4:堕天使②
「澄、どうしたんだ?お前、おかしいぞ」
オーディの言葉を受け、澄は手を浸していた泉から視線をオーディに転じた。その目には戸惑いの色が浮かんでいる。
「オーディ?何かわかった?」
今日一日別行動をしていたオーディに一応尋ねてみる。恐らくは無駄だろうが。
オーディは昔からチョクチョク姿を消す。その間何をしているのか解らない。尋ねたところで答えてはくれないだろう。
「いいや」
オーディの声には何の色も、感情も見えない。せめて彼が人間であればその表情から何かを推し量る事が出来るだろうが、猫の表情を読む事は何年たっても出来そうにない。
「で?何があったんだよ」
そのくせ、オーディに澄の感情や思いはつつぬけで、隠し事など出来ない。不公平なその関係が唯一澄に許されたものなのだから仕方が無いのかもしれない。
「正気な人間がいた」
「は?」
オーディがギクリと体を強張らせた。驚きの目で澄を見上げる。その瞳は唯一オーディの多少の感情を澄に伝えてくれるものだった。
「たった一人正気を保っている人間だ」
「お前、そいつ調べろ」
「?」
「今のこの状況がゆがみのせいだけでは無い事はわかるだろう?どう考えても何か別の要因があるはずだ。1人狂っていないというならそれはおかしい。その人間が何か知っている可能性はある」
源が今の状況を作った人間だとは澄には思えない。彼の空気は正気というよりは、とても綺麗で、ひずみのゆがみを増大させようとしている人間にはどうしても思えない。ただ、彼が普通の人間とは思えないのもまた事実だ。
じっと、考え込んでしまった澄を残したまま、オーディが姿を消した。
「明日・・・か・・・」
明日会うことになっている源のいとこ。そのいとこに会うことで何かがわかる、そんな予感がした。
「オーディ、落ち着きなよ」
足元でうろうろとしているオーディに澄は呆れたような眼差しを返した。正気な人間の従姉と会うという話をした時はまさか、オーディがついてくるとは思っていなかったため、かなり驚いた。
約束の時間をとうの昔に過ぎているのに今だ誰も来る気配が無いことにオーディが酷くいらだっているのがわかった。彼は人を待たせる事はあっても、待たされる事を酷く嫌う。
「遅い。本当に来るんだな」
「そう言っていたのだから来るでしょう」
外の景色は夕焼けに変わりつつある。そろそろ下校時間を過ぎてしまうかもしれない。
カツンという音とともに1人の少女が入ってきた。体中傷だらけで、それを見ただけで遅れてきた理由が簡単にわかった。だが、その中にあっても彼女の空気は澄んでいて、源と同じ感じがした。ただ、源よりも強い力を感じる。源の正気はもしかしたら彼女に引っ張られただけなのかもしれない。
「あなたは・・・誰?天使?」
澄は驚いたように目を見張った。今だかつて悪魔や化け物に例えられた事があっても天使に例えられた事は無い。
だが、それよりも驚いたのは少女の瞳から涙が溢れてきたことだ。まるで何かを洗い流すように少女の涙が溢れてきて、床にはじけた。この教室の空気が正常なものに変わっていくような錯覚を感じた。
澄はただ、少女を眺めていた。
真っ青な空間に1人の男がいた。目を瞑り何かを考え込んでいた男は不意に目を開けた。
「アテーナー」
男は何も無い空間に向かって声を掛ける。何の音も無く1人の女が姿を現した。この場所では動く事に意味は無い。皆が同じ場所にいるというのに誰もその他の存在を認識しない。名を呼ばれたときのみ他者と交える事がある場所。それが、この空間であった。
「ゼウス。お呼びで?」
女は意思の強い瞳でゼウスを見る。にらみつけているようにも見えるその様子をゼウスは咎める事をしなかった。
ゼウスが手を振るとその場所に丸い、鏡のようなものが現れた。ただ、それは水の塊であるかのようにゆらゆらと表面が揺らいでいる。彼らが“水鏡”と呼ぶものだ。その水鏡に1人の少女が映し出される。
「賀茂紗依李。この女を調べろ」
アテーナーは女の容貌を頭に留めながら、ゼウスに問いかけるような視線を投げかける。だが、ゼウスがそれに答えてくれない事もわかっていた。彼は決して他者に考えを明かす事はしない。
「地上に降りる」
アテーナーの言葉にゼウスは軽く頷いた。それ以上の言葉を発する事はせず、アテーナーが姿を消すのを目の端に捕らえると、再び瞳を閉じた。




