深夜の密会
篭絡とか攻略とか言っている場合じゃない。
まずは、安全に生きるために、生き抜くために、あの宰相の悪事を明らかにしなければ。
そう心に誓って眠りにつこうとしたとき、寝室の扉を控えめにノックする音が響いた。
時刻は深夜、シュリルもミイナもとうに下がっているし、誰かが訪ねてくるはずのない時間。
どう反応するべきか判断しかねていると、もう一度、今度は少しだけ強めのノック。
「姫様……少しだけお話をさせていただけませんか」
ノックの後に続いたのは、クロウの声だった。
こんな時間に、一国の姫の寝室を訪ねてくるなんて、非常識にもほどがある。まして、信用できないと宣言した直後だ。
寝たふりでやり過ごそうかとも思ったが、もしかしたら、これはチャンスなのかもしれない。
ほかの人たちがいる前では、あれこれと追及したところで、宰相がそんなことをするはずがない、と有耶無耶にされかねない。
「…………何」
寝たきりだった体はまだ違和感の塊で、上半身を起こすので精一杯だ。扉ごしに宰相へ声をかけると、控えめな声が返る。
「お話ししなければならないことと、お聞きしたいことが」
「……入って」
今までのクロウとは、どこか違う、至って真剣な声だった。何かを隠そうとか、ごまかそうとか、言い含めようとか、そんな意思のない、演技ではない声。
なんだか、初めて彼の本当の声を聞いたような気さえする。
「……夜分に申し訳ございません。聞き入れてくださって、感謝します」
「……それで、話って、何」
警戒する気持ちは解けない。解かない。この男は、国の実権を握ったうえで、王宮に火を放つような悪人だ。バッドエンドでの暴挙を私は忘れていない。
ベッドで横たわる私の傍らに跪いて、クロウは深々と頭を垂れる。短くない時間、そのままの姿勢で何かを考えているようでもあった。もしかしたら、何かを企んだり、覚悟したりしていたのかもしれない。そんな、静かな礼をベッドの上から見下ろし、やはり違和感を感じる。
この男は、本当に宰相なのかと疑いたくなる。そういえば、この部屋に入って、一度も彼はあの微笑みを浮かべていない。
「姫様……こちらをご覧ください」
そう言ってクロウは、自らの右袖をまくり上げた。
肘から手首にかけて、そこにはリコリスの紋様が浮かんでいた。あの日見たものとよく似た、ただ色だけはうっすらとした薄紅色の花が咲き誇っている。
「やはり……見えるのですね、このリコリスが」
そう言って、クロウはここに入って初めて笑みを浮かべた。困ったような、寂しげなような、それなのにどこかうれしそうな、そんな複雑な笑みは、これまで見せたことがないものだった。
「見える、って……何、どういうこと」
「どうか黙っていていただけませんか」
跪いたまま、深く深く頭を垂れる。そのしぐさもまた、これまでの彼らしくなく、私は戸惑ってしまう。
何を、黙れというのだろうか。
この花が見えること?それとも、彼が私の記憶を消そうとしたこと?
「私は、リコリスの民です」
「リコリス……?」
それは、確か作中でもわずかに語られるだけだった一族の名前だ。この王国の建国に関わり、今も王国を陰から支える一族、リコリスの民。その詳細はベールに包まれており、秘密主義な一族ゆえに里の場所もわからない。ただ、歴代国王はリコリスの民に認められたものしかなることができないのだ、と。そうどこかで語られていたのを記憶している。
「この国の建国よりも遥か昔この地に住まいし一族、リコリスの民の末裔です。この花はその証……一族の者だけに見えるものです」
深いアメジストのような瞳が、私をまっすぐに見つめている。冷たいとばかり思っていた瞳が、今はなぜだろう、本当の意味でまっすぐ私を見つめているように感じた。
「どうして、それが私にも見えるの」
「かつてこの国を建国した初代国王こそが、我がリコリスの民でした。姫様は、その血を引くが故に花が見えるようになったのかもしれません。国王様も、王子様方も見えはしないので……まさか指摘されるとは思いませんでした」
リコリスの民がどのように国の建国にかかわったのかは、作中では語られていなかった。ただ、ゲームのタイトルが「漆黒のリコリス」である以上、その一族が何らかの形での鍵となるのだろう。クロウのトゥルーエンドをプレイすれば、その意味も分かったのかもしれない。もちろん、今更どうこうできることではないのだけれど。
「その……リコリスの民だってことが、バレると何かまずいことでもあるの」
「新たな争いの火種となります。今、この国は姫様が思っている以上に不安定です。これ以上の火種はもたらすべきではありません」
その不安定さは知っている。二人の王子を担ぎ上げた貴族同士の対立は王政反対の運動も巻き込んで加熱化しているし、辺境地域を中心とした諸民族の紛争は頻発している。不安定な情勢から、いつ隣国に攻め込まれたとしてもおかしくない環境でもある。
アルフレッドやウィルフレッドのシナリオでは、それらの解決に翻弄され、時には命を落としたのだから。
そこに、一国の権力を実質的に握っている宰相が、ある一族の末裔だと発覚すれば、確かに国は混乱するだろう。宰相に不適格だと糾弾されるだろうし、逆に初代国王の出自の一族であるクロウを担ぎ上げ利権を得ようとする者たちも出てくるに違いない。
王位継承権争いの真っただ中なこの国に、そんな火種が追加されたら、それこそ大火事になりかねない。
「……それが不都合だから、私の記憶を消そうとしたの」
「…………はい。リコリスの民には魔力が備わっています。本当は、この花を見た記憶を消すつもりだったのですが……」
魔力。これもまた、作中では描かれていなかったものだ。おそらく、クロウのシナリオ内で明かされていくことなんだろう。その魔力とやらは、人の記憶を都合よく消すことができるということか。
「……私が、記憶を失ったのも、その魔力のせいなの。あの日、何があったの」
誘拐されたあの日、私にとってリリアナが始まった日。
あの日私を助けに来たクロウは、私を助けただけではなく、私の記憶も消したのか。
一体、どういった理由から。そう問うと、クロウはひどく困った顔をした。
「あの日……姫様は、絶対に知ってはならないことを、知ってしまいました。そのため、記憶を消さなければならなくなってしまったのです。本当はその記憶だけを消し去るつもりだったのですが……どういうわけかすべての記憶を消し去ってしまうことになってしまいました」
やはり、この記憶喪失は彼に端を発するということか。
私が……リリアナが何を知ってしまったのかは、問うたところで教えてはもらえないだろう。予測するに、クロウがこの国を乗っ取ろうとしている事実でも知ってしまったのではないだろうか。何せ、その事実が明るみに出たことで、宰相は王宮に火を放っている。
「……勝手すぎる。人の記憶を、なんだと思ってるの」
そうは言ってみたものの、私の中に燃えるような怒りはわいてこなかった。ただ理不尽だという感想と、リリアナはかわいそうだなという客観的な思いだけだ。記憶が無いせいか、どうにも自分事として考えきれないのかもしれない。
「国のためです。決して、私利私欲のためではありません」
それは、いずれ自分の手中に収める国のため?
それを人は、私利私欲というのではないだろうか。バッドエンドでの彼を見た身には、どうにも信じられなかった。
私のそんな思いを感じ取ったのか、クロウは困ったように微笑んで、立ち上がった。私を見る目は、異常なほどに優しい。
「貴女に信じていただけないのなら」
クロウは右の手のひらをじっと見つめている。手首のリコリスが、赤さを増していく。
ふっと息を吐き笑みを浮かべて、冷たい声音で言い放つ。
「それならば、この身ごと全てを葬るのみです」
それは、炎だった。クロウの右手から真っ赤な炎が生まれ、まるで生きているかのように彼の周りを巡る。燃え盛る炎に呼応するよう、クロウの手や顔には、真っ赤なリコリスの花が咲き乱れた。全身をリコリスの赤に染め、炎を身の周りで躍らせながら、クロウは静かに笑っている。あの、作り笑いで。
赤々とした炎とその熱に、前世の記憶がよみがえる。
あの日、私の命を奪った炎。画面の中にいたはずの微笑みが、今は目の前にある。
叫びだしたい衝動に駆られながらも、喉は呼吸すら忘れたように引くつくだけだ。
にっこりと微笑んだクロウの目が笑っていない。
――本気だ。
私は、衝動的にその腰に抱き着いた。
「っ……!!」
病み上がりの体は、何一つ受け身なんてとれず、クロウと一緒に地面にたたきつけられる。
ずきずきとした痛みに顔をしかめながらも、私は必死に叫んだ。
「言わない! 誰にも、言わないからっ、こんなのは、もう絶対やめて!」
私に押し倒される形で地面に転がるクロウの周りからは、炎は消えている。
その事実にほっとしたせいか、涙が浮かんだ。
「……ありがとうございます。貴女は、本当にお優しい」
押し倒されたままで微笑むクロウの顔には、あの日のように赤いリコリスが咲いていた。それを、そっと撫でてみる。クロウの体温の冷たさとは対照的で、火傷のように熱を持ったその痕は、呪いのようにも思えた。
「……この花は、魔術を使うと出てくるのね」
「はい。そして時間とともに薄れていきます」
うっすらと薄紅色だった手の模様を思い出す。あれは、私の記憶を消そうとして失敗した、あの日に浮かんだものなのかもしれない。今までも、見えないだけで彼の体にはこんな風に痕があったのだろう。
「頬に花が咲いてた…あの日も、魔術を使ったのね。何のため?」
「……それは……」
問うと、珍しくクロウは目線をそらして言い淀んだ。その反応に、私はむっとしてしまう。やっぱり、何か悪事を働こうとしていたのか。そう問おうとしたのとほぼ同時、躊躇いながらクロウは口を開いた。
「あの日は……その、姫様が階段から勢いよく落下していくのを見まして」
「………え」
思い出す。そう、あの日は、私は死を覚悟するほど勢いよく階段から真っ逆さまに落ちていた。
そうして、どういうわけか、ふんわりと着地。ラッキー、くらいに思っていた。思っていたのだが。
「………クロウが、助けてくれたの」
ラッキーではなく、クロウのファインプレイだったらしい。曰く、真っ逆さまに落ちる私を見てとっさに魔力を使ったものの、説明するわけにもいかずこっそり様子をうかがっていたのだとか。
「その、階段では落ち着いて歩いてくださいね。いつでも助けられるとは限りませんので」
くすくすと笑うクロウを見ていると、なんだか妙にくやしい。本当は、お礼を言うべきなのだろうけれど、私は口をとがらせることしかできなかった。
そんな私を宥めるよう、クロウの手のひらが私の頬を撫でる。そういえば、クロウに馬乗りになっている事実に今更思い至った。この体勢は、姫様としてはあんまりよろしくないのではないだろうか。そう思った直後、クロウが体を起こした。
結果、私はクロウと至近距離で向かい合う形になる。
あれ、これ、近くない?
「姫様……いずれ、全てをお話しすることを約束します。ですから、私を信じてはいただけませんか。全ては、この国のため、フォンテーヌ王家と王国の民の為です。私は、この国を守りたい。貴女方を守りたい。ただ、それだけなのです」
至極真剣に見つめられ、囁かれる。あまりにもまっすぐに私をとらえる瞳に、揺らぎない声音に、胸の奥がざわついた。
――信じられるわけがないのに。
だって、彼はこのゲームの黒幕だ。最後には、私たちを裏切って、この国の権力を手にしたのをいいことに、私も国王も王子もみんな焼き殺す。それが、このクロウという黒幕なのだから。
信じられるわけがない。わけがないのに。それなのに。
深い紫の瞳を見ると、その気持ちがわずかに揺らぐ。
本当にこの人が、私たちを殺そうとするのだろうか。国を奪い取ろうとするのだろうか。
「…………信じさせて。本当に私たちのためだと言うなら」
できることなら、信じたかった。
このまっすぐな瞳の持ち主を。
「はい、姫様。貴女のお心のままに」
そう言ったクロウの微笑みは、どこか純粋で、これまでに見た彼のどんな表情よりも、優しかった。