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<Alternative外伝>From Arsenic with Love―拷問官アルセニックより愛を込めて―

作者: 饂飩粉

 あらすじにも書きましたが、本作はコヨミミライ氏が「小説家になろう」にて連載しているファンタジー小説『Alternative』の二次創作です。

 本編とはほとんど関係ないところで暗躍するキャラクターを描かせていただきました。

「私は思うのです。拷問こそが、肉体に最も敬意を表した行為であると。

 崖の淵に咲く花の儚さと美しさは、壊れる寸前に至った身体と心にも宿ります。

 芸術家を気取るわけではありませんが、緩慢に破壊されていくあなたとは、出来れば美術館で出会いたかった」


 男が淡々とした口調で、椅子に縛り付けられた女性に語りかけている。

 その間も彼の手は休むことなく、小さな万力で女性の指先をてきぱきと締めつけていく。限界に達した指の骨は心地よい音を立てて砕け、女性の小さな呻きと共におぞましいハーモニーを奏でた。

 左手の小指から始まった指砕きは、右手の人差し指まで達していた。爪も骨も、二枚の鉄板に挟まれ血肉と一緒くたに混ざり合う。砕かれた指先から流れる血が、肘掛を伝い床に滴る。

 女性は声を張り上げて絶叫しているつもりだった。だが口には、唾液を含んで膨らんだ布切れが詰まっていて、何を叫ぼうとしても低く呻いたようにしかならない。


「もう少しだけ待ってください。あと一本ですから」


 男は宥めるように言い、しかし何の感慨もなく女性の最後の小指を万力で潰した。いつの間にか呻き声は、すすり泣きに変わっていた。砕けた爪の欠片は血にどっぷり浸かっていて、シチューに浮かぶじゃがいものようだった。

 男は黒い皮手袋を嵌めた手で、女性の口の中の布を取り出した。女性が咳き込みながら、涙混じりの瞳で男を見据える。


「どうして……」

「どうして、とは?」

「どうしてこんなことをするの……」


 指を砕く前とは打って変わって、弱弱しい態度だった。最初は、男の姿を見ても一切動じなかったというのに。

 男は、痩せ細っていた。細長い手足、絶食でもしているのかと思うほどこけた頬、今にもずりおちそうな眼球。飢えているというよりは、亡霊のような佇まいをしている。前分けの黒髪はなだらかな波を描いて肩まで伸びており、黒革製の服に溶け込んでいる。


「それは、あなたが罪を認めないからですよ」


 男は手元の台車に小型の万力を乗せた。男の指は、女性よりもずっと細く、干からびているかのようだった。


「私は、何もしていないのに……」

「問題は、あなたが本当に罪を犯したかのかどうかではありません」


 男は女性に背を向けて、暗い部屋の奥へと歩いてゆく。

 煉瓦に囲まれた小さな拷問部屋には、地上に繋がる階段の他に、鉄柵で仕切られた小部屋が設けられているのみだ。


「あなたが罪に問われた時点で、私からは逃れられないのです。私は別に、あなたが罪を犯したのだと決めつけておりませんよ」


 男は鉄柵にかけられた錠の鍵穴に、自らの左薬指を差し込んだ。

 男の左薬指は一際細く、小枝のようになっている。指を九十度回転させると錠が外れ、鉄柵が外側に開いた。


「しかしできれば、私はあなたに罪を認めてほしくありません」


 女性は声も出さずに、鉄柵の奥に瞳を凝らした。これ以上一体何をしようというのか。女性には想像もつかなかった。


「……」


 不気味なほど高まる胸の鼓動に反して、闇の向こうから現れたのは二頭の山羊だった。

 見た目も変わったところは見受けられない。強いて言うなら、彼女が飼っていた山羊より一回り小さいくらいだ。きっと売り物にはならないだろう。

 男は山羊を引き連れて戻ってきた。表情は、拷問を始める前から一切変化がない。


「ところで、知っていますか? 山羊の舌は、(やすり)の様にざらついているんですよ。この山羊達は私が手術したおかげで、舌の表面がさらに鋭くなっているんです」


 その言葉を聞いた瞬間、女性の顔は一瞬で引きつった。


「ほら、お行きなさい」


 それは、女性に対してではなく、二頭の山羊に向けられた言葉だった。

 山羊達は男に背をぽんと叩かれると同時に、女性に近づいていった。

 それぞれが女性の左右の手――砕かれた指先を、ざらついた舌で舐め始める。


「あっ…………」


 擦りつけられるかのような刺激はしかし、先ほどの万力に比べれば痛みも少なかった。耐えられないほどではない。


「では、私はこれで失礼します。どうか私が戻ってきても、罪を認めないでくださいね」


 男はそれだけ行って、階段の向こうへと消えていった。

 女性は、男が再び戻ってくるまで、絶え間なく流れ出る血を山羊に舐め取られ続けた。

 鑢の舌は少しずつ女性の皮膚を、肉を、骨を削りとっていく。ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて――。



 ほどなくして、男は戻ってきた。

 女性の指の、第一関節から先があった場所には、僅かに残った爪と骨の先端が覗いているだけだった。

 女性は、罪を認めた。男は、溜息を吐いて裁判官にその事実を伝えた。

 街の郊外で魔導陣を発動させ魔物を召喚したという罪は、自身を魔女だと認めることに相違なかった。

 男は、女性が火刑に処される直前に、女性の短くなった指をスケッチした。磨り減った傷口の具合を、出来るだけ詳細に描き写す。

 丁度それが、一冊のノートの最後のページとなった。また、新しく買い足さなければいけない。



 女性の火刑に、男は立ち会わなかった。たとえ何者であれ、死を目の当たりにするのは苦手だった。

 折角死なないように心がけて、肉体と精神を痛めつけたというのに、最終的に処刑するのはあまりにも勿体無い。


「それなら最初から、拷問なんてしなければいい。人を傷つけることは無意味だ」と、罪人に言われたことがある。男はさすがに、笑いが堪えられなかった。

 そう言った奴は、まだ自分が人間であると思っていたのだ。

 罪に問われた時点で――男のいる拷問部屋に連れてこられた時点で、もう人間としての人権や尊厳など失ったに等しいというのに。

 魔女、人狼、魔物、悪魔……人ならざるものの烙印は、あの部屋の椅子に縛り付けられたとき既に、押されてしまっているのだ。

 その人外とされた肉体に、最大限の敬意を払っている身としては、むしろ感謝を受けたいくらいだ。

 


―――



 リゾーマタで最低最悪の拷問官――アルセニック・ホーリーを直接知る者は少ない。

 だが、そのような男が存在するという噂だけ耳にした罪人は多い。

 彼の住む城下町で罪に問われた者は、決してその罪から逃れることは出来ない……そう言われている。

 アルセニック本人には、最低最悪などという自覚は一切ない。拷問官という職についてはいるものの、彼自身は罪を認めさせるためにその仕事をしているわけではないからだ。


 彼は単純に、拷問が好きだった。肉体と精神を極限まで痛めつけることが、好きだった。しかし、その果てに拷問にかけた相手が罪を認めてしまうのが、とても惜しいと思っていた。

 本当ならば、どこまでも耐えて欲しい。肉体と精神の極限を、この目で確かめたい。

 拷問官を始めてから、十年以上が経つ――アルセニックは、その夢をほとんど諦めていた。

 アルセニックが拷問にかけるのは、魔女や人狼など、人ならざる者としての疑いがかけられた者達だ。名目上、人ではないされてはいるものの、それは間違いなく人だった。アルセニック自身、それは重々承知している。

 自分の行う拷問が、人道的に反しているのもわかっている。


 だが相手は“人外である疑いをかけられた者”だ。

 相手自身がそうだと認めれば、アルセニックの拷問は法的にも正当化されることになる。

 むしろそうでなければ――仮に無罪判決が下された場合は、逆にアルセニックが罪を着せられることになってしまう。

 肉体と精神の極限を見据えるためには、拷問相手に罪を認めて欲しくはない。

 しかし罪を認めず、証拠不十分などの要素が加わり判決が無罪となった場合、アルセニックの命の保証はない。


 彼の行動と欲望は、ずっと前から矛盾したまま繰り返されていた。


―――



 その日――いつものようにアルセニックが拷問部屋で待機していた時の事だ。

 彼はたとえ仕事がなくても日中は拷問部屋で過ごし、山羊の世話をしている。

 最初にその部屋に訪れたのは、一人の兵士だった。部屋に既に置いてあるものと同じ椅子を運んでくると、何も言わずに帰っていった。

 アルセニックは、二つになった椅子を横に並べて、それぞれの足を固定した。

 椅子はどちらも、拷問する罪人を拘束するためのものだ。

 その後、今度は兵士が二人やってきた。二人はそれぞれ鎖を握っていて、その先にはやはり二人の罪人が繋がれていた。一人は青年で、もう一人は少年だった。顔つきは、似ていない。


「今日はこの二人だ。人狼の疑惑がある」


 兵士の一人が、アルセニックに文書を差し出した。

 もう一人は、無言で並べられた椅子に罪人を固定している。椅子の肘掛と前足には、鉄の枷が付いている。

 文書には、裁判官や国王の署名と共に、拷問の執行が認められたという内容が(かしこ)まった文体で記されていた。いつものことだ。


「立会人はどなたですか?」

「必要ない。お前が罪人から自白を得られれば十分だ」


 いつものようにアルセニックが問うと、いつもと同じ返事が返ってきた。

 初めて彼が拷問を行った際は役人と兵士が一人ずつ立ち会ったのだが、それ以来彼らはこの部屋に来るのも嫌がっているらしい。

 拷問は人に対して行われているわけではない。

 魔女、人狼、魂取り憑いた悪魔――それらを表に出させるためのものだ。通常は立会人が絶対に必要な、神聖な儀式である。

 故にアルセニックは、至上の敬意を払った拷問を行った。最初からは手を抜くことはしなかった。生ぬるい拷問は、逆に肉体に対して失礼だからだ。

 だと言うのに、お偉方はその立会いを拒んでいる。アルセニックには、それが理解できない。

 兵士が去り、部屋には三人が残った。小さい少年の方は、意識を失っている。

 自然と、青年と目が合った。向けられた視線から、激しい怒りを感じる。


「こいつは無罪だ」


 青年は声も刺々しかった。怒りの原因は、少年がここに連れてこられたことらしい。


「私に言っても仕方ありませんよ。あなたの発言は、罪の自白以外無意味なんですから」

「…………」


 青年の舌打ちが、部屋の中で木霊する。

 珍しい罪人だと、アルセニックは思った。そもそも二人同時という事態が初めてなのだが、自らの潔白をいの一番に主張しない相手は、今までにいなかった。

 だからといって、同情するつもりはない。


「あなた自身はどうなのです? 自らの罪を認めるのですか?」

「俺はただ、こいつのために――」

「いえ、何をしたかは興味ありません。自白するかどうかを聞いているのです」

「……」

「わかりました。ではあなた方の肉体と精神を、私が最上級の敬意をもって拷問致します」


 アルセニックは恭しく一礼し、台車の上に乗ったトレーから注射器を手に取った。中身は医療用の薬品だが、彼には使用が許可されている。


「まずは、あなたからです」


 と、アルセニックは青年を指差した。

 だが、手に取った注射器の針を向けたのは、気を失ったままの少年の方だった。

 彼は素早く血管を探り当て、何の感慨もなく少年の腕に針を突き刺した。

 注射器の中の透明な液体が全て流し込まれると、まるで今まで水の中にいたかのように、少年が勢いよく息を吸い込みながら覚醒した。


「これを打たないと、悪魔憑きといえども子供はすぐ失神してしまうので」


 目覚めた少年は、何が起こっているのかわからない様子だった。椅子に固定されていることに気づくと、即座に立場を理解したのか、目に涙を湛えた。


「お兄ちゃん……」


 消え入りそうな言葉は、隣の青年に向けてのものだった。


「おや、あなた達は兄弟だったのですか。それにしては、似ておりませんねえ」


 言うわりに一切の関心も示さず、アルセニックは少年の座る椅子と床の固定を外した。

 少年ごと椅子を持ち上げて、青年の真後ろに再び固定しなおす。丁度、兄妹が背中を合わせた格好になる。


「おい、何をする気だ?」


 青年の声に、焦りが混じり始めた。彼がどんなに首を動かそうとも、背後の少年の姿を捉えることは出来ない。


「何って、あなたへの拷問だと言ったはずですが」


 続いてアルセニックは、トレーの上の金属製の(くつわ)とハンマーを手に取った。

 轡の形は蕾に似ていて、大きさは木の葉ほどだ。一見してそれは、轡には見えない。

 少年の顔が強張る。

 アルセニックは、身動きのできない少年の手の甲目がけて、ハンマーを振り下ろした。力は加減したので、骨は折れていないだろう。

 少年の悲鳴が響き渡る。兄の怒号が、それに混じって僅かに聞き取れた。


 大きく開いた少年の口に、すかさず轡をねじ込む。

 轡には、取っ手側にネジが付いていた。回すと、少年の口の中で蕾が開花するかのように広がっていき、顎をこじ開けたまま舌を固定する。少年の悲鳴は、虚しい呼吸音に変わっていった。


「では、始めましょう」


 アルセニックは左手の薬指で、先ほどハンマーで打ち据えたばかりの少年の手の甲を圧迫した。

 傷は、早くも痣になりかけている。


「どれ、少し中の様子を見てみましょうか」


 少年の呻き声は、先ほどから変わらない。彼の一言で、より一層逃れようと身体を暴れさせている。


「やめろ! 弟は何も悪くないって言ってるだろ!」


 兄の言葉を、アルセニックは無視した。自白以外に、聞き入れる必要はない。

 トレーから次に取り出したのは、一本のメスだ。アルセニックは、少年の手の甲を観察し、太い血管を避けつつメスを入れた。力を加減し、皮膚のみを切開する。

 麻酔は使っていないが、先ほどの注射のおかげで失神する心配はない。

 兄には、何が行われているのか確認することもできなかった。ただ、弟の身悶えと呻き、そして場違いなほど冷静な拷問官の声だけが耳に届く。


「よくみてください。丁度手首の近くで枝分かれしている筋肉が、確か指伸筋と呼ばれるものです。

 こちらから順に、人差し指、中指、薬指、小指を動かす筋肉です。

 では親指は? 気になるでしょう? 実は親指だけは別の筋肉が動かしているのです。次はそれをお見せしましょう」


 慣れた手つきで、アルセニックがメスで少年の手の中を探っている、その時だった。

 奥の方から――兄を固定した椅子から、金属音が響いた。アルセニックの手が、メスを入れたままぴたりと止まる。

 金属音は、それから更に三回――計四回木霊した。アルセニックの足元に、銀色の枷が転がってくる。


「やれやれ……」


 彼にとっては、またか、と言いたくなるような出来事だ。

 不用意に少年の身体を傷つけぬよう、丁重にメスを抜く。恐らく、もうトレーの中のものは役に立たない。

 今度は逆に、弟の方が兄のことを確認しようともがき出す。少しでも彼が後ろを向くことができたら、どんな反応をするだろうか?


「弟さん、あなたのお兄さんは――」


 面白半分で真実を告げようとした瞬間、アルセニックは真横に吹き飛ばされた。

 人形か何かのように彼の身体はそのまま壁に激突し、壁の煉瓦を幾つか砕いた。

 兄の腕が、弟の頭上を掠めるように振るわれたのだ。


 だがその兄に、先ほどまでの面影はなかった。身体は天井に届くほど巨大化し、全身が灰色の体毛に覆われている。腕も足も長くなり、指先には太く鋭い爪が生え揃っている。顔はせり出すように手前に伸び、爪以上に鋭利な牙と、尖った耳が特徴的だった。


 ――本物の、人狼だ。

 これこそ、アルセニックが拷問官として職務を果たしている一番の目的とされている。

 アルセニック自身の目的とは違うが、本来の務めを果たさなければこの仕事は続けられない。

 街には、人に紛れて本物の魔獣や魔族が潜んでいる。手当たり次第にそれらしき者を捕まえてくるのは役人の仕事だ。

 だが、魔獣や魔族の討伐は本来アルセニックの仕事ではなく〝彼ら〟の本分である。


「…………」


 アルセニックは身体を起こし、大きく溜息を吐いた。正直に言えば、彼にとってこの本来の仕事が一番面倒くさいのだ。

 人狼や悪魔が本来の姿になれば、拷問するために拘束するのも一苦労だ。それに命じられているのは討伐――即ち死をもたらすことでって、死に際まで肉体と精神を追い詰めることではない。

 人狼は、その場から動こうとしなかった。

 おそらく、弟――少年に自分の姿を見せたくないのだろう。律儀な人狼だと、アルセニックは感心する。

 魔族が人間として生きようとする可能性は、決してゼロではない。


 しかし、いつこのように本来の姿を曝け出し、リゾーマタに混沌をもたらすかわからない。魔族としての自分を捨てようとも、保証はされないのだ。

 だから、倒すしかない。

 殺すしかない。

 アルセニックは、自ら手を下すのが一番嫌いだった。肉体や精神に対し一切の慈悲を持ち合わせず、死そのものを直接突きつけることは、彼の信条に反する。


『されどこの戦いには、汚れ役も必要――』アルセニックを使役する者の、苦渋の決断を思い出す。


「汚れ役、ですか」


 リゾーマタという世界そのものに、一切の敬意を払わぬ終焉を止めるために、

 自らの道を、正義を敷くための世界を守るために、

 この手で死をもたらす必要があるのなら、喜んでその役を引き受けよう。


 アルセニックは、左薬指を外した。それこそ、瓶の蓋を取るかのごとく、くるくると回して、己の手から分離させた。

 彼の左薬指は、鍵を兼ねた金属製の義指になっている。灰色で、ずっしりとした重みがある。

 そしてこの指は、彼の持つ唯一の、殺傷能力を持った武器にもなる。

 アルセニックは義指を右手に握りしめ、人狼との間合いを詰めた。人狼は少年の視界に入ることを恐れているため、攻撃するにはこちらから向かうしかない。


「愚かな……」


 人狼が呟く。

 アルセニックはそれを聞き流しながら、少年を挟んだ形で対峙する位置に陣取った。


「確かに、私の義指は『愚者の毒』とも呼ばれています。私はいわば、その毒と契りを交わした愚か者――」


 言い終える前に、先ほどと同じように人狼の腕がアルセニックの側頭部目がけて振るわれた。だが、先ほどの時点で彼はそれを見切っていた。


「ぐっ……」


 呻いたのは、逆に人狼の方だった。

 アルセニックは、狼の腕を右手で受け止めつつ、義指を掌に突き刺していた。人狼は相当力を入れていたのか、義指は手の甲を貫通している。

 その人外の腕を少年の瞳が捉えていることには、人狼も気づかなかった。


「おやおや、あなたは愚か者以下のようですね。既に人間ではないので、当然と言えば当然ですが」


 アルセニックは人狼から義指を引き抜くと、数歩後退した。

 距離を取ったのではない。先ほどまでの争いで椅子から離れていた、器具を載せたトレーを引き寄せるためだ。

 まるで人狼との戦いが終わったとでもいうかのように、アルセニックは視線の一つも相手に寄越さなかった。


「貴様、まだ決着は――」

「ついてますよ。私の義指が触れた時点で」


 人狼の言葉を、アルセニックが続ける。人狼が二の句を継ぐ余裕は、なかった。

 それどころか、突然立っていられないほどの眩暈に襲われた。

 先ほどアルセニックにつけられた掌の傷が疼く。膝を付いた瞬間、胃液が逆流して口の中から溢れ出した。


「これは……毒……」

「ご名答。私の能力と言っても差し支えない、私だけが持つ毒」


アルセニックは、取り外したままの義指を撫で回した。アルセニック自身の体内にも、少しずつ毒が浸透していく。

 人狼は動けなかった。眩暈だけでなく、腹痛まで襲い掛かってきたからだ。情けないことだが、痛みが尋常ではない。本当に立つことさえままならない。

 急激な痛みは便意を催し、呆気なく肛門から臭気を撒き散らす羽目になった。


「あなたの命まで奪いたくないので、これから私の言うことをよく聞いてください。いいですか?」


 と言っても、人狼が頷く様子はない。狭い空間だから、嫌でも耳に入るだろうとアルセニックは判断し、口を開いた。


「先ほどこの義指に触れたことで注入された毒は、体内に入るとあなた自身を構成する上で必要不可欠な元素へと変化します。

 ――つまり、解毒はできますがその瞬間に死に至るということです。ここまではよろしいですか?」


 人狼は膝を付いた姿勢のまま、動かない。


「そして、今あなたの身に起こっている中毒作用は、私の意志によるもの。意志によって中毒作用の度合いを強めたり、逆にゼロにしたりすることができるのです。

 要するに、あなたの命は私が握っているも同然……ですから下手に殺意を向けられると、ついうっかりあなたを殺してしまいかねません。まだあなたには聞きたいことがあるのです。

 少し待っていてください。今、人狼用の拘束具を持ってきますので」


 と、壁に掛けられた拷問具を物色する。試しに、人狼の体内に入った毒の活動を停止させてみた。

 本当に自分の言ったことを聞いて、理解したのかを試すのだ。

 残念ながら、人狼は動いた。

 もはや少年のことなど気にも留めず、背を向けたアルセニックへと襲いかかった。

 命の危険を感じたアルセニックは、反射的に身を守ろうとした。こいつを殺さなければ自分が死ぬ――そう直感した。


 人狼は、アルセニックに跳びかかる寸前で吐血した。体内の血液が一瞬で頭部に集まり、眼球が逆流に呑まれ、血飛沫と共に眼窩から零れ落ちた。

 人狼は、自ら作り上げた血溜まりにその巨体を沈めた。

 惨い最期だ。

 急性中毒は、いとも簡単に命を奪ってしまう。言うことを聞いてくれれば、最終的に殺めることになってしまったとしても、安らかな死を与えることができたというのに。


 アルセニックは、深く溜息を吐いた。そのまま、人狼の死骸を跨ぎ、部屋の奥の鉄柵へと向かう。

 義指で錠を外し、鉄柵の奥にいた二頭の山羊を解放する。山羊は一目散に人狼の死骸へと駆けていき、まずは周辺の血や排泄物を舐め取っていった。人狼の存在を消すまでに、それほど時間はかからないだろう。


「さて……」


 アルセニックは拘束されたままの少年に、ようやく目を向けた。怯えきった視線は、恐らくずっと以前から向けられていたのだろう。


「あなたは、罪を認めますか? 認めるのであれば、残念ながら今すぐにでも此処から解放せねばならないのですが」

「…………」


 少年は、恐る恐る頷いた。罪を認めたのだ。

 アルセニックは、外したままの義指を一旦トレーに置いた。

 少年の拘束を解こうと手を伸ばすと、その手が弾かれた。


「おや?」


 少年の拘束は、いつの間にか解かれていた――否、少年が力ずくで解いたのだ。その身体を、獣に変えて。


「あなたもでしたか……」


 人狼となった少年が、アルセニックの首を掴んで持ち上げた。青年だった方よりも、一回り大きい。指から伸びる爪が、首に食い込む。

 しかし――

 人狼の手から、突然力が抜けていった。アルセニックは難なく解放される。

 事態を一番理解できていないのは、人狼の方だった。急に、両の手足に強烈な痺れが走ったのだ。


「なっ…………」

「あなたには、既に義指で触れたはずですが?」

「!?」


 人狼は思い出した。少年の姿に化けていた際、あの薬指で痣を圧迫された時のことを。

 痺れは身体の中心まで広がっていき、人狼は受け身も取れずにうつ伏せになって倒れた。舌も顎も、動かせない。唾液だけが重力にしたがって、牙から滴り落ちていく。


「本物の人狼が、何の抵抗もなく捕まるなんてことは本来有り得ません。狙いがこの私でなければ、の話ですが」


 アルセニックは、トレーの上に置いていた義指を嵌めながら溜息混じりに告げる。


「あなた達が初めてではないんですよ。どこから聞きつけたのかは知りませんが、正直迷惑極まりない……とはいえ、今回は聞きたいことがあるので良しとしましょう」


 人狼の舌と顎から、痺れが消えた。


「答えてください。街の郊外に魔導陣を発生させたのはどなたですか?」

「殺せよ……教えるくらいなら、死んだ方が……」

「殺しはしませんよ。私は命を奪うのが一番苦手なことですので。では、また後ほど」


 アルセニックがそう言った瞬間、人狼を極限の中毒症状が襲った。

 猛烈な吐き気と便意には、抗うことさえ叶わなかった。直接的な痛みは一切ないのに、胃が干乾びるかと思うほど吐き続けた。

 手足は痺れ、吐瀉物と排泄物に塗れた床でのた打ち回るしかなかった。何度吐いても、症状が楽になることはなかった。

 体内にあるもの全てを出し切ったかと思うと、今度は嘔吐と下痢の感覚だけが延々と繰り返された。


 その様子を密かに観察していたアルセニックは、詳細なスケッチを新しいノートに書き込んだ。

 吐瀉物なき嘔吐が、どのように行われるのか……口の中をしっかりと観察できないのが残念でならなかった。

 人狼の姿でなく人間の姿であったならば、今後も役に立つスケッチを得られたかもしれないというのに。


―――


「――なるほど、情報の提供に感謝いたします」

「頼む……もう、これ以上は……」

「ええ、もうしばらくの辛抱です。少年の姿に戻ったあなたを、役人が処刑することでしょう」


 アルセニックは、床に這いつくばったまま動けないでいる人狼に、複雑な笑みで答えた。人狼であれ、処刑されるのは忍びない。

 情報を得られたことは感謝しているが、彼の心には悲しみも存在していた。

 魔導陣を発生させた者の正体を伝える相手は、役人ではない。アルセニックを使役する者を介して、"彼ら"に伝えるのだ。


「とうとう、この街に勇者様一行を招待する時が来たようですね」


 ふとアルセニックは、勇者一行に会えるかどうかが気になった。彼らには魔導陣による魔物の侵略を鎮圧してもらわなければならない。

 一体、世界の終焉を阻止しようとしている者たちは、どんな人物なのだろう?

 好奇心をそそられるが、情報収集を終えた彼は別の街に行かなければならない。

 拷問を必要としている街は、ここだけではない。


 アルセニック自身も、肉体と精神の極限を知るまでは、この仕事と使命から降りるつもりはなかった。

 だが勇者と呼ばれる者であれば……夢見てやまぬ肉体の極限、その境地を見せてくれるのではないか。そう思わずにはいられなかった。

 いつか、拷問に処することができたら……。


 アルセニックは、うっとりとした笑みを浮かべた。

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