第13話『秀才とバカ』
一週間後、ちょうど同じ時間に優凛ちゃんは一人で来た。
「ちょっと待って優凛!」
――一人ではなかった。
カンカンと革靴を鳴らし、慌てた様子で茶髪の女の子が階段を駆け下りていた。
名前を呼ばれた優凛ちゃんは僅かに歩く速度を緩めるが、すぐに元の速さに戻った。
出発のアナウンスが駅内に響く中、何気なく車内に入る優凛ちゃんを見て、茶髪は顔を歪ませるが既にものすごい形相で走っていた。
女の子がしていい顔じゃない。
「待てって、言ってるだろー!」
スマホを片手に歩く人も、ベビーカーを押している婦人も、虚ろな目で歩くスーツ姿の男性も誰もが注目していた茶髪は扉が閉まる直前に、けたたましく車両の床を踏みつけた。
それまで気づいていなかった人達の視線が茶髪に集中する。そんな中、優凛ちゃんだけが見て見ぬふりをしていた。
「なんで待たないわけ? 昨日一緒に行こうって言ったじゃん!」
「言ってないけど」
「あんたはね! 私が言ったんだから普通待つでしょ!」
「えー」
「えーってあんた――」
そこで言葉を止め、茶髪が車内をゆっくり見回し、注目されていたことに気づいた。周りの人達もサッと目を背けるが茶髪は赤面してしまっている。
見かけによらず案外可愛いところもあるみたいだ。
「まあ、いいよ」
「というかなんか用?」
「そういうわけじゃないけど。同じ所行くんだから一緒に行けばいいじゃん?」
「あー、私その群れ群れ根性理解できない」
なんだそれ。燻製専門の料理人か? あれは蒸してるんじゃなくて「いぶす」か。
「そんな根性ないわ。それはそうと優凛に教えて欲しいことがあるんだけど」
「用あるんじゃん」
「そんなんどっちでもいい。前に塾でやった二次関数なんだけど」
「それが?」
「二次関数って何?」
「本気? そんなの教科書に書いてるし」
「そうだけど、言葉で説明された方がわかりやすいって言うか……」
スピーディーな会話だ。最近の人間は反射的に言葉を発しているのか? 人間の進歩に戦慄するが、あいつとの昔の会話を思い出すとそんなもんかと思った。
人の脳は高速なコミュニケーションを可能な程に昔から優秀なのだ。
それはいいとして、俺は茶髪の言うことがわかる。子供の頃、教科書を読んでも理解出来なかったことが先生や友達にご教授願うとあっさり理解出来たことはよくあることだった。
俺って勉強苦手、というよりもう嫌いだったからなー。そのくせ、先生の話は聞かないし教科書読んでも分からないから問題児扱いされていただろう。
成績が悪いやつは決まって「俺IQ高いからいいんだよ」とか言うけどそういう奴は決まってIQも低い。まあ、偏見だけど。
「分からなくもない」
「じゃあ!」
「いい、二次関数っていうのは――」
「ふむふむ」
「えーっと、その」
「ふむ、ふ、む?」
「二乗するやつ」
「説明になってない」
俺も頭が悪かった方だが、たまにはわかったことを友達に教える機会があった。ただ情けないことに自分の頭では法則を理解出来ているのだが、言葉にしようとするとどうにもうまくいかない。
この現象に名前をつけるとしたら、なんだろう。『中途理解』と言ったところか。……自分で言っておいてなんだが、安直すぎたな。無し無し。
「あ、あれだよ。同じ数をかけるやつ」
「それで?」
「YはXの二乗に比例する」
「わからん」
「二乗は?」
「わからん」
「馬鹿じゃん」
「酷い」
「受験生なんだからさ、もうちょっと頑張りなさいよ。私と同じ高校受けるんでしょ?」
きつい物言いだが、優凛ちゃんの言っていることは真実だ。俺が思うに受験も勉強も一人でやるもので、『受験は団体戦』とか言う奴は信用ならない。
「受けるけど、今は復習に専念してる」
「見通しが立ってるならいいけど」
「そーいうこと。最新のことは復習が終わってからなんです」
「だらだら復習して、三年の範囲を疎かにしないよーに」
「あれ? 心配してくれてる?」
「そりゃ心配もする」
「なんで?」
「何でって、と、友達、なんでしょ」
可愛い。
そう思ったのは俺だけじゃないようで、車内の全員が二人の方を見ていた――ような錯覚さえ覚えた。実際はみんな別々の方向を見ていたし。みんな心の中で見ていたということにしておこう。
女だろうが男だろうが、照れてくれさえすれば誰でも可愛くなれるのだ。周りが可愛いと勝手に思ってくれる。あいつはそのあたりを上手く使いこなして社会を生きていたように思う。
「ほーん。友達、友達ねー。優凛からそんな言葉が聞けるなんて、意外だなー」
茶髪が興味深そうに優凛ちゃんを見ていると、いよいよ優凛ちゃんは顔を赤くした。
「うるさい」
「わるいわるい。でもやっぱり意外でさ」
「もう教えてあげない」
「ごめんなさい」
茶髪が優凛ちゃんの許しを得る前に、アナウンスが車内に鳴った。
「謝ってるんだけど」
「塾行くんでしょ。降りて」
先行する優凛ちゃんを追いかけ、茶髪はやれやれと立ち上がる。
しかし、やれやれと言いたいのはこっちである。車輪と線路との摩擦音や車内アナウンスで、多少話声が聞き取りづらいとは言え、やはりいきなり照れられてしまうと、俺も気恥ずかしくなってしまう。
俺もこんな時期があったなあ、という心境になってしまう。俺は女の子じゃなかったので厳密には経験したことがないが、そんなのは小さなことだ。




