屑の繭
ろくでもない人間だというのは自覚している。
常識は無く、人とはうまくコミュニケーションを取れず、性根は青臭く嫉妬深くて、顔は冴えず、お洒落なぞはできず、そして勉強もできず、かといって運動もできず、こんな僕を見かねて、家族は常々「お前が独り立ちできるか心配だ」と口うるさいが、それの数倍の不安が僕の中に燻っている。何も知らずにうるさいのだ。
緩い眠気を背負ってベッドに体を預けると、決まってこの類の不安が僕に襲い掛かる。夜はとにかく不安が心の中を支配する。僕はこれに向き合わず、さっさと目を閉じる。すると、気が付けば朝で、そんな不安なんぞは、月と共に消えている。これが、僕のろくでもなさを作っていることは知っている。だが、これをわざわざ矯正しようとする気概もない。
さて、今は何時かと時計を見て、そういえばこの時計は数週間前に止まっていたことを思い出す。電池を買わねばと毎日思っているのだが、毎回、寝る頃には忘れている。
携帯を開けば、8時40分と書いてある。僕の高校の始業時間は8時から。遅刻をしている。
だが、僕はなおも素早く動く気になれなかった。遅刻にはもう慣れている。のそのそと制服に着替え、テーブルに置いてあった乾いたスクランブルエッグと、冷えて中身の沈殿したコーンスープに軽く口を付けた後、学校へ向かった。
昔から、兄貴が嫌いだった。
何が嫌いかと言えば、まずそのルックスだ。何をどう遺伝し間違えたのか、父と母どちらにも似つかない清涼感のある、整った顔に生まれ、父の悪い所、母の悪い所をかき集めてきたような顔の僕を小さい頃から嫉妬させた。
女からもモテた。ファーストキスは幼稚園の頃。年が増えるだけデートの数も増え、過去の女の数も増え、そしてどうやら高校のうちに初体験を済ませ(口にこそしないが、高2の春を境に女への態度が少し変わったのできっとそうだ)、大学では婚約を前提に付き合っている女がいるらしい。
兄貴の才能も嫌いだった。兄貴には絵の才能があった。恥ずかしいからと今は押し入れにしまっているが、昔は玄関に絵画コンクール金賞の賞状やトロフィーなんかが並んでいた。中学で先生に才能を見出され、高校で個展を開き、今は美術学校で勉強中だ。先生のお墨付きをもらっているらしく、プロになるのも夢ではないらしい。また、同人で何か画集を書いて売っている。ルックスも相まってファンも多く、売り上げも好調のようだ。
ちなみに僕は絵なんぞに興味は無く、コンクールで金賞を取った絵も期待しながらも見てみたが、ただ子供がリレーを走っているだけのちっとも面白くない絵で、なあんだ、つまんないのと正直に言ったら殴り合いの喧嘩になった。お前には絵が分からんのだと言われ、全くその通りだと思った。現在、画力は凄まじく緻密で繊細で、さすがにそれくらいは僕にも分かるが、書いているのは机の上にとろけたトランプのカード、といった調子で、気違いじみていて全く理解できない。
さらに憎いのが、そのオールマイティさだ。僕にも眠った才能があるに違いないと一念発起し何か趣味を始めてみると、決まって兄がそれに興味を持って、あれよあれよと僕の技術を追い抜いてしまう。漫画も描いた、小説も書いた、ギターも買った、だが、どれも兄貴に抜かれた。そして、すぐにやめた。まず僕に才能が無いこともあったが、兄貴の存在にすっかり心が折れてしまったのだ。今では、趣味はネットのブラウジングのみという哀れな末路をたどってしまった。
僕がこうもろくでもない人間になったのは、全て兄貴の所為だと思っている。そしてこの嫉妬と憎悪を軽く受け流す兄貴の鼻を、いつか明かしてやりたいと考えている。
学校に着いたものの、僕に遅刻して教室に入るほどの勇気はなかった。もし僕が友達の多い人間なら起こるのは笑いだが、僕の場合は嘲笑か冷笑だ。それに耐えきれる自信が無くて、僕はいつも通り保健室に行くことにした。最近は、保健室で休んで、図書室で本を読んで、を繰り返して教室を避けることにしている。保健室の先生と図書室の先生は、何も言わずに迎えてくれるから好きだ。
保健室に行くと、いつも通り先生が出迎えてくれた。が、女生徒が一人いたのが良くなかった。しかも、見ればどこかで見覚えのある、あろうことかクラスメイトだった。名前は覚えてないが、人気のある人だというイメージがある。彼女にばれれば、また、教室で僕のことが話題になるに違いない。勿論、僕にとっては悪い話題だ。僕は彼女と目を合わせないようにベッドに行こうとした。
「あ、西君」
しかし、女生徒が僕を呼んでしまったのだ。全身が熱くなる。じっとりと、体に汗が滲んでくる。
「西君だよね、君も具合悪いの」
「は、う、うん……」
敬語を使いかけて、慌ててタメ口に変えた。
「そうなんだ、私も。でも、気分良くなってきたから、そろそろ帰るんだ」
生徒は、聞いてもいない事情を笑いながら話した。まるで屈託の無い笑顔で、僕にはそれが少し意外だったが、どうせ今だけに違いない、教室に帰れば絶好のゴシップを手に入れた記者の顔をするに違いないと思い、僕は彼女に相槌することなくベッドに急いだ。
僕はベッドに横になったが、件の女生徒が、もう帰ると言ったくせに先生と耳障りなガールズトークを続ける所為で、まるで眠れなかった。女のこういう所が嫌いなのだ。つまらん話を延々と続けている。どんなにつまらん、批評家からボロクソにけなされるような映画も、女ならば手を叩いて楽しめるだろうなと思うほどだ。彼女が帰るのにもう十五分はかかったが、その際にずっと、元気なら保健室に来るなよ、と、自分を棚に上げた文句すら唱えていた。
女生徒が帰った後も、クラスメイトに見つかった屈辱が僕の小さい心を捻りつぶそうとした。何だか、このまま学校に残るのも嫌だった。一刻も早く家に帰りたかった。僕は、保健室を出てそのまま家へと直行した。まだ、昼休みも始まっていないうちだった。
兄貴の嫌いな部分でも、一、二位を争うほどに嫌いなのが、その説教臭いところだ。自分はできる人間だと思い込んでいる痛い野郎が偉そうに指図する、あの失礼千万な癖が兄貴にもあった。そこで厄介なのが、本当に兄貴ができるということだ。
大学での講義が終わっていたらしく、僕が帰った時に、兄貴はすでに家にいた。
「邦人、学校はどうした」
「今日は早く終わってさ」
「嘘つけ。言っとくが、俺は学校の事情は把握してるんだぞ」
ぺらりと、何か月も前に配られた学校行事表を取り出した。いつの間に取っておいたんだ、そんなもの。
「なあ、お前。いつまでそんな生活続けているつもりだよ」
兄貴は憮然とした顔で僕に話しかけてきた。僕はため息をついた。
「いいだろ、別に。関係ない」
「関係あるさ」
いつもなら、僕の言葉に呆れて「勝手にしろ」と言う兄貴が、今日は妙に食い掛かってくる。説教が長くなりそうだと、うんざりした。
「もう来年には俺は独り立ちするんだ。そうなると、この家にはお前だけになるんだよ。親父たちに迷惑をかけるつもりか。だいたい、お前だってそろそろ大学に行くだろう。いつまでも甘えてるわけにはいかないんだぞ」
「知るかよ、そもそも、僕は大学行かないよ。ちっとも勉強ができないんだからさ」
「大学行かなかったら、学力で周囲に劣等感を感じることになるけどな。お前の一番嫌いな奴だろ。劣等感」
兄貴は、見透かしてやった、といった顔をした後に続ける。
「そうやってずっと言い訳を続けていればいい。逃げ続けていればいい。何もできない大人になるさ。それでいいのか」
兄貴のこの諭すような物言いが、決まって僕の反発心をとことん刺激した。
「どうせ兄貴には何も分からないよ」
捨て台詞を吐いて、僕は階段を駆け上がった。
「おい、邦人」
兄貴の言葉を背に自分の部屋に入り、鍵を閉めた。兄貴が登ってきて、扉を叩いている。
「おい、開けろ。俺はお前のためを思って」
「兄貴には、何も分からない」
叫んで、耳をふさいで毛布にくるまった。兄貴はしばらく扉を叩いていたが、ついにもう無駄だと思ったか「このクズが」と忌々しげに吐き捨てた後に下に降りて行った。その通りのはずだったのに、それに妙に傷ついて、僕は声を上げて泣いた。何か月も洗っていない毛布が、さらに汚くなった。ご飯を食べる気にもなれず、夕食に呼ばれても部屋に籠ったままだった。
泣き疲れたのか、その日はいつの間にか眠っていて、気付けば朝だった。時間は8時30分。とても学校に行く気にはなれず、そのまま毛布にくるまることにした。
そして、そういえば時計が壊れたままであることを忘れていた。だが、電池を買いに外を出るのも億劫だ。あそこの電気店員は、僕をからかっているような薄ら笑いを浮かべているから嫌いなのだ。
僕は止まっている時計をそのままにして、二度寝をすることに決めた。