記憶を失いました
誰かが私を呼んでいる。
何て言っているのかはさっぱり聞こえないけれど、必死に私を呼ぶ声がする。
お母さん?もうちょっと寝かせてよ。
……違う。高校はとうの昔に卒業して一人暮らしだ。大学にだって進学したよね。就職だってきちんとした。今は、フリーター真っ盛りの三十路だけど。
ゲームのし過ぎだろうか、頭が重い。そういえば、よくお母さんに叱られたっけ。でも仕方ないよね。だって乙女ゲームってほら乙女のためのものだし。乙女(一応)としては、やらずにはいられないよね。
ああ、私を呼ぶ声がうるさい。そんな必死に呼ばなくても起きるから、ちょっと落ち着こうよ。
あれ、でも、今の私って、一人暮らしだよ?
一体、誰が私を呼ぶの。
寝ぼけた頭を強制的に覚醒させ目を開けると、目の前にはとびきりのイケメンの顔があった。
銀の長髪に濃い紫の瞳、どう見ても日本人には見えない彫りの深い顔立ちの美青年。まるでファンタジー小説の登場人物みたい。こんな美形が、それもいきなり現れたら、悲鳴をあげることすらできやしない。ひっ、と呟いて息を飲むので精一杯だ。
美青年は、私のそんな反応に一瞬怪訝な瞳を向けてきたが、長い息を吐いて優しげに微笑んだ。
微笑みの破壊力、半端ない。マジイケメン。
「よかった、お目覚めになられましたね」
「ふぇ、え、ええと、あの」
声まで完璧。隅から隅まで非の打ち所のないイケメンだ。私はどうやら、そしてどういうわけか、このイケメンさんに抱きかかえられているらしい。
こんな風に異性とくっつくなんて(それもイケメンと)これまでの人生にはない出来事に硬直する。うん、弟以外とこんなに密着したことないですけど。いや、弟ですら小さいときしかこんなに引っ付いてない。
経験のない男性の力強さというか、なんというか、うん、ごちそうさまです。
すみません、でも離してください、体と心が持ちません。引きこもり気味のオタク喪女なんで。
あわあわと百面相でもしていたんだろう。再び向けられる怪訝なまなざし。
やめてえ、そんな目で見ないで、溶ける。
そんな私をそっと地面に立たせ、イケメンは恭しく傅いた。銀の長髪がキラキラと太陽の光を反射する。ああ、なんてきれい。
「勝手に姫様の御身に触れたこと、後ほど如何様にでも断罪してくださって結構です。今は緊急事態ゆえ、暫しの無礼をお許しください」
イケメンの傅く姿はまるで絵画のように美しかった。紫の双眸がじっと私を見つめている。ひめさま。いやいや、確かに父親が生きてたころは蝶よ花よと育てられたけれど、さすがに姫様扱いはされたことがない。庶民もド庶民、むしろ底辺人間の自信がある。何たって三十路フリーター兼乙女ゲーオタの廃人だ。
目の前のイケメンさんは、そんな底辺人間の私を見上げて微動だにしない。私の動向を探っているようにも見えるけれど、うん、こんなイケメンに見つめられ続けたら、やっぱそのうち溶けそう。
なんの冗談か。そう問いただそうと思ったその時、ふと自分のスカートの裾が目に入った。
なんだろう。妙にヒラヒラした服を着ている。さらりとした肌触り、ふんだんに使われたレース。私のクローゼットにこんな服はあっただろうか、いや、ない。私のクローゼットにあるのは部屋着のジャージと就活用のリクルートスーツ、バイト先の制服だけだ。
それに、ここはどこだろうか。鬱蒼とした木々が茂る森。枝々の間から差し込む光に照らされた森には、見たことのない可憐な花が咲き乱れている。私が暮らすのは都心のコンクリートジャングルだ。こんな森なんてあるはずがないし、あったとしてもこんなすてきスポットは家族連れで賑わっているはずだ。状況が全く理解できない。
「ええと、あの」
「城までは少し距離があります。お許しいただけるのでしたら、私の手でお連れいたしますが……姫様?」
イケメンは、私の様子がおかしいことにようやっと気づいたらしい。眉間に僅かな皺を寄せた。
美形というものはどんな表情をしても様になるものなのだなあ。と、
どうでもいいことを思う。目の保養だ。……いやいや、現実逃避をしている場合じゃない。
思い切って聞くしかない。私は、勇気を出して口を開く。
「ここはどこで……あなたは誰ですか?」
言ってから、何てベタなセリフだろうと思ったけれど。
イケメンから聞いた話を要約しよう。
ここは、フォンテーヌ王国。イケメンは王国の宰相で、クロウと言う名前らしい。王国には二人の王子がおり、国王陛下の病気が発覚したことで周囲は後継者争いに興味津々。不運にも、王政廃止を謳う過激派によって、王子兄弟の妹、すなわち姫君が誘拐された。そして今はその悪漢の元から救い出した姫君を目立たぬよう城へ連れ帰る途中だそうだ。なるほど。乙女ゲーにありがちな話だねえ。
ただ、ありがちじゃない話が一つ。
その姫君は私…………らしい。
いやいや、全く記憶にない。誘拐された記憶はおろか、姫君として生まれて生きてきた記憶の一切がない。変な夢でも見ているのか。それにしては妙にリアリティがある。空気はおいしいしイケメンはあったかくていい匂いがする。心臓はもちろんバクバク激しく脈打っている。
さすがに、「こんな世界の記憶はありません、私は三十路のフリーターです。姫様とは程遠い喪女のオタクです」とは言えず、姫としての記憶が全くないことだけを伝える。イケメン……クロウは、紫の瞳を見開き動揺した顔を一瞬見せたが、すぐに微笑みを浮かべてそれを取り繕った。宰相だと言うだけあって、冷静な判断力や決断力を備えているのだろう。
「ご安心ください。城に戻り次第、医師の診察を受けられるよう手配します。恐らくは一時的なショックによる症状でしょう。ご不安でしょうが、このクロウにお任せください。」
そうして抱きかかえられた私は、たいそう立派な城に連れてこられた。移動手段は馬だ。お伽話のような白馬。私を抱きかかえているのは、王子様ではなく宰相だけど。
お城は中世ヨーロッパ風の立派なものだった。ハリボテでも急造のものでもないのは見れば明らかだ。こんなお城、日本にあるはずがない。何らかの事情で巻き込まれたドッキリ特番の可能性はこの時点で消えた。
城周りは湖のような水辺が広がっていて、城に向かうため橋を渡った。その際、水に映り込む自分の姿を見て息を飲んだ。そこには、どう見積もっても10代半ばの栗色の髪をした美少女が映っていたのだから。
――何これ、嘘でしょ。
こうして私は、フォンテーヌ王国の姫君、リリアナ・フォンテーヌとしての生活をスタートさせたのだった