からだよな。
気分が良くて、一層の事吐きそうだ。
動かないはずの心臓が早くなっている気がする。
そういや、外に出たのにそんなに寒くないなあ。
こんにちは奈宮です。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。楽しんで頂けたら幸いです。
前回お伝えした通り、今回をもちまして最終話とさせていただきます。
面白かった点、面白くなかった点などご教授してくだされば嬉しいです。




